12 朝の勤め
明日、エウフェミアは早く起きないといけない。ノエは朝六時には起きると言っていた。既に時刻は未明近く。もうベッドに横になった方がいい時間だ。
それにも関わらず、エウフェミアは椅子に座ったままぼんやりとしていた。目の前にはゾーイに貰ったカモミールティーが置いてある。その中身は半分も減っていない。
長く、息を吐く。
これほど気が重い原因は分かっている。――シリルのことだ。
彼とは協力し合うことで話はまとまっている。考え方が違うとはいえ、目的は一緒だ。安心していいはずだった。
だが、エウフェミアはショックからまだ抜け出せずにいた。
正直なところ、あれほど親切だった精霊庁の官吏が利己的な考えを持っているとは思っていなかった。
先ほどの発言を踏まえれば、彼がエウフェミアに水の大精霊を鎮めさせたのも、その功績を得て精霊庁内部での立場を良くするため。今回の依頼も本人が不安だったからではなく、他に思惑があると想像するのは難しくない。そして、本心を語らず、エウフェミアを利用する姿は――伯父と同じと言わざるを得ない。そのことを裏切られたように感じてしまった。
だが、悪いのはシリルではない。こうなったのも、自分の甘い考えが原因だ。――なぜなら、アーネストは最初からその可能性を指摘していたからだ。
『商いの世界も時には騙し騙され合うことがあるが、貴族社会ってのはそれ以上だ。お綺麗な善人みたいな顔して自己の利益しか考えていないような狸みたいなヤツがうじゃうじゃいる。お前の価値を一方的に利用しようとするヤツもいるだろう。お前の伯父のようにな』
期せずして、アーネストのした話は綺麗にシリルに当てはまった。シリルは笑顔で親切に接しながら、自分のために動いていた。そして、そのことに会長はとっくに気づいていたのだろう。
(……会長のおっしゃるとおりだった)
エウフェミアには表面的なものしか見えていなかった。相手の本質を理解してなかった。真意を読み解けなかった。
今更、アーネストのように本質を理解できるようになりたいとのん気に思っていたことが恥ずかしくなってくる。
しかし、そのことを恥じてばかりでは前に進めない。エウフェミアはシリルの依頼を受けてウォルドロンにやってきた。そのうえで彼に協力すると言ったのだ。前言を撤回するつもりはない。
(これからどうしましょう)
何をしたほうがいいのか。何をしないほうがいいのか。それを考えたい。
最初の依頼を受けたときはよかった。あのときはアーネストがいた。信頼ができ、代わりに物事を判断してくれる人がいた。
しかし、今エウフェミアは一人きりだ。アーネストは世界の中心である帝都にいて、馬車で一ヶ月――機関車でも二日かかる距離にいる。助けは求められない。
(皇宮のときとは違う。会長はいない。自分で、乗り越えなくちゃ)
何においても信頼できる相手がそばにいないというのはひどく心細いだと改めて思い知る。しかし、今のエウフェミアは孤独というわけでもない。すべてを委ねるわけにはいかないが、目的が同じ協力者はいるのだ。そのことは救いだ。
翌朝、エウフェミアは時間通りにノエの部屋を訪れた。時刻は六時。それにも関わらず、出迎えてくれた少年は身支度をしっかりすませていた。
「本当に美味しいね。この味を楽しめるのが今回の仕事中だけっていうのが残念でしかたないよ」
「恐れ入ります」
用意したのはペパーミントだ。爽やかな風味で、眠気覚ましにぴったりだ。宿にあったのをグレッグが持ってきてくれたものだ。
今日のハーブティーも気に入ってもらえたことに安堵する。ノエは上機嫌なまま、お茶を飲みきる。そして、カップを置くと立ち上がった。ローブに手を伸ばす。
「じゃあ、僕は朝のお勤めをしてくるから。後片付けよろしくね」
思いもよらぬ行動にエウフェミアは驚く。
「朝のお勤め、ですか?」
「そう。日課だよ。能力を発揮するのに大事なことなんだ」
能力を発揮する、というからには精霊術師として必要なことだろうが――エウフェミアには朝のお勤めの心当たりがない。両親も兄も、伯父も、何かをしていた記憶がない。
(すごく、気になる)
ムズムズと好奇心が膨れあがるのが止められない。エウフェミアは勢いよく立ち上がり、思い切ってお願いをした。
「あの、私もご一緒してよろしいですか?」
「君も?」
言わば、ノエは精霊術の訓練に行こうと行っているようなものだ。その同行を申し出るのはさしでがましいだろう。昨日のうちにシリルに『精霊庁の官吏は、精霊貴族が抱える精霊術の神秘を必要以上に探ってはならない』という掟を教えてもらっている。
「ええ。お一人で出歩くのは危ないです」
もっともらしい理由をつけるが、説得力はなかったようだ。鼻で笑われる。
「悪漢が襲ってきたら僕のことを守ってくれるとでも言うのかい?」
「はい。足腰には自信がありますので、万が一のときはノエ様を背負って逃げられます」
意表を突かれたように目を見開く。それから「あはははは」とツボに入ったように笑い出す。エウフェミアとしては本気でそのつもりだったので、笑われる理由が分からない。
ひとしきり笑い終えると、「いいよ」とノエは許可をくれた。
「そこまで言うならお供してもらおうかな。ただし、邪魔だと判断したら遠くで待ってもらうことになるよ。それは分かってね」
◆
宿を出て、線路沿いを歩く。途中、警備にはあったが、精霊術師のローブを着るノエに敬礼をするが、引き止められることはなかった。
十分ほどしてたどり着いたのは小さな池だ。木々に囲われ、空と緑を反射する水面が美しい。
「水の精霊がたくさんいる場所に来たかったんだ。機関車に揺られていたとき、車窓からここが見えたんだ」
そう言って、ノエは水に手をつけて一度瞼を閉じる。それから目を開け、満足そうに笑った。
「うん。ここが良さそうだ。君が一緒でも問題なさそうかな」
エウフェミアはその様子をじっと見つめる。実際に精霊の話をしているのを見ると、ノエが本当に精霊術師であることを実感する。
彼にはもうエウフェミアには見えないものが見えている。精霊たちの声が聞こえている。そう思うと、言葉が無意識にこぼれた。
「あの。精霊たちは私のこと、なんと言っていますか?」
それはもう、得られないと思っていた答えだ。信じると決めたけれど、直接聞けるものなら聞きたい。
こちらの質問にノエは怪訝そうな、なんとも言えない表情を作る。事情を知らない彼からしたら当然だろう。言葉をつけ加える。
「私、ずっと精霊たちに嫌われてると思っていたのです」
「嫌われてるって、何で?」
しかし、中途半端な情報は余計にノエを困惑させるだけだった。それ以上の事情を語ることもできず、エウフェミアはしゅんと俯く。ノエは呆れたように息を吐く。
「特定の属性の精霊に好かれるってことはあるよ。君も、お茶を淹れるのが上手いから火の精霊に愛されているかもしれない。でも、その場合、他の属性の精霊からは見向きもされなくなるだけだ。嫌われるなんて聞いたことないけど」
そして、当たり前のことのようにそう言った。
「そもそも、精霊たちは大半の人間には無関心だ。そうなったところで困ることはそれほどないけど――」
信じられない発言に、エウフェミアは呆然とまだ若い精霊術師の顔を見る。彼は不思議そうにこちらを見返す。
「どうしたの、その顔?」
「……申し訳ありません。ノエ様がおっしゃることが、その、よく」
一度落ち着くために、一呼吸する。
「——特定の属性の精霊に好かれると、他の属性の精霊から見向きもされなくなる?」
「精霊庁の人間はそんな初歩的なことも知らないのか」
エウフェミアにとって驚愕な事実も、ノエにとっては常識だったらしい。心底呆れ果てたように言う。
「精霊たちはね、他の属性の精霊と関わり合いにならない。特定の属性の精霊に気に入られると、他の属性の精霊はその人間を無視するようになるのさ。大精霊様の恩寵を受けてる精霊術師も一緒だよ。だからこそ、精霊術師は特定の属性の精霊術しか扱えないんだよ」




