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3 雇用契約書


「出来ました。どうぞお召し上がりください」


 エウフェミアは二人の前に料理を置く。作ったのは鶏肉の赤ワイン煮込みだ。鶏以外にもジャガイモや人参といった野菜も入っている。焼いたパンも一緒に並べる。


「お口に合うとよろしいんですけれど」


 ニコニコと笑って二人が食事を始めるのを待つ。しかし、アーネストもトリスタンもこちらを見たまま、一向に手をつけようとしない。


「どうなさいました? 何かお気に召さないことでもありましたか?」

「……なぜ自分の分を用意しない」


 その言葉にエウフェミアは首を傾げる。


「私はお二人のお食事が終わってからいただきますが……」


 アーネストは眉間にしわを寄せたまま、額を押さえる。


「俺はアンタに雑用を頼んだが、使用人みたいな振る舞いを求めてない」

「使用人だなんて、そんな」


 エウフェミアはただ伯父たちと一緒に暮らしていたように振舞っただけだ。伯父一家が食事中、いつもエウフェミアは傍に控え、すぐに動けるようにしていた。自分が食事をとるのは彼らの食事が終わった後。余った残り物を食していた。


(――それを使用人みたい、と言うのかしら)


 アーネストの言葉を否定しようとして、気づいた。そういえば、イシャーウッド家ではいつもエウフェミアは一人で食事をしていた。その間、近くには給仕係が控えていた。きっと彼らはそのあと食事をしていたはずだ。


 イラついたようにアーネストは自分の斜め前――トリスタンの隣の席を指さす。


「とにかく自分の分の料理をよそって、そこに座れ。文句があるならこれも対価の内だ」

「私の分を先にとってしまうとお二人がおかわりする分がなくなってしまいますけれど……」

「大丈夫っスよ。こんだけあれば僕も若様も足りますから」


 トリスタンにもそう言われ、エウフェミアは大人しく自分の分の料理をよそい、トリスタンの隣に座る。ようやく二人が食事をはじめ、エウフェミアもパンに手を伸ばす。


(……誰かと食事をするなんて一体何年ぶりだろう)


 記憶する限り、イシャーウッド家でも伯父一家の下でも誰かと一緒にご飯を食べた覚えがない。きっと、誰かと食事をしたのは――死んだ両親と兄とが最後だ。


 だが、最後の記憶を思い出そうにも思い出すことが出来ない。家族みんなで食事をした風景は覚えているが、本当の最後がどうだったのかエウフェミアには思い出せない。家族の死の前後のことは曖昧だ。


 そんなことをぼんやりと考えていると、一口鶏肉を口に運んだトリスタンが喜びの声をあげた。


「エウフェミアさん! この煮込み料理めっちゃ美味いっスね!」

「そ、そうですか?」

「お肉も柔らかくてジューシーで、味もしっかり染みこんでるし、そもそも味も癖がなくて重すぎもなく――ええ、お店で出してもいい味っスよ! 僕こんなの食べるのはじめてだ!!」

「ほ、本当ですか……っ!」


 エウフェミアは感激した。お世辞ではなさそうな――いや、例え社交辞令であってもこんな風に褒めてもらえるのは嬉しい。思わず笑顔がこぼれる。


「いつも『つまらない味』や『平凡な味』だと言われていて、料理を褒められたことはなかったので……本当に嬉しいです!」


 その言葉にピタリとトリスタンは固まった。向かいで無言でジャガイモを食べていたアーネストはフォークを置き、額を押さえる。


「……トリスタン。いい加減俺はキレそうだ」

「抑えてください。エウフェミアさんは悪くないんスから」

「えっと、その、何か私気に障ることを……? いえ、食事がお口に合いませんでしたか?」

「いいんです。若様はちょっと短気なんスよ。何も文句を言わずに食べてるんで食事も気に入ってるはずですよ。気にしないでください。パンもすっごく美味しいっス」

「ありがとうございます。あ、おかわりは――いえ、おかわりはないんでしたね。申し訳ありません」

「大丈夫っスよ。これだけあれば十分ですよ」


 エウフェミアも夕食を食べ――その日食べた料理はいつもよりずっと美味しかった――、食後の紅茶を淹れる。エウフェミアが席につくと、「それで」とアーネストが話を切り出した。


「これからアンタはどうするつもりだ?」

「これから、ですか?」

「アンタの希望通り、街には連れてきた。そのあとどうするかは考えてるのか?」


 ――そうだった。


 久しぶりにたくさん人と話し、掃除や料理に夢中になっていたせいですっかり忘れていた。エウフェミアは元々考えていたことを伝える。


「ひとまず、伯父様の下へ戻ろうと思っています」

「ガラノス邸にってことか」

「はい」


 マイルズから離縁された以上、エウフェミアが戻れる場所は元々生活していた孤島の屋敷にしかない。伯父に頼んでもう一度あそこで生活することを許してもらおう。きっと優しい伯父なら許してくれるだろう。


 アーネストは淡々と訊ねる。


「どうやってガラノス邸に帰るんだ?」

「それはもちろん、人に聞いて――そうです。ハーシェル様とトリスタン様は伯父様の家がどこにあるかご存じですか?」

「知らない。おそらく知ってる奴はアンタの伯父とその家族くらいだろうよ」

「……ええと、それはどういうことでしょうか?」


 彼の言っていることがよく分からない。補足するようにトリスタンが口を開いた。


「エウフェミアさんは自覚ないでしょうが、本来精霊貴族の方々は我々労働階級の人間からしたら雲の上の上の方々なんですよ」

「ただでさえ、普通に生活してちゃ貴族様なんてめったに見かけねえ。精霊貴族ってなったら尚更だ。帝国から受けた仕事の最中ならともかく、それ以外ではまずお見えできねえ。領地もない。どこに住んでるかも分からない。謎に包まれた一族なんだよ。……噂では屋敷自体を精霊術で隠されてるって聞くな。だから、帝国中を探し回ったところで、見つかる保証はねえな」

「――そんな」


 てっきり色んな人に聞いていけばガラノス邸に帰ることができると思っていた。しかし、二人の話を聞くかぎり、そんな簡単な話ではないらしい。エウフェミアは言葉を失う。


「まあ、上流階級の中には精霊貴族へのコネクションのある方もいるでしょうが……」

「アンタにそういう伝手はあるのか? 言っとくが、公爵以上だぞ。精霊爵は公爵と同等の階級と言われているが、実際はもっと特別な立場だ。アンタの別れた旦那がどうやってガラノス精霊爵とコンタクトを取れたかは知らんが、本来伯爵程度じゃ相手にしてもらえねえ相手だ。そもそも、イシャーウッド伯爵が家から追い出した元妻を助けるとも思えねえしな。アンタは他に公爵夫人か令嬢レベルの知り合いはあるか?」

「……いえ、社交界への出席はしなくてよいと言われていました。そういった知り合いはおりません」

 

 万策尽きる。エウフェミアにはどうすれば伯父と接触できるのか、――いや、これからどうすればいいのか分からなかった。急に目の前が真っ暗になったような気分になった。


 重い沈黙が流れる。エウフェミアは言うべき言葉が見つからない。長い静寂の末、最初に口を開いたのはアーネストだった。


「まず、最初に言っておくが俺はアンタみたいな奴が大嫌いだ」

「若様」


 びくりとエウフェミアは体を震わせる。トリスタンは主人を諌めるが、彼は話を止めない。


「理由は言ったところで理解できねえだろうな。だからこそ、俺はアンタが嫌いだ。——ただ、そのうえで俺は雇用主としてアンタを雇ってもいいと思ってる」


 雇う。その言葉にエウフェミアは瞬きをする。


「アンタの料理の腕は一流だ。トリスタンに聞いたが掃除や洗濯も得意らしいな。うちの従業員の食事作りと洗濯と掃除……そういったことをする管理人としてなら雇ってやってもいい。俺は能力のある奴は好きだ。そして、能力のある奴は正当に評価され、相応の対価を受け取るべきだとも思ってる」


 アーネストの目は真剣だ。だからこそ、エウフェミアは戸惑った。——働く。そんな選択肢が自分に存在するとは思ってなかったからだ。


 彼は鞄から数枚の紙を取り出し、エウフェミアの前に置く。一番上には『雇用契約書』の文字があった。


「これがウチの雇用契約書だ。一言一句全部読め。その上で理解できない内容があったら聞け。内容をよく理解しないまま、『まあいいや』でサインしやがったらぶっ殺す」

「若様、言葉が悪いです」

「契約内容が分からなきゃウチで働いてもいいかの判断もつかねえだろ。とりあえず読め。全部な」


 エウフェミアは戸惑いながらも言われるがまま雇用契約書を手に取る。初めて見る契約書に書かれた文言は難解で読み取るのに時間がかかる。


 労働契約期間はいつまでか、退職を希望する場合の方法。労働時間や業務内容といった具体的な仕事内容について。休憩時間、休日について。そして、給与とその支払日や昇給に関してもが記載されていた。


 トリスタンの補足を聞きながら、エウフェミアは一枚一枚目を通していく。その間、アーネストは煙草を吸うだけで何も言わない。エウフェミアが雇用契約書の全ての内容を理解するのに一時間近く時間が必要だった。


 エウフェミアは顔をあげ、アーネストに質問をする。


「お給与について記載がございますが、お金をいただけるということですか?」

「働いているのに金を受け取れない奴を何ていうか知ってるか? 奴隷って言うんだ。俺が欲しいのは従業員であって、奴隷じゃない。誰かを搾取する気もない」


 そうは言われても、エウフェミアにはピンと来ない。そもそもエウフェミアはお金の存在は知っているが、実際に手にしたことがない。お金がなければ物を買えないということは理解しているが、契約書に書かれた数字がどれほどの価値のものなのか分からないのだ。


「ちなみにこの額は帝都で働く家政婦の一ヶ月の相場よりは少しだけですが高めっス。有給休暇の付与があることを考えれば、労働条件としては破格っスよ。内部の人間である僕が言うことじゃないですけどね」

「……そう、なのですね」


 エウフェミアだってこれから暮らしていくには身を寄せる場所が必要なことは分かっている。そして、生活するにはきっとこのお金というのも必要なのだろう。彼らは困っているエウフェミアを助けてくれた。そして、居場所を与えてくれると言う。エウフェミアは雇用契約書の最後を見る。


 そこには既に雇用者として『ハーシェル商会代表アーネスト・ハーシェル』の署名があった。その下の被雇用者のところは空欄だ。


 エウフェミアはペンを手に取り、空欄に『エウフェミア・ガラノス』と署名をする。息を吹きかけ、インクを乾かす。すると、紙をすぐにアーネストに奪われた。


 彼は見直すように書類をチェックする。


「これで雇用契約成立だな。今日からアンタはウチの従業員だ。俺のことは会長と呼べ。分かったな?」

「分かりました、会長」


 これでまた先のことを心配しなくて良くなる。そのことに安堵したエウフェミアは笑顔を雇用主に向ける。しかし、彼はどこか苦い表情を浮かべるのだった。


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