5 エフィ宛ての客人
アーネストにあの忠告を受けてからというもの、エウフェミアは胸のつかえを抱えたまま、何とも集中できない日々を過ごしていた。
『あの坊っちゃんが本当にもうお前に用がないって思ってんなら、それは表面的なものしか見えてない。相手の本質を理解してないから真意が分からないんだよ』
エウフェミアはらしくもなく、ため息を吐く。
(……会長には何が分かっているのかしら)
同じ物を見ていても、その見え方が人や立場、考え方によって変わることはもう分かっている。アーネストにはエウフェミアに見えない何かが見えているのだろう。
エウフェミアは言葉の裏を読むのが苦手だ。相手がどうしてそういう発言をしているのか。その意図をうまく読み取れない。ハーシェル商会では、訊ねれば皆どういう考えなのかを教えてくれる。だから今までそのことで困ったことはない。――いや、会長は真意を説明してくれないので、全く困らなかったわけではないか。
(どうしたら、会長のように物を見ることができるんだろう)
少し想像してみる。表面的なものではなく、相手の本質を理解できるようになった自分はどういうものだろう。
そうなった自分は、少し誇らしい。そして、アーネストと同じ世界を知れるのは嬉しいことのように思えた。
「――エフィさん?」
名を呼ばれ、エウフェミアははっと顔をあげる。朝食の後片付けをしていたところ、ぼんやりと考え込んでいたようだ。タビサが心配そうにこちらを覗きこんでくる。
「体調でも悪いンですか? それなら、休んでくださって大丈夫ですよ」
「いいえ、大丈夫です。ちょっと考え事をしてしまっていて」
作り笑顔を浮かべてから、エウフェミアは時計を確認する。ぼんやりしている間に思ったより時間が経ってしまっていた。
「タビサさん、食器洗いをお任せしても大丈夫ですか? 私は先に洗濯をしてきます」
食堂にタビサを残し、エウフェミアは洗濯物が置いてある階段下へと向かう。かごを持って、外の洗い場へ向かおうとしている途中、玄関からトリスタンが姿を現す。
「あ、いたいた。エフィさん、ちょっといいッスか?」
「はい。どうかなさいましたか?」
彼が仕事中にやってくるのは珍しい。何か雑用を頼みに来たのか、あるいはアーネストに呼び出されたのか——そんな予想を立てたが、トリスタンが口にしたのは違うことだった。
「はい。エフィさん宛てにお客様が来てます。事務所の方へお願いできます?」
「ええと、私にですか?」
エウフェミア宛てに客人とは初めてのことだ。首を傾げていると、トリスタンはその相手の名前を教えてくれた。
◆
「久しぶりですね。エフィさん」
会長の執務部屋に入ると、部屋の主の他にエウフェミア宛ての客——シリルがいた。服装は皇宮の制服ではなく、公爵子息にふさわしい上等な私服だ。
エウフェミアは本当にシリルがいたことに驚きながらも、挨拶をする。
「シリル様、お久しぶりです。ご用件があったのでしたら、私が皇宮へ伺いましたのに」
「一度、エフィさんが暮らしている場所というのを見てみたかったんですよ。それに、用のある私から出向くのは当然のことです。——さあ、立ったままでは疲れるでしょう。どうぞ、おかけください」
彼はまるで部屋の主人であるかのように、自分が座っている応接ソファの向かいを指す。ちょうどその隣には本当の部屋の主が座っており、目を瞑ったまま身動ぎ一つしない。
エウフェミアは「失礼します」と二人に断ってから、ソファに腰かける。そして、またシリルは主人のようにトリスタンに指示を出した。
「彼女にも飲み物をご用意していただけますか?」
「かしこまりました」
トリスタンは一度肩をすくめてからお茶の準備を始めた。
——なんだか変な気分だ。
ここは自分もよく知るハーシェル商会の会長執務部屋なのに、まるで皇宮の精霊庁の一室のように感じる。今、この場の主導権を握っているのは明らかにシリルだった。
シリルはにっこりと笑う。
「お加減はいかがでしょうか?」
「ええ、はい。元気に働いています」
「そう。それは良かった」
「——どうぞ。新しい紅茶です」
トリスタンが淹れた紅茶を三人の前に置き、冷めた二人分のカップを回収する。
せっかく淹れてもらったものだが、手をつける気分にはなれない。シリルは紅茶に一瞥することもなく、本題を切り出した。
「こうしてハーシェル商会に足を運んだのは、エフィさんにお願いしたことがあったからなんです」
「お願い、ですか?」
「ええ。エフィさんの力をお借りしたいんです」
——くらくらと目眩がした。
まるで、シリルと初めて会ったときの再現のようだ。彼はあの時と同じように微笑んでている。そして、状況を理解しきれないエウフェミアに話を続ける。
「エフィさんは空虚の根をご存知でしょうか?」
それは幼い頃に父が口にしたことのある言葉だ。同時に、精霊庁の資料室にあった教本にも記述があった。記憶を辿り、教本の内容を思い出す。
「……はい。世界の歪み、のようなものですよね? 精霊たちの力も届かなくなり、その土地の存在が危うくなってしまうものだったと記憶しています」
この世界は精霊たちの力で今も維持されている。しかし、時に、その力が届かなくなることがあるという。生き物どころか、すべての存在が揺らぎ、放置すればすべてが『無』に帰される。——そう教本には書いてあった。
シリルは頷く。
「その通りです。空虚の根は非常に危険なものです。発生しただけで生物やその土地に悪影響を与え、放置すれば辺り一帯は創世以前のような『無』に消える。……そういった伝承があります。精霊庁では各地の異変を調査していますが、空虚の根は調査自体を精霊貴族の方々に任せざるを得ません。それほど、普通の人間には手の余るものなんです。それこそ、元の状態に戻す——銷却をしなければならない。それには大精霊様のお力を必要です」
精霊たちの数のバランスが崩れ、災害が起きてしまうことも大変なことではあるが、空虚の根はそれ以上だろう。
「帝国北部ウォルドロンにて——三年ぶりに、空虚の根の発生が確認されました」
そのタイミングでトリスタンが地図を取り出し、テーブルの上に広げてくれる。
シリルが指さしたのは帝国の北部。辺境でも最北端といってもいい場所だった。
「我々は事態を把握し、即座に現在空虚の根の調査を請け負っているキトゥリノ家に報告。ただちにキトゥリノ精霊爵は現地調査を行ってくださいました。そして、その結果、空虚の根の銷却には水の大精霊様に頼るのが最適と判断された。そうして、キトゥリノ精霊爵は精霊庁にガラノス精霊爵への取次を依頼してきました」
伯父の名に心臓がどきりと跳ねる。
「こちらが、ガラノス精霊爵からの返書です」
そう言って、シリルが懐から取り出したのは一通の手紙だった。封蝋の模様はエウフェミアもよく見知ったガラノス精霊爵のものだ。
「読んでもよろしいのですか?」
「はい。通常お見せしないんですけれど――エフィさんには特別です。他の人には秘密ですよ?」
そう言われたものの、隣にはアーネストも座っているし、トリスタンも同席している。
(どうして、お二人の存在をいないものみたいにおっしゃるのかしら)
確かに、トリスタンは位置関係から、アーネストは目をつぶっているため、手紙の中身は見えないだろうが、なんとも不思議だ。
「……拝見します」
シリルの発言に引っかかりを覚えながらも、手紙を手に取った。




