4 銀行にて
銀行は皇宮にほど近い、帝都のメインストリートと呼ばれる場所にある。先ほどと同様歩く人影は少なく、馬車の往来が激しい。
馬車を先に降りたのはアーネストだ。
その後に続こうとして、差し伸ばされた手にエウフェミアは戸惑った。アーネストは一向に手を掴もうとしないこちらを怪訝そうに見る。
「ほら、早く」
「は、はい」
おずおずと彼の手を取って、馬車を降りる。すると、銀行の入口近くに立っていた一人の男がこちらに近づいてくる。
「ハーシェル様。お待ちしておりました」
「ああ。時間を取らせて悪いな」
「いいえいいえ。ではこちらに」
男に連れられ、銀行玄関の大きな扉をくぐる。案内されたのは何人もの銀行員が並ぶ窓口ではなく、応接室だ。
席に座ると、女性が紅茶を運んできた。初めて入る銀行の、それも応接室が物珍しく、つい周りを見回してしまう。それを窘めるように名前を呼ばれる。
「エフィ。コイツは銀行員のミック・エズモンド。ハーシェル商会の担当だ」
「はじめまして。ハーシェル様には日頃から大変お世話になっています」
「で、こっちがエフィ――」
そこで一度言葉を切る。
「エフィ・フロマ。俺の友人だ」
(フロマ?)
彼が伝えた姓はまったく聞き覚えのないものだった。本名であるガラノスでも、便宜的に名乗ることのあるキーナンでもない。
「フロマ様ですね。よろしくお願いします」
「……エフィです。よろしくお願いします」
笑顔を向けてくるエズモンドに、戸惑いながらも返事を返す。挨拶もそこそこにアーネストは早速用件に入った。
「手紙で知らせたとおり、今日は小切手の換金とコイツの銀行口座を作りたい」
「ええ。承ります。小切手を拝見してもよろしいですか?」
「はい」
鞄から取り出した小切手を金属のトレーに乗せる。そして、その額面を見たエズモンドは——それを受け取ったエウフェミアと同じように——言葉を失った。それからパクパクと口を動かし、助けを求めるようにアーネストの名を呼ぶ。
「ハ、ハーシェル様、この方は」
「友人と言っただろう。お前も俺が短気なのは知ってるな? さっさと仕事をしろ」
銀行員が狼狽している時間は長くなかった。
「――上の者を呼んでまいります」
「ああ。迅速にな」
先ほどまでの動揺が嘘のように、礼儀正しくエズモンドは応接室を出て行った。二人きりになったエウフェミアは先ほどの疑問を投げかける。
「あの、フロマというのは」
「口座を作るにはフルネームが必要だからな。キーナンと名乗れば、出身地も下層階級の出ということも露呈する。ガラノスなんてもっと名乗れねえ。うっかりしてたぜ。事前に考えときゃ良かったな」
中流階級以上は姓を持つのがほとんどだ。
地名を苗字にしていれば、すぐに姓を持たないことが知られる。キーナンはそこそこ大きな街だから地名であることは知識があればすぐ気づかれてしまうだろう。
労働階級と知られないことも、彼が以前言った『自分が価値がある人間』と思わせるための手法の一つなのかもしれないと思い、訊ねてみる。
「会長がブロウズと名乗っていないのも同じ理由ですか?」
「それもあるが——」
そこまで答えて、アーネストはあからさまに眉間に皺を寄せた。
「俺の話は今はどうでもいいだろ。とりあえず、エズモンドがお偉いさんを連れてくる。今後の上客に挨拶するためにな。まあ、お偉いさんはお前に色々聞こうとするかもしれねえが、エズモンドも馬鹿じゃねえ。俺の性格ぐらいは上司に伝えるだろ。そんな深掘りはしてこねえと思うが、適当に答えとけ」
その後、戻ってきたエズモンドが連れてきた副部長だという男性は非常に丁寧にエウフェミアに挨拶をしてくれた。
小切手から精霊庁と関係があることも分かっているのだろう。その辺りもそれとなく聞かれたものの、始終アーネストが不機嫌そうな雰囲気を醸し出していたためか、エウフェミアの回答を待たず、話を変えてくれた。
そうして、無事に小切手の換金と口座開設を終えたエウフェミアはまた『ミラー』に戻ることになった。
借りていたドレスを返し、元の服装に戻る。少しくたびれたワンピースを着る鏡の自分を見つめ、先ほどまでのことが嘘のように思う。
試着スペースから応接スペースに向かうと、アーネストが煙草を燻らせている。エウフェミアは深々と頭を下げる。
「会長。今日はありがとうございました」
「お前一人じゃ、銀行に行ったところで門前払いだろうしな。うまく中に入れたとしても、お世辞と口の上手い銀行員に素直に素性を話されて、寮に銀行員が押しかけられても迷惑だ」
きょとんとアーネストを見つめる。
そうは言ったものの、彼はエズモンドにエウフェミアに用件がある際は自分に連絡するようにと言った。どちらにせよ、ハーシェル商会が窓口になるのだ。それほど変わりはないように思う。
少し考えてから、エウフェミアはにこりと笑う。
「少し会長のことが分かったような気がします」
彼と出会ってから八ヶ月。しかし、その多くは雇用主と寮の管理人としての立場でしか話をしていなかった。
それがここ最近は長く時間を過ごす機会があった。ブロウズへ行ったときと、皇宮に滞在したときのことだ。おかげで、自身の雇用主への理解が深まったように思う。
「会長は、ええと、そうです。捻くれていらっしゃるのですね」
少しだけ自信を持って言うと、アーネストは引きつった笑みを浮かべた。
「俺に出会ってからその事実に気づくのにこんだけ時間がかかった奴は初めて見たぜ」
そういえば、確かにトリスタンなどは「若様は天の邪鬼」と言っていたように思う。エウフェミアとしては自分自身で相手のことを深く知れたと思って喜んでいたのだが、それに気づくには遅すぎたらしい。
エウフェミアは肩を落とす。こちらの様子を無視して、「それと」とアーネストは話題を変えた。
「ここの店員には話をしておいた。また銀行に用があるときはここで服を借りろ。ある程度頻度が多いようなら、自分のドレスを仕立てることを勧めるがな」
「何から何までありがとうございます。でも、もうしばらくお世話になることはないと思います」
彼には本当に頭が上がらない。そのことに感謝をしつつも、素直な気持ちを口にした。
「さて、どうだろうな」
しかし、相手はそれを否定した。エウフェミアは首を傾げる。
「……どういう意味でしょうか?」
「アンタ、また今までどおりの生活が送れると思ってるのか?」
そう思っている。しかし、エウフェミアはその質問に肯定することができなかった。彼がそれを否定しようとしているのが分かったからだ。
アーネストは淡々と話し出す。
「あの坊っちゃんはお前に価値があると思った。そして、お前は見事にそれを証明してみせた。それで、もう終わりだと思うか?」
「……困り事は解決しました。もう、シリル様が私に仕事を依頼する理由はありませんでしょう?」
それは奇しくも、ゾーイとしたものと同じやり取りだ。友人の「また何かを頼まれないか」という質問に「もう大丈夫」と返した。
アーネストはどこか遠くを見つめる。
「世の中ってのはアンタが思ってるより、汚いもんだぜ」
その返事は質問の答えになっていなかった。しかし、何か大事な話であることは分かった。
「あの坊っちゃんが本当にもうお前に用がないって思ってんなら、それは表面的なものしか見えてない。相手の本質を理解してないから真意が分からないんだよ」
「会長はシリル様が何を考えているとお考えなのですか?」
シリルは精霊庁の仕事に真剣に取り組んでいる。帝国民のためにも水の大精霊を鎮めたいと考えていた清廉な人物。それが、エウフェミアの理解しているあの青年の像だ。
しかし、それは表面的なものでしかないのだろうか。雇用主の言う本質というのがよく分からない。
エウフェミアはその答えを欲したが、案の定、アーネストは正解を教えてはくれなかった。
「そこまで教えるのはめんどくせえ。そういうことは自分で見極めろ。今後また、あの坊ちゃんと関わり合いになるなら必要なことだろうよ」
そう言うと、アーネストは話は終わりと言わんばかりに目を閉じた。そして、「俺はまだ店に用がある。お前は先に帰っていろ」と言われ、エウフェミアは仕立屋を後にするしかなかった。




