1 商会への帰宅
連載再開しました。
エウフェミアが皇宮を去ることになったのは、水の大精霊の声を聞いてからちょうど一週間——目を覚まして三日ほどが経った頃だった。
「各地からは水害や干害の被害が急速に収まっていると続々と報告が入っています。これも全てエフィさんのおかげです」
「いえ、お力になれて本当によかったです」
シリルから報告を聞いたのは客室の居間でのことだ。
一度目覚めてからまた一日眠ってしまっていたが、今ではすっかり本調子に戻っている。こうして、ソファに座って話ができるほどだ。
「なら、もう帰ってもいいんだな?」
そう質問したのはアーネストだった。
その言葉に、エウフェミアもかれこれ二週間近く皇宮に留まっていることを思い出す。体力の回復に専念し、すっかりそのことを忘れていた。
(寮は大丈夫かしら。……いえ、タビサさんが戻ってるから平気なはずよね。問題はどちらかというとこれほど長い間会長が不在にしていることのほう)
アーネストはトリスタンに任せたから大丈夫と言っていた。しかし、それはかなり負担を強くことになっているのではないだろうか。大急ぎで戻らないと——いや、アーネストを戻らせないといけない。
「ええ、もちろんです。出来れば、エフィさんには安静のためにもうしばらく皇宮に残ってもらいたいところですが……」
「体調はもう大丈夫ですよ」
こちらに心配そうな視線を向けるシリルを安心させるように胸を張る。
「すっかり元気になりました」
「そうですか。それでは、無理に引き留めるわけにはいきませんね」
残念そうに微笑んでから、彼は一枚の紙を取り出す。それをテーブルに置いた。
「これが約束の報酬です。どうぞ受け取ってください」
「ありがとうございます……?」
エウフェミアは小切手を受け取り、目を瞬かせた。
紙に書かれていた数字は、彼女がこれまで目にしたどんな金額よりも桁違いだった。
(これ、本当に合ってるの……?)
ハーシェル商会の毎月の給与の千倍以上。寮の仲間たちが何年もかけて働いても到底手にできないような額だ。
「見せてみろ」
アーネストは呆然とするエウフェミアの手から小切手を奪い取る。額面を確認し、「こんなもんか」とまるで正反対の反応を示した。
シリルは申し訳なさそうに言う。
「それでは少なかったでしょう?」
「い、いいえ。そんなことは全くありません」
どうやら上流階級ではこれぐらいの金銭のやり取りは当たり前のようだ。
精霊貴族出身とはいえ、ハーシェル商会に来るまで貨幣を見たことすらないエウフェミアには心臓に悪い金額だ。トランクにしまうのが恐ろしくて、服の内ポケットにしまう。
アーネストは立ち上がると、準備していたトランクを手に取った。
「じゃあ、これで俺たちは失礼するよ。世話になったな」
「ええ、まったく本当に。——エフィさん、馬車まで見送ります」
そうしてエウフェミア達は二週間前に通った道を戻る。既に馬車が用意されており、行きと違い、馬車の中に見張りの官吏の姿はない。
「本当にありがとうございました。エフィさんは本当に素晴らしい精霊術師です。あなたのおかげで多くの民が救われた」
「いいえ」
感謝するのはエウフェミアの方だ。シリルが皇宮に呼んでくれたおかげで、自分に精霊術師の能力が残っていることを知り、水の大精霊に再び見えることもできた。
そのことを直接伝えることはできないが、せめてもと気持ちを言葉に込める。
「私こそ、ありがとうございました」
深々と頭を下げる。こうして、エウフェミアの役目を終わりを告げた。馬車に乗り、ハーシェル商会を目指す。
「会長もお付き合いいただいて、ありがとうございました」
「まあ、たまの長期休暇だ。のんびり過ごすのも悪くなかったさ」
坂を下り、馬車はどんどん南下していく。そして気づけば周囲は見覚えのある商業区域のものへと変わっていく。
——懐かしい。
二週間も離れていないのに、ハーシェル商会がとても懐かしく感じる。今すぐに寮へ戻りたい。そんなうずうずとした気持ちが湧きあがってくる。
ハーシェル商会の事務所前に馬車が止まる。エウフェミアが馬車を降りると、玄関にいた従業員がすぐにこちらに気づいた。
「エフィちゃん! 会長! ——おい、二人が帰って来たぞ!」
彼の呼び声で建物から何人もの同僚達が飛び出してくる。その中にはゾーイの姿もあった。
「ゾーイ」
「エフィ、おかえり!」
エウフェミアは半歩後ろに下がって、抱きついてきたゾーイの身体を受け止めた。他の従業員たちも嬉しそうにこちらを囲んでくれる。中には涙ぐむ人の姿もある。
「皆、心配してたんだぞー! 大丈夫だったか?」
「会長はともかく、エフィちゃんみたいなか弱い女の子を二週間も拘束するなんて、ひどい奴らだよなあ」
「俺、すげえ寂しかったんだよ。エフィちゃんの笑顔も見れないし、エフィちゃんの美味しいご飯も食えねえし。帰ってきてくれて嬉しいよ」
「自分勝手なこと言うんじゃねえよ。エフィが心配しちゃうだろ」
会長が不在で彼らも大変だっただろうに、皆純粋にエウフェミアのことを心配してくれている。そのことが嬉しくもあり、申し訳なくも思う。
周囲を見まわし、エウフェミアは謝罪を伝えた。
「皆さん、ご心配とご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」
「エフィちゃんが謝ることじゃねえよ! 全部悪いのは役人の奴らだ!」
「そうだ、そうだ」と他の従業員も同調する。
そこにまた慌てたような足音が近づいてくる。事務所の玄関を見ると、息を切らして現れたのはタビサだった。
その顔を見てエウフェミアは安堵する。
「タビサさん」
彼女とこうして再会するのは一ヶ月ぶりだ。
インズ村に帰郷して以来、一度も顔を合わさないままでいた。精霊庁に呼び出されたり、寮の管理を一人でする羽目になったりと、この一ヶ月はタビサにとっても怒涛の日々だっただろう。最後に別れたときと変わった様子がないことに安心する。
しかし、再会を喜んでいるのはこちらだけのようだった。最初、タビサは泣きそうな表情を浮かべたが、それはすぐにバツの悪そうな、不安そうなものに変わる。
「……エフィさん……、あの、ワタシ……」
タビサは両手をすり合わせながら口を開いたが、それ以上の言葉は出てこなかった。俯き、ぐっと唇を噛む。
——どうしたのだろう。
彼女の様子を怪訝に思ったのはエウフェミアだけではなかった。自分を取り囲む従業員も、ようやく体を離したゾーイもタビサを心配そうに見つめる。
喧騒が落ち着いたところで、バン、と大きな音が響いた。
全員がそちらを向くと、それまで空気だったアーネストが馬車の扉をトランクで叩いたところだった。従業員全員の注目を集めた雇用主が低い声で恫喝する。
「お前ら、さっさと事務所の中へ戻れ。今はまだ就業時間だ。遊ぶ時間じゃねえ。サボってるとその分、給料から減らすぞ」
気づけば、周囲に集まっているのはハーシェル商会の人間だけではない。少し離れたところから近隣の建物の同業者や通行人が何事かとこちらを窺っている。
アーネストの言葉で従業員達は蜘蛛の子を散らすように解散する。エウフェミアもゾーイに手を引かれ、建物の中に入る。必然的にタビサの前を横切る形になるが、彼女は顔を背け、こちらと視線を合わせてもくれない。
玄関にはタビサだけでなく、トリスタンの姿もある。アーネストは彼に無言でトランクを押しつけた。
「お帰りなさい、若様。——エフィさんも、お疲れ様っス」
「ん」
「トリスタンさんもご迷惑をおかけしてしまい」
「そういうのは今はいい。後でやってくれ。ここじゃ落ち着いて話もできん」
こちらの謝罪を無理矢理止めると、眉間に皺を寄せたアーネストはタビサを振り返る。
「タビサ。お前にも聞きたいことがある。ついてこい。エフィもな」
そう言い残し、会長はさっさと階段を上っていった。




