16 まどろみの中で
とても、長い夢を見た気がする。懐かしくて、温かくて、でも、悲しい夢。
しかし、その内容は意識の浮上と共に記憶から消えていく。エウフェミアが目を開いたとき、自分が夢を見ていたということさえも忘れ去っていた。
意識を取り戻したエウフェミアの視界に絢爛な装飾が施された天井が映る。それは、ガラノス邸のものでも、イシャーウッドの別邸のものでも、ハーシェル商会の寮のものでもない。少しして、それが皇宮の客室の天井であることに気づく。
「ああ、起きたか」
人の声に顔を動かすと、少し遠くに黒髪の青年の姿を見つける。壁際に置かれた椅子に座っていた彼は、持っていた本を閉じると立ち上がった。エウフェミアが横になるベッドに近づいてくるのを見て、ようやくその人物が誰だったかを思い出す。自分の状況もだ。
「かい、ちょう。上手く、いったのですか?」
掠れた声で尋ねると、アーネストは一瞬笑う。
「さあな。レイランドの坊っちゃんは祭壇の間の水が光り輝いたのを目撃した。それが水の大精霊に祈りが届いた証拠だとあの坊っちゃんは思ってくれているみたいだが、各地で起きている水害や干害がどうなったかの報告はまだだ。そろそろ届いてもおかしくねえ頃だが、今朝は何も言われなかったな。もう何日かはかかるんじゃねえのか」
確かに精霊庁側では各地の災害が収まらねば、水の大精霊の心が鎮まったとは判断できないだろう。そして、その報告が届くまで数日。下手をしたら一週間はかかる。そこまで考えて、エウフェミアは違和感を覚える。
エウフェミアの記憶では朝アーネストと別れ、祭壇の間へ向かった。その彼が『今朝』という言葉を口にするのがおかしい。しかも、数日はかかるはずの報告を『そろそろ届いてもおかしくない』と表現するのも変だ。
「……私は、どれくらい、眠っていたの、でしょうか?」
「丸三日。今日はお前が眠ってから四日目だよ」
想像以上の長さに言葉を失う。しかし、その事実を告げた当人はどこ吹く風だ。
「まあ、これでお前のやることは終わったみたいだからな。結果が出るまでもうしばらく休んでるといい」
「…………分かりました」
本当は今すぐ起きあがりたいが、身体はまだ重い。言うことを聞くしかなさそうだ。
今自分が目覚めたのはあくまで眠りが浅くなっただけだったのだろう。再び眠くなってくる。次に目が覚めるのはいつだろう。
そんなことを思いながら、男を見上げる。
「水の中で……水の大精霊様にお会いしました。ちゃんと、私の声が届いたんです。私の言葉を、聞いてくださいました。……全部、会長のおかげです」
ありがとう、と感謝の言葉を伝える。降ってきたのは穏やかな声だった。
「いいや、言葉を届けたのはお前だ。お前の言葉だったから届いた」
それでも、自分だけなら辿り着かなかったと思う。今、自分がここにいるのは彼の優しさのおかげなのだ。あの日、アーネスト達に助けられ、ハーシェル商会で働くようにならなければ、水の大精霊に再会することも、彼女に届く言葉を思いつくこともできなかっただろう。
だから、エウフェミアは伝える。
「会長、私に居場所をくださって……ありがとうございます」
そうして、また意識は夢の世界へと沈んでいった。
◆
そう言うやいなや、再び少女は瞼を閉じた。安らかな寝息が聞こえてくる。
(寝たか)
普通の精霊相手になら精霊術をバンバン使えていた彼女でも、大精霊を鎮めるというのはかなりの大仕事だったらしい。
彼女の手を取り、脈を測る。その速さが正常なことを確認してから、このことを報告するべきか考える。
シリルはきっとエウフェミアが一度目覚めたことを知りたがるだろう。しかし、彼女はまた眠ってしまったし、医師を必要とするような異常もない。目が覚めたということは身体は回復に向かっているはずだ。
(まあ、明日の朝伝えればいいだろ)
もちろんそれは明日の朝まで眠り続ければの話だが――そう、結論づけ、エウフェミアの手を掛け布団の下に戻す。そして、先程の彼女の言葉を反芻する。
『私に居場所をくださってありがとうございます』
溜息をつく。そして、人が誰もいないことをいいことに本音を呟く。
「別に俺は大したことしてねえんだけどな」
確かに行き場がない彼女に職場という新しい居場所を与えたのは自分だ。しかし、そこで仕事に励み、同僚たちと人間関係を築いたのはエウフェミア自身だ。
水の大精霊を鎮めるために知恵は貸したが、結局それを成し遂げたのも彼女自身の力。解決までの時間短縮は出来ただろうが、自分がいなくてもこの結果は変わらなかった。レイランド公爵の二男坊にだって、自分と同じことはできただろう。
静かに眠る少女の顔を見る。そもそも、彼女は他人の善性を過大評価する傾向にあるが、それは自分に対してもそうだろう。助けてくれた恩人として、雇用主として、必要以上に信頼されているような気がする。
「……馬鹿だな。なんにも知らねえくせに」
あの日なぜ廃道を馬車で走っていたのか。なぜ彼女を雇ったのか。どうして今日まで皇宮に残っているのか。――そのどれも、彼女は知らないのだ。
しかし、そのことを彼女に明かすつもりはない。いずれ彼女が真実を知る日が訪れるまで――いや、その日が来たとしても、口をつぐみ続けるかもしれない。
ふと、少女の銀色の髪が目に入る。それは元々青だったという。
――深い深い、海のような青。
長い年月が経っても、未だあの色を忘れられない。目を閉じれば、あの鮮やかさを鮮明に思い出せる。きっと、自分が死ぬその日まで、あの色を忘れることはないだろう。
男は独りごつ。
「大丈夫。お前の願いくらいは叶えてやるさ。――イオエル」
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