11 朝食と交渉
階段を上り、到着したのは見晴らしの良いバルコニーだった。広大な皇宮や帝都の街を一望できる。
「素晴らしい景色ですね」
「気に入ってもらえて光栄です。さあ、こちらにどうぞ」
バルコニーにあるテーブルに誘導され、シリルが引いた椅子に座る。丁重なもてなしに、思わず背筋が伸びる。少し気恥ずかしさもあった。
二人が席につくと、使用人が現れ、紅茶を淹れてくれる。シリルは上機嫌に笑う。
「こうしてお声をかけていただけるとは思ってもいませんでした」
「その、ご迷惑ではありませんでしたか?」
「そんなことはありませんよ。ここ数日は精霊庁の執務室で一人寂しく質素な食事ばかりでしたから。久しぶりに誰かと食べられるのは嬉しいです。しかも、そのお相手がエフィさんだなんて、私は本当に幸運な――」
「そうなんです! 私もそう思っていました!」
エウフェミアはついはしゃいだ声をあげてしまう。
「やはり一人での食事は味気ないものですものね。お誘いしてよかったです」
昨夜、エウフェミアも久しぶりに独りで夕食をとったがそれは寂しいものだった。
同じ感情を共有できるなんて嬉しいと、エウフェミアは喜んだ。しかし、シリルはどこか戸惑った様子だ。そのことに気づかず、質問をする。
「レイランド様は今は皇宮に泊まっていらっしゃるそうですね。ご自宅は帝都なのですか? 一緒にお住まいのご家族の方はいらっしゃるのですか?」
「……ええ。あそこの屋根が黒い屋敷が分かりますか? あそこがレイランド邸です」
彼が指差したのは帝都の貴族用居住区域だ。その中でも皇宮に近い、区域の中でも大きな屋敷だ。
「父と母と兄と弟。五人で暮らしています」
「ご兄弟が二人もいらっしゃるのですね。同性の兄弟がいるのは羨ましいです」
幼い頃、エウフェミアは姉妹が欲しかった。今でこそ兄がいて良かったと思うが、当時はからかわれたり意地悪をされることが嫌で嫌で仕方なかった。優しい姉か可愛い妹が欲しいと願った。
その後、従姉妹と一緒に暮らせることになり、最初は喜んだが――その生活が望んでいたものと違っていたのは説明する必要もないだろう。
シリルはにこりと笑う。
「エフィさんはお兄さんがいたそうですね」
「はい、そうです。四つ——」
そこまで言って、口ごもる。
(いけない。素性が知られかねない情報は伏せておかないと)
兄がいたこともタビサから聞いていたのだろう。しかし、それ以上の細かい話はしていなかったはずだ。
こちらの焦りを気づかれないよう、急いで笑みを作る。
「わ、私のことよりレイランド様のお話を聞きたいです」
「そうですか? 私はエフィさんのことを知りたいな」
――なんという平行線だ。
隠し事をしながらの会話というのはなんと難しいのだろう。上手い話の逸らし方も分からない。アーネストに交渉してくると宣言したのになんという醜態だろう。
エウフェミアが黙り込んでいると、シリルが口を開いた。
「それにしても、いつまでも『レイランド様』なんて他人行儀な呼び方だと悲しいです。呼び捨てで、敬語もなしで結構ですよ」
気を遣って話を変えてくれたのだろう。エウフェミアは安堵の息を漏らし、会話に乗る。
「そんな。公爵家の方にそんな話し方は出来ません」
「ではせめて呼び方だけでも変えてはくれませんか? 精霊庁には父や兄も含め、レイランドを名乗る者は四人もいます。姓だと自分だと分からないこともあるんですよ」
確かに彼の言い分はもっともだ。エウフェミアもガラノス様と呼ばれてもうまく反応できないかもしれない。
――それくらいなら失礼に当たらないだろう。
そう思い、エウフェミアは改めて本題を切り出した。
「では、シリル様。一つお願いがあるのですが、聞いていただけませんか?」
「一つと言わず、いくらでも聞きますよ」
「許可をいただきたいのです」
直接的に要求を伝えないことに不信感を抱いたのだろうか。シリルの目が僅かに冷たくなった気がした。
「……どのような許可でしょうか?」
「会長が煙草を吸う権利を。あの方を来賓とお認めいただけませんか?」
シリルはこれ以上ない不快感を表情に表した。エウフェミアに対してここまであからさまな感情を向けるのは初めてだ。
「エフィさん。これでも私は譲歩しているつもりです」
彼は深々とため息を吐く。
「使用人や下働きの者を除けば、皇宮に立ち入りが許されるのは上流階級だけです。エフィさんは精霊貴族の縁者ですが、あの男は違う。多少金を持っているだけのただの商人です。それも長く帝都に店を構える老舗の店主ではなく、ここ数年台頭してきた成金だ。身なりはそこそこ整えてはいますが、その本性は獣です。彼が社交界の一部でどう呼ばれてるかご存知ですか?」
「……いいえ」
「ブロウズの雑犬、です。彼は常に金の匂いを探し、それを巧妙に嗅ぎ当てることができる。確かに彼は良い品を扱っていると聞きますが、それはあくまで“扱っている”だけ。彼は腕のいい職人でもなければ高貴な貴族でもない。所詮は、才覚と強かさだけでのし上がった成金――そう見られても仕方ありませんよね」
彼がアーネストに対して好感を抱いていないことは分かっていた。その理由は自身に反抗的な態度を取っているからだと思っていた。
しかし、そもそも公爵子息であり、精霊庁の官吏である彼にとって『商人』という職業は低俗なものらしい。商人ではないが、商会で働くエウフェミアにはそのことが悲しい。
ハーシェル商会の誰もが仕事に対して真面目で、誇りを持って働いている。そのことを訴えたかったが、エウフェミアにはシリルを説得できるだけの教養を持ち合わせていない。
それに今しているのは喫煙を許可してもらうことだ。商人という職業を認めてもらうことではない。エウフェミアは出来るだけ感情を殺して話す。
「シリル様がどう思われようと、あの方は私のために皇宮に残ってくださっています。今回の依頼のために知恵を貸してくださっています。私を来賓とおっしゃってくださるなら、会長も来賓と認めてください」
「申し訳ありませんが、認められません」
穏やかだが、ハッキリとした口調と断られる。シリルの意思は相当に堅いものらしい。——だが、そこをひっくり返してこそ、交渉ではないだろうか。
「では、こちらも対価を支払います」
エウフェミアは唯一の手札を切る。
「今の私のことであれば何でも聞いてください。お答えします」
「……何でも?」
「はい。……ハーシェル商会のエフィについてなら、何でもお答えします」
きっと、それは官吏であるシリルには拙い交渉術に思えただろう。エウフェミアには有効に情報を小出しにして立ち回るようなことは難しい。できるのは手元のカードを提示することだけ。
もしかしたら、彼はやろうと思えば、それ以上の情報――例えばエウフェミアの過去について――を対価に上乗せすることもできたかもしれない。しかし、シリルは少しの思案で、エウフェミアの商談に応じてくれた。
「分かりました。エフィさんの熱意に免じて許可を出しましょう」
彼は満足そうに、美しく笑った。
「では、まずエフィさんの日々の暮らし方から聞いてもいいですか?」
それからエウフェミアは聞かれるがまま、全ての質問に答えた。仕事のこと。日常のこと。好きなもの。好きな色。好きな食べ物。逆に嫌いなもの。苦手なもの。そういった他愛もない問いを一つ一つ重ねていく。
そうしているうちに時間が来たのだろう。バルコニーに食事を持って使用人が現れる。それを見て、シリルは「では、これを最後にしましょう」と言った。
「ハーシェル会長はあなたにとって、どういう存在ですか?」
それは穏やかだが、どこか核心を突くような声音だった。
「……会長は私を雇ってくださった雇用主、恩人です」
「本当にそれだけですか?」
他の質問同様、答えは滑らかに出てくる。しかし、追及が続く。
「あなたにとっても、ハーシェル会長にとっても。ただの雇用主と従業員という関係でしかないのに、エフィさんは彼のためにこうして私と交渉をしているし、彼は彼でエフィさんのために皇宮に残っている。それだけとは私には思いにくい」
確かにエウフェミアも疑問に思う。なぜ、アーネストは今も商会に戻ろうとしないのだろう。
最初はタビサの身柄の問題もあった。エウフェミアがどういう用件で呼び出されたかも分かっていなかった。依頼を引き受けた際は精霊術が使えるかどうかも不明確だった。
しかし、もうアーネストの知恵を借りることはないだろう。実際、あれ以降エウフェミアが報告をしても、アーネストから何かアドバイスを受けることはない。何か理由があってのことだろうが、エウフェミアには分からない。
「私にとっては、雇ってくださったことがこれ以上ないほど重要なことです。会長のお考えは、私にもよく分かりません」
正直な気持ちを答えると、シリルは「そうですか」と微笑んだ。
「預かっていた煙草を用意させましょう。……それまでは、せっかくの朝食を楽しんでください」




