8 水の祭壇
皇宮で迎えた二晩目は、初日よりもいくらか深く眠れた気がした。
少しだけ晴れた気分で居間に向かうと、既にアーネストの姿がある。その様子がいつもと違うことに気づき、戸惑いながら声をかけた。
「あの、どうされたのですか?」
「——あ゛?」
こちらを見る——いや、睨みつける目つきは苛立ちに満ちている。人差し指で机を叩く様子も、どう見ても明らかに不機嫌なことが分かる。アーネストは「クソ」と悪態つく。
「昨日から煙草が切れてんだよ。使用人に聞いても、皇宮に煙草なんか置いてねえって言いやがる。……なんて気が利かねえ場所なんだ」
今回、アーネストは荷物を持ってきていない。煙草もポケットに入れていた一、ニ箱だけ。それは二日と持たなかったようだ。
エウフェミアが記憶するかぎり、アーネストはかなりのヘビースモーカーだ。喫煙者は煙草がないと苛々しやすいというのは聞いたことがある。その症状が出てきたのだろう。
ずっと不機嫌そうなアーネストを心配しながら、エウフェミアは朝食を済ます。昨日と同じ時間にシリルが現れたが、昨日と違うのはその後ろにいる官吏が見覚えのあるトランクを持っていたことだ。
「お二人共、おはようございます。ハーシェル会長にはお届け物があります」
それは出張の時にアーネストがいつも使っているトランクだ。 官吏がそれをテーブルに置くと、シリルがにこやかに言った。
「ハーシェル会長はとても上司思いな部下をお持ちですね。昨日、トリスタンさんという方が荷物を持ってきてくれました。危険物が入っていては困りますからね。荷物検査に少しお時間をいただきましたが、問題ないことを確認しましたのでお渡しします」
アーネストはトランクを開け、中身を確認する。
きっとトリスタンのことだ。煙草も入れてくれているだろう。エウフェミアはタイミングの良い届け物に安堵したが、トランクを閉めたアーネストの顔は険しいままだった。シリルを睨みつける。
「おい。中身抜いてねえだろうな」
「言ったでしょう? 危険物がないかのチェックをしました。煙草はこちらでお預かりしましたよ」
「はあ!?」
アーネストは乱暴にテーブルを叩いた。しかし、シリルはすまし顔だ。
「一昨日の件、まだ根に持ってるのかよ。了見の狭い野郎だな!」
「まさか。そんなわけないじゃないですか。部下は仕事をしたまでですよ。でも、ちょうどいいのではありませんか? 会長はずいぶんと享楽的な生き方をしているみたいじゃないですか。たまには節制した生活というものを過ごすのはいかがですか? ああ、お預かりした煙草をきちんとご返却いたしますのでご安心ください。商会にお戻りになる際に、ですが」
「――クソ!」
急に立ち上がったと思うと、アーネストは寝室へと戻っていってしまった。勢いよく扉が閉まる。
シリルはしてやったりとでも言うような笑みを浮かべた。
「ハーシェル会長は気の短い方ですね」
「あの、本当に皇宮には煙草を持ち込んではいけないのですか?」
その場合、昨日一昨日と煙草を吸っていたことはどうなるのだろう。アーネストが客室で喫煙していることは使用人も把握しているはずだ。何か罰せられては大変だ。
少しの時間こちらを見つめてからシリルは答える。
「来賓であれば問題ありませんよ。ですが、それ以外の方には遠慮してもらっています。元々ハーシェル会長が持っていた分についてはこちらのチェック漏れです。これまでの分は不問にしますよ」
それは無理を言って皇宮に滞在しているアーネストは来賓扱いしないということか。エウフェミアは困り果てる。しかし、シリルはこちらの様子を気にする素振りもなく話を進める。
「それより、昨日話したように祭壇の間に案内してもいいですか? きっと気に入ってもらえると思いますよ」
◆
皇宮にはそれぞれの精霊貴族が滞在する宮殿が七つある。エウフェミアが足を踏み入れたのはそのうちの一つ、『水殿』である。皇帝より呼び出された際にガラノス家が使うという建物は今は誰もいない。静まり返った廊下をシリルに連れられて進む。
「ここが水の祭壇の間です」
大きな扉を開けた先に広がるのは円い形の広い空間だ。白い円形の柱が何本もそびえ、部屋の奥には女性の像が見える。部屋全体は窪んでおり、そこには水が溜まっている。人が歩ける場所は像の近くまで続いている細い道だけだ。
「ここの水は皇宮の地下深くのものです。水の大精霊様への捧げものとして決して濁ることのないよう、常に水は新しいものを汲み上げ続けています」
よくよく見れば、ゆっくりだが水が流れているのが分かる。地下水を汲み上げ、流し続ける。そういった技術が組み込まれているのだろう。エウフェミアは落ちないように気をつけながら、水面を覗きこむ。
深さは何メートルあるのだろう。上から見ると水深は浅く見えるものだが、エウフェミアの目にはそれなりの深さがあるように見える。きっと立つことはできない深さだろう。そして、それだけの深さがあるのに、底が見えるほど水は澄み切っている。
「この水は神聖なものです。触れることは禁じられています。ただ、水の精霊術師であればそのかぎりではありませんよ」
エウフェミアであれば触れてもいいということだろう。像の手前で足を止めたシリルの近くへ寄る。像は見上げる官吏に倣い、エウフェミアもそちらを見た。
近くと言っても、まだ手前には五メートルほど水面が広がっているため、像までは少し離れている。それでも、像は実物大の人ほどの大きさだろう。形は髪の長い女性を模している。ここが水の祭壇、ということを考えれば、それが水の大精霊であることがすぐ分かった。
「あれは十代皇帝の命で作られた水の大精霊様の彫像です。とても美しいでしょう?」
「そうですね」
シリルの意見に同意しながらも、エウフェミアは違和感を覚えていた。
確かにその彫刻は美しい。これを作り上げた彫刻師の腕は一流だっただろう。だが、その像はエウフェミアが実際に会った水の大精霊とは雰囲気が違う。
本物の水の大精霊は妖艶な雰囲気を持つ美女だったが、この像の女性は神秘的な雰囲気を持つ美女だ。信仰の対象という意味ではこちらの方が大精霊らしくはあるが、想像で彫られたことは間違いなさそうだ。
「以前、今回のように水の大精霊様のお心が乱れたとき、当時のガラノス精霊爵がここでその心を落ち着かせたと聞いています。水の大精霊様に語りかけるのに、この場以上に相応しい場所はないでしょう。祈りの間は邪魔にならないよう、私は退出していますね」
そう言って、昨日と同じようにあっさりとシリルは祭壇の間を出て行った。残されたエウフェミアはポケットから精霊石を取り出す。
(これを持って祈れば、きっと)
未だ、精霊術の使い方はよく分かっていない。それでも、書物に書いてあった通りのことを実践する。その場に傅き、精霊石を握り、目を閉じる。
「水の大精霊様。どうかお心をお鎮めください」
祈雨のお守りにしたのと同じように、祈りの言葉を口にする。
しかし、何度祈りを口にしようと、心の中で願おうと、変化が起きることはなく。水面に映る自分の姿が、ただ静かに揺れているだけだった。




