1 通りすがりの商人
その日、エウフェミアは馬の嘶きで目を覚ました。
(――もしかして)
慌てて寝床を飛び出し、道路へと向かう。今まで誰も通らなかった道に一台の馬車が停まっていた。
その横では金髪の男が車輪を覗き込んでいる。人の姿にエウフェミアは嬉しくなり、声をかけた。
「どうかなさいましたか?」
「――うわああ!!」
突然声をかけられた男は言葉通り、飛びあがった。振り向いた彼は質素な服装から、馬車の御者のように思えた。おそらく年齢は二十代後半くらいだろうか。
エウフェミアを見て男は細い目を見開く。その様子をまったく気に留めず、エウフェミアはもう一度訊ねる。
「何かお困りごとですか? お手伝いできることはございますか?」
この周辺は昨夜雨が降った。そのせいで道はぬかるんでいる。見たところ、車輪が嵌まってしまったようだ。エウフェミアはそれほど力に自信はないが、一人より二人のほうがいいだろう。
そう思って助力を申し出たが、男は口をパクパクしたまま返事をしない。エウフェミアは首を傾げる。一体、なぜ彼はそこまで驚いているのだろう。
「お困りではないのですか?」
「そ、それはこっちの台詞ッスよ! お嬢さんこそ、なんでこんなところに一人でいるんですか? しかも、ボロボロじゃないですか」
そう言われ、エウフェミアは思わず自分の服に視線を落とす。ドレスは泥まみれ、裾も破れている。――人前に出る恰好ではなかった。
「失礼いたしました。みっともない姿をお見せてしまいましたね。森で生活してる間に少し汚れてしまったもので」
「えーっと、ここで生活って……。このあたりに街も村もなかったように記憶してるんですけど」
「はい、そうなんです! 毎日この辺りを歩き回ってるんですが、まったく家がなくて。あの、どこか人のいる場所に出たいのですけれど、どちらへ行けばいいのでしょうか? 道を教えていただけませんか?」
「ええと」
これを逃せば次に人に遭遇するのがいつか分からない。期待を込めて訊ねるが、どうにも男は戸惑っているようだった。――そんなとき、割って入る声があった。
「道ぐらいだったらタダで教えてやってもいいが、女の足だと三日はかかるぞ」
馬車の扉が開き、一人の青年が降りてきた。金髪の男はホッとしたような表情を浮かべる。
「若様」
「近道をしようと思ったらとんだ時間の浪費だな。急がば回れってのは正しい教訓だったわけだ。なあ、そう思うだろ、トリスタン」
そう言ってニヤリと笑ったのは癖のある黒髪の男だった。瞳の色も髪と同じ黒で、少し垂れているが鋭い目つきをしている。おそらく年齢は二十代半ばくらいだろうか。
着ている黒の服は元夫の着ていた物と趣向は違うが、同等に上等の物に見える。彼がトリスタンと呼ばれた男の主人で、この馬車の持ち主なのだろう。
主人の言葉にトリスタンは辟易としたように反論する。
「この道を通ろうって言ったのは若様っスよ」
「ああ。だから、俺の判断ミスだな。――で、アンタ。本当に街まで歩くつもりか?」
二人のやり取りをぼんやりと見ていたエウフェミアは男に言われ、ハッと我に返る。
「ええ。足腰には自信があります」
「分かるか? 三日だぞ。二晩は野宿する羽目になる」
「大丈夫です。もう何日も外で寝起きしていますから。二晩くらいなら大丈夫です」
その言葉に男は御者と顔を合わせる。
「アンタ、いつからここにいる」
訊ねられ、エウフェミアは記憶をたどる。
「一週間ほど前からです。全然人が通らなくて困っていたのです。こうしてお二人に会えたのは幸運です」
そう言うと、トリスタンは顔をひきつらせた。主人は表情一つ変えず、淡々と言う。
「まあ、この道は廃道になって長いからな。俺たちみたいなせっかちじゃなきゃ、通ろうとは思わねえだろうな」
「廃道、ですか?」
「ここから南に通りやすい広い道路が整備されてんだよ。いくら待っても人っ子一人通らねえだろうさ」
「そうだったのですね。では、その南の道路の場所でも構わないので教えてもらえますか?」
二人は再び顔を見合わせる。一向に何も言わないので、エウフェミアは不安になってくる。
「……あのー」
「馬車に乗せろとは言わねえのか?」
「え?」
「そっちのほうが早えだろ。馬車なら街まで半日もかからねえよ」
「乗せてくださるのですか?」
馬車に乗せてもらうという発想はなかった。思わず訊ねてから、エウフェミアは気づく。自身の体を見下ろす。
「いえ、この恰好では馬車を汚してしまいますね。乗せていただくのはさすがに――」
「いや、乗せてやってもいいぜ。ただし、条件がある」
「条件ですか?」
男は懐からライターを出すと、取り出した煙草に火をつける。一服してから、不敵な笑みを浮かべた。
「これでも俺は商人なんだ。手を貸すには対価を要求する。アンタ、何なら支払える?」
男の要求を理解するのに時間がかかった。つまり、彼は金銭を欲しがっているのだろう。エウフェミアは落胆する。
「申し訳ありません。お金は持ち合わせていないんです」
「金じゃなくてもいい。何も持ってねえってことはないだろ」
「……少々お待ちくださいね」
何か彼が喜ぶ物は持っているだろうか。エウフェミアは寝床にしていた岩の陰に戻り、トランクとストールをとって馬車のところへ戻る。
「このストールは元々私が使っていたものです。とても値打ちのあるものと聞いていますが、……寝具代わりに使っていたので汚れてしまっていますのでお譲りするのは……」
「そうだな。元はそこそこの品だが、これじゃあ値はつけれねえな」
検分が終わると、商人はストールを投げて返してきた。トランクの中身も見せるが、ほとんどが別邸で使っていた日用品だ。こちらにも金銭的な価値があるとは思えない。
「あとは……」
少し悩んでからエウフェミアはトランクの奥から小さな布袋を取り出した。
「持ち合わせているのはこれぐらいですね」
その中に入っていたのは宝石のついたネックレスだった。キラキラと光を反射する石の色は無色。
今は亡き父から貰ったそれは、唯一実家から持ってきたものだ。今身に着けているドレスも靴もストールもイシャーウッド家が用意してくれたものだが、これだけはエウフェミアの物だ。
トリスタンはネックレスをマジマジと観察する。
「随分と高そうな宝石ですねえ」
「でも、これは死んだ父に貰った物なので、お譲りすることはできないんです。……そうですね。家事は得意ですし、雑用も慣れていますので何でもお手伝いはできますよ」
エウフェミアが何か提供できるとしたら労働力ぐらいだろう。駄目で元々だ。断られても道を教えてもらって歩いていけばいいだけだ。
取り出したネックレスを元の場所にしまう。その間、商人は何かを考えているようだった。それから馬車の車輪に視線を落とす。
「まず、馬車をぬかるみから出す。手伝え」
「はい!」
それはどちらにしろ手伝うつもりだった。車輪に近づくと、黒髪の男は重々しい息を吐く。
「アンタがとんでもなく世間知らずなことはよく分かった。馬車が動くようになったら街まで連れてってやる。――俺が悪徳商人じゃなくてよかったな」