1 シリル・レイランド
帝都で生活を始めて約八ヶ月。エウフェミアの生活圏内はハーシェル商会のある商業区域だ。それ以外の区域に足を踏み入れたことはほとんどない。
しかし、今は馬車に乗って、帝都の中心である皇宮へと向かっている。それはひどく現実味のない出来事だった。
道中エウフェミアはかなり息苦しい思いをした。真向かいには官吏が二人座っており、エウフェミアが逃げないか見張っていたからだ。それでも平常心を保てたのは隣に信頼できる雇用主、アーネストがいたからだ。
彼は寮を出てからずっとどこか不機嫌そうに眉間にシワを寄せている。しかし、本当にアーネストが怒った場面を二度見ているエウフェミアにはこれが見せかけであることが分かった。
皇宮へ続く正門と通る。
皇帝も住む政の中心地は荘厳な建物が数えきれないほど立ち並び、とてつもない広さを誇る。エウフェミアたちが案内――連行のほうが正しいかもしれないが――されたのは入口から近い建造物の一室だった。
「入ってください」
牢屋にでも案内されるのではないかという不安のあったエウフェミアは、その部屋が会議室のような場所で安心する。部屋の中央には同じくテーブルが置いてあり、その向こうには黒衣を着た一人の人物が立っていた。
そこにいたのは見惚れるような美貌の爽やかな青年だった。癖のない茶色の髪に、琥珀色の瞳をしている。歳は二十歳前後頃に見える。そして、その顔には柔和な笑みが浮かべていt。
「突然お呼びだししてしまい申し訳ありません。私はシリル・レイランド。精霊庁に所属する官吏です」
青年——シリルは穏やかな口調で話す。元夫や伯父のような圧を感じない、友好的な声音だ。すぐに心を開きたくなってしまいたい。そんな気持ちにさせる。
しかし、エウフェミアは緊張を解けずにいた。それは皇宮に向かう前、最後にアーネストと交わしたやり取りのためだ。
◆
アーネストは「今のうちに」とゾーイの部屋の外に注意を向けてから話し出した。
「分かる範囲で情報を伝えておく。まず、今回お前を呼び出したのはシリル・レイランド。精霊庁の官吏だ」
「精霊庁ですか?」
精霊がつく言葉だが、エウフェミアには聞き覚えがない。
「精霊庁は皇帝や帝国と精霊貴族の橋渡しをする役所だな。皇宮にある行政機関の中でもちょっと特殊な立ち位置にある」
精霊貴族が帝国――つまりは皇宮から仕事を引き受けているのは知っていたが、専門の機関があるとは知らなかった。エウフェミアはアーネストの説明にしっかりと耳を傾ける。
「そんでもって、精霊庁のトップは代々帝国でも五本の指に入る名家レイランド公爵が継いできた。シリル・レイランドはその息子だな」
「そ、そんなすごい方がいったい、どうして」
「エウフェミア・ガラノスとは無関係だが、お前に精霊に関係する用件がある。……そうとしか思えねえな」
それはどんな用件なのか。エウフェミアにはまったく想像がつかない。
「俺も詳しく聞こうとしたが、全く情報が引き出せなかった。その辺りは直接本人から説明があるのを期待したいが……」
アーネストも本当に心当たりがないのだろう。彼の視線は虚空に向いている。何か考え込んでいる様子だ。それから、こちらを向き直る。
「一つ、助言をやろう」
彼は「大事なことだからよく聞け」と言った。
「まず、今回呼び出しがあった理由だが、十中八九精霊庁がお前に価値を見出したからだ」
「価値?」
「価値があると考えている、が正しいかもしれない。ともかく、公爵子息がただの小娘に会おうと言うんだ。お前に会うことにそれだけの値打ちがあると判断したんだ。もし、本当にお前にシリル・レイランドにとって価値があった場合、——相手はお前を懐柔、または籠絡しようとするだろうな」
その言葉に呼吸が止まる。アーネストはこちらを観察するように見つめている。
「商いの世界も時には騙し騙され合うことがあるが、貴族社会ってのはそれ以上だ。お綺麗な善人みたいな顔して自己の利益しか考えていないような狸みたいなヤツがうじゃうじゃいる。お前の価値を一方的に利用しようとするヤツもいるだろう。お前の伯父のようにな。……お前はまた同じ目に遭ってもいいと思うか?」
かつて自分は伯父に利用されていた。それはもう過ぎたことだと思っている。——しかし、また、同じような目に遭うとしたら。
『覚えておくといい。世の中には自分の利益のためなら、他人をいくらでも犠牲にできるヤツがいる。そういう相手はお前をいくらでも搾り取ろうとする。何の見返りもなくな』
それはブロウズの街で真夜中に言われた言葉。伯父のような人間は他にいるとアーネストは言った。そして、シリル・レイランドもそうでないと言い切れないのだ。
エウフェミアは気持ちを固める。
「いいえ。もうあのような目には遭いたくありません」
「なら、相手が信用に足る人間か見極めろ。その上で自分の価値の高さを知らしめるんだ」
ハッキリと宣言したエウフェミアに、アーネストはそう言った。
「自分は価値がある人間で、そのために相手も相応の対価を支払う必要があることを分からせろ。相手には敬意を払いながらも、従順に相手に従うだけじゃないと示せ」
「そんな価値は私には」
「自分で自分の価値を貶める必要はねえんだよ」
どこか苛ついたように彼はエウフェミアに詰め寄った。
「ハッタリでもいいんだ。相手にそう思わせさえすればいい。堂々と振る舞え。不安を気取らせるな。情報は貴重な財産だと思え。こちらから情報を出す場合は相手からの情報と引き換えだ。お前の価値も、情報も、大盤振る舞いする必要はない。自分の身は自分で守れ。お前は虐げられるだけの存在じゃない。そうじゃなきゃ、また今までの二の舞だぞ」
そう語る目はいつも以上に真剣なものだった。
◆
エウフェミアはシリルを見つめる。
(この方は信頼できる方なのでしょうか)
今、目の前にいる青年はとても善良そうに見える。でも、それこそがアーネストの言う『お綺麗な善人みたいな顔して自己の利益しか考えていないような狸みたいなヤツ』なのかもしれないとも思う。
シリルはくすりと笑い、表情と口調を崩した。
「あなたみたいな美しい女性にそんな風に見られるのと、少し恥ずかしいですね」
「も、申し訳ございません」
不躾な視線を送ってしまっていたことに気づき、恥ずかしさで顔が熱くなる。——直後、斜め後ろから不機嫌そうな咳払いが聞こえ、エウフェミアは背筋を正した。
「お二人ともお疲れでしょう。どうぞ、そちらにおかけください」
「ありがとうございます」
エウフェミアとアーネストが腰かけるのを確認し、シリルも向かいの席に座る。そして、笑顔で話し始めた。
「改めて、名前を聞いてもよろしいでしょうか?」
「エフィと申します」
「エフィさん。素敵なお名前ですね。――そちらはハーシェル商会のアーネスト・ハーシェル会長でよかったでしょうか?」
名乗るまでもなくシリルはアーネストのことを知っていたらしい。アーネストは皮肉めいた笑みを浮かべる。
「まさかレイランド公爵子息が俺程度の名前をご存知だとは思いませんでした」
「色々と噂は耳にしていますよ。あなたは目立つ方ですからね」
そういえば、アーネストは侯爵夫人とも取引をしたことがあると言っていた。社交界でも有名なのかもしれない。
「しかし、かしこまっていただく必要はありませんよ。父は公爵の爵位と精霊庁長官の地位を持っていますが、私自身は一介の官吏にしか過ぎません。今回のお呼びだしも、皇宮からの公式なものではなく、私個人からのものです。万が一、粗相があったとしても咎めるような真似もいたしませんよ」
「それで? そのお呼びだしの理由をお聞かせいただけませんか?」
アーネストが問う。シリルはエウフェミアに視線を戻すと、微笑む。
「率直に申しますと、エフィさんのお力をお借りしたいんです」




