52 終わりのない約束
崖から落ち、大怪我を負ったイグナティオス。村人の助けもあり、なんとか彼を救助することができた。
(本当によかった)
村人たちが担架でイグナティオスを運ぶ後ろをついていきながら、エウフェミアは涙を拭いながら安堵の息を洩らす。
エウフェミアたちが暮らすあの小さな小屋では療養は難しい。結果、イグナティオスが庇ったという男の子――ルディの家でしばらく生活させてもらうこととなった。
「息子を助けてくれて本当にありがとう。元気になるまで、いくらでもいてくれていいからね」
そう言ってルディの母は――他の家族も――息子の恩人の滞在を快く受け入れてくれた。
小屋のものよりいくらか広いベッドで横になるイグナティオスに、エウフェミアは笑いかける。
「いくらでもいていいですって」
「やめてくれ。いつまでも、他人の世話になり続けるのはごめんだ」
「うふふ」
不機嫌そうにそっぽを向いた彼が可笑しくて、つい笑い声を漏らす。
それから、二週間が経った。まだ本調子とはいえないものの、一人で歩けるくらいには回復したイグナティオスは、真っ先に小屋へ戻りたいと言い出した。
二週間世話になったルディ一家や村の人達に別れを告げ、エウフェミアたちは小屋へと続く道を戻る。
「無理はなさらないほうがいいですよ」
「言っただろ。いつまでも、他人の世話になるのはごめんだって」
先を歩くイグナティオスの背中を見ながら、エウフェミアはくすくすと笑う。それから、ふと、二週間前のことを思い出す。
――好きだよ。愛してる。
それは崖から落ちて身動きが取れなかった彼が自分に告げた言葉。彼がアーネストを名乗っていた頃、同じ言葉を言われたことはある。しかし、イグナティオスに戻ってから、面と向かって愛の言葉を告げられたのははじめてだった。
約五ヶ月前、イグナティオスがその正体を『無色の城』で明かした。そして、姿をくらまし、エウフェミアが彼を見つけたのが一ヶ月半前のこと。
数ヶ月ぶりに再会した彼は、以前の覇気はなく、どこか疲れ切っているように見えた。荒れ果てた小屋は目的もなく、ただ生きるだけという彼のあり方を表しているように思えた。
だからこそ、エウフェミアは何も聞かず、ただ、彼の側にいることを選んだ。それしか、今のエウフェミアにできることはないように思えたからだ。
必要であれば、ずっと、あの小屋で彼の側に居続けよう。その覚悟も決めた。しかし、生活する中でイグナティオスは以前の力強さを取り戻しているように見えた。
アーネストを名乗っていた頃の面影を感じる度に、エウフェミアは嬉しくなった。自分が好きになった彼が戻ってきてくれたと実感できたからだ。
そうして、とうとう二週間前に彼が口にしたエウフェミアへの好意。しかし、状況が状況だったため、その場でそれ以上触れることができなかった。療養中もそうだ。イグナティオスの側にはルディがいることが多かったし、エウフェミアも看病や家の手伝いとやることが多かった。
エウフェミアはぎゅっと手を握りしめる。
(…………期待して、いいのかな)
恋人時代、彼はずっと期限つきだと言っていた。イグナティオスに戻ってからは、好意を言葉にするのはもちろん、態度に示すこともない。
この一ヶ月半は時間が停滞している。そんな穏やかな日々だった。それが何か変わるのではないか――そんな期待が胸をくすぐった。
◆
イグナティオスが話を切り出したのは、夕食を取り終えた後のことだった。
「そろそろ、今日は休みましょうか」
後片付けを終え、エウフェミアはベッドに腰かけたままのイグナティオスに声をかける。何か考え事をしていた彼が、顔をあげる。
「エウフェミア。……話がある。少しいいか?」
真剣な表情で、イグナティオスがこちらに手を伸ばしてくる。
少しの不安と、それ以上の期待。エウフェミアは心臓の早まりを感じながら、「はい」と彼の手を握り返した。
イグナティオスの隣に座り、彼の言葉を待つ。しばらくの沈黙の後、彼は謝罪の言葉を口にした。
「悪かったな。……『無色の城』から勝手にいなくなって」
エウフェミアはすぐに言葉を返せなかった。あの出来事は今もまだ苦い思い出として強く記憶に残っている。イグナティオスは言葉を続ける。
「それと、嘘をついていたこと。真相を知っていながらずっと隠していたこと。そのすべてに謝るよ。すまなかった」
「――いえ」
今度はすんなり言葉が出た。エウフェミアは首を横に振る。
「ずっと隠し事をしていたこと自体には事情があったと理解しています。……勝手にいなくなったことには怒っていますけれど」
「だから、悪かったって」
イグナティオスは苦々しそうに目を伏せる。くすりと笑ってから、エウフェミアは言う。
「もう二度といなくならないと約束してくれますか? それなら、許して差し上げます」
冗談めかした言葉に、しかし、イグナティオスは答えなかった。視線を正面へと向け、ポツリと呟く。
「俺はずっと、俺なんていなくなればいいと思ってた」
その告白に、エウフェミアは言葉を失う。
イグナティオスが自己否定と呼べるほどの自己嫌悪を抱えていることは知っていた。それでも、――いや、だからこそ、軽はずみな発言ができなかった。
「祝福されるような生まれでもない。ずっと、存在を隠されるように育てられて、……俺自身を愛してくれる人はいたけど、いつだって最後は突然の別れだ。人生自体にあまり希望を持てなかったし、幸せになるべきじゃないとも思ってた」
それは一種の呪いだろう。彼の複雑な生まれと育ちは、彼自身に強い影を落としている。
その遍歴を辿ってきたエウフェミアには彼の言葉を簡単に否定できない。それでも、それは違うと否定したくて、彼の手を強く握る。
振り返ったイグナティオスと視線が合う。すると、彼はどこか困ったように苦笑した。
「お前がゲオルギオスを生かす選択をしてから、悩んだよ。アーネスト・ハーシェルという身分は捨てちまったし、イグナティオスとしての俺に残ってたのはあの男への憎しみくらいだったからな。……全部なくした今、どう生きていけばいいのか分からなかった」
「好きに生きていいんですよ」
それはかつて彼の養父ハーシェルが伝えた言葉。しかし、エウフェミア自身も本心からそう思う。
「あなたの望むように。――何かに囚われる必要なんてないんです。誰もあなたのことを恨んでなんていません。死んでほしいなんて、誰も望んでいないんですから」
彼はエウフェミアの家族の死に責任を感じている。しかし、父も母も兄も、誰もイグナティオスのことを恨んではいないだろう。エウフェミアだってそうだ。
きっと、唯一彼を恨んでいるのは、――彼自身だ。だからこそ、エウフェミアが何を言っても、彼が考えを変えなければ意味はない。言葉は届かない。
「……好きにか」
イグナティオスは呟く。
「だが、生憎好きな生き方が分からないんだ。今まで、そんなことを考えたことがなかったからな」
そう言われるとエウフェミアも困ってしまう。いくらでも選択肢はあるはずだ。だが、大事なのは彼が望む生き方を選ぶこと。それはエウフェミアには見つけられない。
言葉を探し、視線を彷徨わせる。ふと、イグナティオスの目が真っ直ぐこちらを見ていることに気づく。エウフェミアが思わず口を開きかけたとき、――「だから」と彼は言った。
「俺と一緒に探してくれるか?」
その言葉に、エウフェミアは目を見開く。
イグナティオスはエウフェミアの手を引き寄せる。真剣な眼差しで告げる。
「俺はどう生きたいかわからないし、それを自分で見つけられるとも思わない。……“アーネスト”としてあった生きる目的は結局、親父からの借り物だ。これから先も、俺は俺のための生き方はきっと、出来ないと思う」
かつて、“アーネスト”は『自分には普通の人間として必要なものが欠陥してる』と言った。それはきっと、今も同じなのだろう。がらんどうな中身に苦しんでいる。
「だから、俺に目的を与えてくれ。……お前のためになら、もう一度生きてみてもいいと思ったんだ。俺と一緒にいて、いつか俺が本当に好きと思える生き方が見つけるのを手伝ってくれないか」
エウフェミアは不思議な気持ちでイグナティオスを見つめる。
彼の言葉は回りくどくて、少し分かりにくい。エウフェミアはしばらく、それを心の中で噛みしめる。
「それは、プロポーズ……ですか?」
実感のないまま訊ねると、イグナティオスは一瞬、口ごもる。それから、投げやりに答えた。
「――そうだよ。それとも、もう一回釣り勝負をして、俺が勝たなきゃ頷けねえか?」
エウフェミアはくすりと笑みをこぼす。
「では、私が勝ったらもう一度私からプロポーズしますね」
「……やめてくれ。好きな女に二度も求婚させるなんて最低すぎるだろ。少しは格好つけさせてくれ」
イグナティオスは心底嫌そうに眉間にシワを寄せる。エウフェミアは「うふふ」と笑い、返事を伝える。
「はい。――約束ですよ? ずっと一緒にいてくださいね。もう、どこにも行かないでください」
そうして、エウフェミアはイグナティオスに抱きついた。彼も背中に手を回し、抱きしめてくれる。
「……ああ、約束する。もう、二度とお前を裏切らないし、傷つけない。これから先ずっと、何があってもお前の絶対の味方でいる」
それはずっと、待ち望んだ言葉だった。
彼の語る愛にはいつも終わりがあった。しかし、今回は違う。“ずっと”という約束がどれほど嬉しいか。
エウフェミアは目を閉じる。
『――今のあなたは幸せ?』
そう訊ねた伯母ベレニケに、エウフェミアは『今はまだ、幸せを見つける途中』と答えた。そうして、ようやく新しい居場所を得た。
それは誰かに与えられるものではない。エウフェミアが――いや、エウフェミアと彼と二人で作り上げるのだ。場所なんてどこでもいい。イグナティオスと一緒ならどこでも“お互いの居場所”に出来る。そうやって、幸せを作っていくのだ。
イグナティオスが腕の力を弱める。体が少しだけ離れたと思ったら、顎をすくわれる。こちらを見つめるイグナティオスの眼差しに熱がこもっていることに気づく。そのことに驚いていると、アーネストの顔が近づいた。
それは、以前、唇の横にキスをされたときとよく似た光景。あのとき、エウフェミアは身動き一つできなかった。しかし、今度は違う。
エウフェミアは目を閉じる。そっと、唇が重なる。優しく、深く、互いの心が一つになるようなキスだった。




