51 伝えたい言葉
廃道で再会したエウフェミアは、世間知らずで純粋無垢だった。
伯父にいいように扱われていたことにも、夫に蔑ろにされていたことにも気づかず、自分が幸運だと信じていた。
そのことにイグナティオスはひどく苛立ったが、彼女はハーシェル商会でどんどん常識を身に着けていった。皇宮で、ウォルドロンで、ナイセルで、精霊術師としても成長していった。
ウォルドロンから帰ってきた彼女が『家族の死の真相を知るために精霊術師になる』と告げてきたとき。イグナティオスには予感があった。
ゲオルギオスが失脚していない以上、本当のことは誰にも知られていない。きっと、隠された真実を彼女が明らかにする。その過程で“アーネスト・ハーシェル”の正体を知ることになるかもしれないと。
そういう意味では、ここで彼女と距離を置くことはとてもいいことだと思った。自分を助けた恩人が、実は家族の死を招いた原因と知れば彼女は傷つくだろう。だから、これ以上深入りしないのがお互いのためだと。
だが、その考えが誤りであることを彼女自身から突きつけられた。
早朝の墓場で、エウフェミアは言った。
『精霊術師になることを伝えに行って、会長はすぐに退職届を書くように言った。そのことがショックだった」
『必要な存在だと思ってもらえてると思っていたのに、本当は必要な存在ではないことが分かって、辛かった』
まるで自分に特別な感情を抱いているかのような発言で思い知った。既にイグナティオスはエウフェミアに深入りしすぎていた。今更、距離を置いたところで遅いのだと。
その後、墓地を立ち去った彼女の背を、イグナティオスはただ見送ることしかできなかった。しかし、彼女の言葉は棘のようにずっと胸に突き刺さったまま。
イグナティオスが上の空であることに気づいたトリスタンに『何かあったのか』と聞かれ、すべてを話した。すると、彼は呆れたようにこう言ったのだ。
『馬鹿ですね、若様! そんなこと言ったら、そりゃあエフィさんは怒りますよ!』
そうして、どうして彼女が怒ったのかを切々と説明してくれた。そのうえで、『若様は僕以外に親しい人がいないから、人の気持ちが分からない』や『全部若様が悪いので謝ってきてください』と言われた。
それから、しばらく悩んだ。何が彼女にとっての最善なのか。悩み抜いた結果、イグナティオスは再びエウフェミアと関わる道を選んだ。
その結果、一番傷つくことになるのは彼女だろう。彼女のためと言いながら、その選択を選んだのは、本当はただ自分が彼女の側にいたかったからかもしれない。
時に突き放し、遠ざけようとしながらも、結局は彼女の隣に残った。それは、彼女のことが好きだったからだ。
最初に手を差し伸べたキッカケは果たせなかったイオエルとの約束を果たすため。けれど、いつも懸命で前向きな彼女自身を認め、いつしかその存在を特別と思うようになった。
けれど、それは許される想いじゃない。彼女に相応しい人物はもっと別にいる。少なくとも、彼女を不幸にした張本人である自分が隣に立っていてはダメだ。
彼女の側にいたい。彼女の側にいてはいけない。――ずっと、イグナティオスの中では矛盾した思いが渦巻いていた。
イグナティオスには自分で決断を下す勇気がなかった。だから、その決断権をエウフェミアに明け渡した。
それが、あの日、湖畔で挑んだ勝てるわけがない勝負を挑んだ理由だ。結局、彼女は勝者の権利をゲオルギオスを生かすために使ったわけだが――あれもまた、イグナティオスが選べなかった選択だろう。ある意味、目論見通り、彼女は自分の代わりに決断を下してくれた。
“アーネスト・ハーシェル”を演じながらも、ずっと手放すことができなかったゲオルギオスへの憎悪。あの瞬間、イグナティオスは胸の奥にある憎しみの炎を燃やし続けることを諦めた。
そうして、イグナティオスはすべてを失った。
“アーネスト・ハーシェル”として生きることをやめた。ゲオルギオスへの憎しみとともに自身への憎悪も薄れた。
死ぬ理由はないが、生きる目的もない。後は残りの人生、世捨て人のように生きるだけ。――そう、思っていたのに。
◆
気づくと空は真っ暗だった。しかし、周囲は明るい。――明かりを持った村人が周りを囲んでいる。
そして、すぐ側にイグナティオスの手を握りながら、ポロポロと涙をこぼす銀髪の少女の姿を見つける。
「イグナティオス……っ……!」
「…………よお。随分遅かったな。あまりに遅いから、つい寝ちまったよ」
安心させるために軽口を叩いたつもりだったが、なぜかエウフェミアはこちらの肩に顔を埋め、嗚咽を堪えるように泣き出す。
体の痛みを我慢しながら、その頭を撫でてやる。すると、反対側からこちらを覗き込んでいた村人の男に話しかけられる。
「怪我はどうだ? 動けそうか?」
「……いや。多分、肋骨がどうにかなってる。右足も痛い。自力じゃ起きれそうにねえな」
「――何か道具がいるか」
そう言って、男は他の村人たちとどうやって怪我人を引き上げるか話し合いを始める。イグナティオスは泣いているエウフェミアに声をかける。
「心配かけて悪かったな。先、帰ってろよ。後は他の奴らになんとかしてもらうから」
イグナティオスを引き上げるには単純に力が必要だ。救助に来てくれた村人は十人。そのうちのほとんどが力のありそうな男たちだ。彼らなら、簡単にこの状況を解決してみせるだろう。
しかし、顔をあげたエウフェミアは首を横に振った。
「嫌、です」
「けど――」
「私を、また一人にするんですか……っ……!」
その叫びに、イグナティオスは言葉を失った。
エウフェミアは静かにこちらを見つめる。崖から降りる際に汚れたのか、服や手は泥だらけ。頬は涙で濡れている。そして、赤く腫れ上がった目には怒りや不安が滲んで見えた。
「もう、あなたがいなくなるなんて、嫌です。……ずっと、一緒にいます」
――“ずっと、ここにいます”。
彼女がそう言ったのは、ここに押しかけてきた初日。
イグナティオスはそれを一人きりでいる自分のためだと思った。――だが、本当にそれだけだっただろうか。
彼女もまた、孤独とその寂しさを知っている。イグナティオスがいなくなっても、彼女なら新しい誰かを見つけてその孤独を埋められると思っていた。
けれど、イグナティオスには彼女しかいないように――彼女には自分しかいないのではないだろうか。
(………だからこそ、誰かを代わりのない存在と思えることはとても尊いこと。……か)
以前の彼女の言葉を思い出す。そうして、イグナティオスは一度目を閉じた。
きっと、彼女に伝えなければいけないことはたくさんある。それでも、まずは伝えなければいけないことはなんなのか。
イグナティオスは目を開け、彼女を見つめる。
「エウフェミア」
その呼びかけに少女は目を見開く。――こうして、まともに彼女の名前を呼ぶのはいつぶりだろう。
「ありがとう。……俺を探しに来てくれて。俺の側にいてくれて」
イグナティオスは手を伸ばし、彼女の頬に触れる。彼女もまた、その手に自分の手を重ねてくれる。
「好きだよ。愛してる」




