47 好きの理由
※本日(6月17日)から1日2話投稿です。よろしくお願いします。
エウフェミアはその日から本当に小屋に居座った。
一人暮らし用の小屋は二人が生活するにはかなり手狭だ。しかし、彼女はそのことを気にする素振りがない。むしろ、住環境を良くしようと工夫をしだす。
村で椅子や食器をもらってきた。部屋の隅を布で仕切り、着替えるスペースを作った。そうして、家事の合間に小屋の修理をし、男の代わりに村に薬草を届けるようにもなった。
少しずつ、自分のテリトリーを侵されていく感覚。それはなんとも、居心地の悪いものだ。
幼い頃一緒に暮らした乳母はそこにいて当たり前の存在だった。養父とトリスタンと暮らしたときは、既に出来上がっている場所に自分が入り込むかたちだった。
ハーシェル商会会長になってからは、自分の自室に誰かが入ることはほとんどない。トリスタンが掃除に入るくらいで、家族である彼が物をいじる分には気にならなかった。
そういう意味ではエウフェミアは明確に異物だ。
寮の管理人として雇っていた頃、食事作りはさせていた。皇宮で同じ客室に泊まったこともある。リーコックでは夫婦のふりもした。
それでも、心を許せる存在ではない。それは彼女の問題ではない。男側の問題だ。
彼女はとても善良な存在だ。信用も、信頼も出来る。もし、誰かに『この世で一番裏切らない人物は誰か』と聞かれれば、彼女の名を答えるだろう。
それでも、未だ彼女にすべてを打ち明ける気にはならない。そう考えるのは、これ以上彼女と深く関わりたくないと思っているからか――あるいは。
◆
エウフェミアがとある提案をしてきたのは、それから少ししてのことだ。
「今日は天気もいいですし、少しお出かけしませんか?」
小屋の前の長椅子でぼんやり空を眺めていた男はゆっくりと顔をあげる。肩掛けの小さな鞄を持ち、帽子を被った姿は今すぐにでも出発できそうだ。
彼女の笑顔が眩しく感じ、男は目を逸らす。
「…………俺はいい。一人で行ってこいよ」
「私一人では意味がありません! 付き合ってください」
そう言って、彼女は腕を引っ張り、無理やり男を立たせる。そうして、男の手を握って歩き出したエウフェミアになされるがまま、男も歩き出した。
「マーニーさんに教えてもらったんです。村の少し向こうに小高い丘があって、とても見晴らしがいいんだそうですよ」
彼女の話を聞きながら、空を見上げる。――こうして、彼女に手を引かれ、歩くのは二度目だ。
ナイセルの問題を解決するため、皇宮の大図書館にこもっていた。休憩を取らない男を無理やり外に連れ出したのだ。
あのとき見上げた空もこんな色だった気がする。――そんなことを思いながら、坂道を登る。
到着したのは小高い野原だ。花があちこちに咲いている。村や遠くには山も一望できた。心地よい風が吹き、彼女の髪がなびく。
「綺麗ですね」
そう微笑む少女に、男は何も返さなかった。しゃがみ込み、近くの青い小さな花に視線を落とす。男に倣うようにエウフェミアも屈む。
「何というお花なんでしょうか?」
「…………ルリカラクサ」
昔読んだ植物辞典の記憶を辿る。
「春先に咲く一年草。青以外に白や黒い品種もある」
「そうなんですね。勉強になります」
笑って、エウフェミアは花びらに優しく触れる。
「小さくて可愛らしいですね。こういうのを見ているだけで、優しい気持ちになれます。会長はお花は好きですか?」
「…………別に」
そう答えてからあまりに素っ気なさすぎたと、言葉を重ねる。
「好きか嫌いかなんて考えたこともねえよ」
「そうですか」
男の答えに素直に彼女は頷いた。――しかし、次にとんでもないことを言い出す。
「では、今考えてください」
「――…………は?」
エウフェミアは笑顔のまま、こちらに顔を近づけてくる。
「こういう可愛いお花は好きですか? それとも、もう少し違う大きくて綺麗なほうがいいですか? それとも、色のほうが大事ですか? どんな色の花が好きですか?」
「ま、待て」
思わず、体を後ろにのけぞる。そのまま、草の上に尻をついた。半分、彼女が男の上に乗りかかるような体勢になる。
「なんで、そもそも、『花が好き』という前提なんだ」
「嫌いなら、わざわざ近くで見ようとしませんよね?」
当たり前のように返され、男は黙り込む。どこか嬉しそうに彼女は微笑む。
「私もお花好きですよ。寮の花壇でパンジーを育てていたの、覚えていらっしゃいますか? 私が寮に来たばかりの頃は雑草しか生えていなくて。何か植えたいと言ったら、トリスタンさんに種をもらってくるように言ってくださいましたね」
「…………覚えてない」
「嘘。覚えていらっしゃるでしょう? 会長は私よりずっと記憶力がありますから」
とっさについた嘘も簡単に見破られる。胸が苦しい。男は俯き、髪をいじるふりをして手で顔を隠す。
「…………本当、お前何したいんだよ」
「以前もお伝えしたでしょう? 会長のことが知りたいんです」
それはリーコックで真夜中に交わした会話。
同じ部屋で寝泊まりをするのが気まずくて、わざと遅くまで帰らなかった。なのに、彼女は自分を待っていた。
そこで彼女は男のことを知りたいと言った。そんなことを言い出す彼女が理解できず、押し倒す形で『何でそんなことを知りたい』と言った男に、彼女ははじめての告白をしてきた。
『会長のことが、好きだから、です』
そう言った彼女の言葉に迷いは感じなかった。同時に、彼女の気持ちが理解できなかった。
男にとってアーネスト・ハーシェルは陶器の人形だ。形はあるが、中身は空。そんな存在を好きになるとはどういうことなのか。まるで分からなかった。
彼女が理解できないのは今も同じだ。
男はずっと嘘をついてきた。アーネスト・ハーシェルだと偽ってきた。男の真実を知れば、ずっと好きだと言ってくれていた彼女も愛想を尽かしてくれる。そう思っていた。
なのに、彼女は今も男の目の前にいる。わざわざ探しに来たのだ。……時間をかけて。そうまでして、自分に固執する理由が分からない。
「何で、俺なんかのことが好きなんだよ」
男がそう吐き捨てると、少女は気づいたように言う。
「そういえば、会長が好きな理由を言っていませんでしたね。私も理由を考えたことがありませんでした。……少し、お待ちくださいね」
そう言って、彼女は一度体を起こす。それから、一歩離れた距離の場所に座り込む。先ほどの花を見つめながら、本当に考え込み始めた。
――逃げたい。
真っ先に脳裏に浮かんだのはそんな考えだ。彼女が何を言うのか。……それを聞くのが怖い。
しかし、同時に彼女の横顔を見ていると、自制心も働く。これ以上、無様な姿を見せたくない。――そこまで考えて、男は思わず自嘲した。
(今更、情けない姿を見せたって構わないだろ。失望させて、嫌われたほうが都合がいいじゃねえか)
失望されたい。なのに、嫌われるのが怖い。己の矛盾に、心底うんざりする。
くるりと、エウフェミアが振り返ったのはその時だ。突然目が合ったことに、一瞬動揺する。
「はじめて会ったときのことを覚えていらっしゃいますか?」
――もちろん、覚えている。
イシャーウッド伯爵に嫁いだエウフェミアの訃報を聞いてすぐのことだ。男は馬車を走らせ、彼女が暮らしていると聞いていた別宅へと急いだ。遠回りになる南の整備された街道ではなく、誰も使わなくなった廃道を走っていた。
車輪がぬかるみにはまってしまい、立ち往生していた。そこで彼女と再会したのだ。
左眼に映るのは、全身泥だらけの銀髪の女。だが右眼は、彼女の特別さを確かに伝えてきた。
周囲を舞う七色の精霊たち。そして、キラキラと輝く銀の髪。右の眼が様々なものを映すようになって八年。複数の属性の精霊に好かれている人間を見るのははじめてだった。
男は八年前に出会った“エウフェミア”の顔を覚えていない。ただ、イオエルと同じ青い髪だけが、強く印象に残っていた。
だからこそ、本来であればあの時の少女と目の前の女は結びつかない。――だが、なぜか、男はそのボロボロの女が探していた人物だと直感できた。
「あの頃の私は、何も持っていませんでした。会長は馬車に乗せる代わりに対価を望まれましたね。ですが、私には何もお渡しできるものはありませんでした。……何も持っていなかったからです」
「何もなかったわけじゃねえだろ」
男は思わず、言葉を返す。
「労働力はあった。働く意欲があって、掃除や料理ができる。それは十分な価値だよ」
彼女はなぜか、少し寂しそうに笑った。
「そうかもしれませんね。……でも、私はそのことに気づいていなかったんですよ。水の大精霊様の恩寵を失い、精霊術も使えない。家族と異場所を失った私にあなたは居場所をくれました」
「それは――」
男は口ごもる。
深夜の個人面談をしたとき。彼女に雇った理由を聞かれたが、答えなかった。
ゾーイに矛盾を指摘され、真実を語らざるを得なくなったとき。男は、“事実をもとにした嘘”を話した。
命の恩人への感謝と、友人への友情――そう語ったが、本当は違う。
男は唇を噛む。それから、吐き出すように声を荒げた。
「分かるだろ! ――俺がそうしたのはただの罪滅ぼしだよ。お前の家族が死んだのは、お前がそんな人生を送っていたのは…………俺のせいなんだから」
そう言って、男は両手で顔を覆う。
伯父一家にいいように使われ、嫁ぎ先のイシャーウッド伯爵家でも蔑ろにされた。そうなったのは、男が彼女の家族を巻き込んだからだ。
あの時。ゲオルギオスはイグナティオスを殺そうとしていた。それを助けようとして、彼女の父親は死んだ。彼女の母親も死んだ。――そして、イオエルも。
「……っ!」
友人との最期の別れを思い出すと、今も苦しい。
罪のない人間が三人も死んだ。人を殺めたゲオルギオスは罪人だ。――そして、その原因を作った男もまた、罪人なのだ。
そんな自分が彼女の側にいる資格はない。彼女に好きと思ってもらえる資格はない。……彼女に愛を囁やく権利はない。
目の前に影が落ちる。少しだけ顔をあげると、エウフェミアの足元が見えた。彼女の顔を見る勇気はない。――しゃがみ込み、目線を合わせてくれたのは彼女のほうだった。
「キッカケなんて何でもいいんです」
彼女は怒っても、泣いてもいなかった。ただ、静かに微笑んでいる。男の手を優しく握る。
「何も持ってないと思っていた私に居場所を与えてくれた。何も持っていないわけじゃないと教えてくれた。生きるための道を示してくれた。……そのことが嬉しかったんですよ」




