44 心からの言葉
その年の精霊会議へ、これ以上ないほど陰鬱な気持ちでゲオルギオスは臨んだ。
ビオンとともに『無色の城』へ向かう。イグナティオスはヘクトールが別の馬車で連れてきてくれることになっていた。
そして、息子と甥が鉢合わせしないよう注意しながら、当主の会議へとイグナティオスを連れて行く。この期に及んで、なおイグナティオスの存在は極力隠しておきたかった。
『無色の広間』に向かう時も。当主たちと対面した時も。火の大精霊との謁見の前に、『生命の間』に向かう時も。イグナティオスは静かなものだった。
いや、この時に限らず、この一年イグナティオスは大人しかった。元々騒がしい方ではないが、口数は減っていた。何より、何か考える素振りを見せることが増えた。
その様子の変化に気づいていても、ゲオルギオスはそのことを深く考えることはしなかった。いつも通りに振る舞うだけで精一杯だった。
『生命の間』へ続く階段を降りる最中も、ゲオルギオスは当主らしい振る舞いをしようとした。しかし、それは結局虚勢でしかなかったのだ。だからこそ、今まで当人には言わなかったイグナティオスの生まれを非難した。
「お前は大罪人の子。本来、認められる生まれもしていない。それにも関わらず、火の大精霊との謁見が認められたことは大変名誉なことだ。そのことに深く感謝することだな」
普段のイグナティオスであれば、きっとその言葉に『はい。当主様』と返したことだろう。しかし、その日は違った。
急に後の足音が止まった。ゲオルギオスは振り返り、イグナティオスを見る。数段上にいる少年はどこか冷たい目をこちらに向けていた。
その表情にヒヤリと背筋に何かが走る。ゲオルギオスが何か言う前に、イグナティオスが口を開いた。
「何に感謝しろとおっしゃるのですか?」
それはこの十四年間でイグナティオスがはじめて見せた“反抗”だった。
「住む場所を与えてくれたことですか。服を与えてくれたことですか。食事を与えてくれたことですか。――それとも、僕を殺さなかったことですか? 大罪人の血を引く僕を処罰せず、温情をかけてくださったことに、感謝すればいいんですか?」
静かに、しかし、こちらを追い詰めるように言葉を重ねる。
「あなたには分かりますか? 僕があの屋敷でどんな気持ちで過ごしていたのか。あの屋敷なら凍えることも、飢えることもないでしょう。でも、それだけです。元々あった人のぬくもりさえ、あなたは僕から奪っていった。あそこは“家”なんかじゃない。僕という名の囚人を捕らえておくための、あなたが作った牢獄です」
その言葉に、ゲオルギオスは息を呑む。イグナティオスの言うことは正しい。
確かに、あの屋敷は彼が用意した“牢獄”だった。だが、それを本人に突きつけられるとは思っていなかった。
ゲオルギオスは“当主”としての仮面をかぶって答える。
「それの何が悪い。お前は大罪人の息子なのだから、それも当然のことだろう」
「では、教えてください。僕の罪は何ですか? 父の子として生まれたことですか? 存在することですか? ――それは本当に罪なのですか? あの屋敷に閉じ込められて、すべてを奪われるほど。それほどの大罪なのですか?」
それはきっと、イグナティオスの魂からの叫びだった。罪のない子供を十四年も廃虚に閉じ込めたゲオルギオスの罪。――それを目の前で突きつけられるかのようだった。
そこでイグナティオスは一度大きく息を吸った。それから、高ぶる感情を落ち着かせるように深呼吸を繰り返す。そうして、先ほどより静かな口調で言った。
「僕はエリュトロス家に生まれたことを誇りになんて思いません」
その宣言に、ゲオルギオスは目を見開いた。
「火の大精霊に認められたことも、名誉だとは思っていません。……それに何の価値にあるんですか? 僕にはそんなこと、どうでもいい」
そして、イグナティオスはどこか疲れたように視線を落とす。
「……できるなら、僕は僕自身で自分の生き方を決めたい。もう、当主様に従いたくはないです。これが終わったら、僕の自由にさせてください」
それで、言いたいことは言い終えたのだろう。イグナティオスは再び階段を降りだした。
しかし、ゲオルギオスはその場から一歩も動けなかった。先ほどのイグナティオスの言葉を頭の中で反芻する。
――今、コイツはなんと言った?
――エリュトロス家に生まれたことを誇りに思わない? 火の大精霊に認められたことを名誉だとは思わない? それに価値がないと……どうでもいいと、言ったのか?
それはゲオルギオスには到底理解できない――いや、受け入れられない考えだった。
この世の何よりも火は尊いものだ。当然、火の大精霊も、彼女に認められたエリュトロス家という一族も、そして、彼女から与えられる大精霊の紋章も。
自分の支配下にいる子供に己の価値観を否定された。そして、その子供もまた、火の大精霊に認められているという事実に――ゲオルギオスは強い怒りと憎悪を覚えた。
階段を下りたイグナティオスが何かに気づいたように足を止めた。それから、祭壇の前でしゃがみこみ青い長髪の子供に駆け寄る。ゲオルギオスはゆっくりとその背後に近づく。
甥は火の大精霊を否定した。その姿がかつての弟に重なる。
――そうして、ゲオルギオスは帯刀していた儀式用の剣を振りかぶった。
◆
「――違う! 違う!!」
エウフェミアの言葉をゲオルギオスは強く否定する。
それはすべてを失った自分に唯一残った息子という存在を守るための嘘なのか。本当に違うと思ってのものなのか、ゲオルギオス自身も分からなかった。
確かにイグナティオスをどうにかしなければと思ったのは息子の為だ。しかし、最後、ゲオルギオスを凶行に走らせたのは、怒りと憎悪の感情だった。あの瞬間、ゲオルギオスの頭にはビオンの存在はなかった。
「わ、私はただ、許せなかったのだ。火の大精霊に認められたにもかかわらず、そのことに価値がないと言った、あの男が。エリュトロス家に生まれたことを否定したあの男が……私は、私は……!」
堰を切ったように、ゲオルギオスは言葉を吐き出す。
それが動機に息子は関係ないという言い訳なのか、本音なのかも分からない。――いや、どちらでもあるのだ。
ビオンのためと言いながら、ゲオルギオスは己の醜い感情からイグナティオスを殺そうとした。そして、激情のまま、ガラノス家の三人も殺めた。――彼らは何一つ悪くなかったのに。
テーブルに崩れ落ちたゲオルギオスに静かな声が落ちる。それは目の前の少女から発されたものではなかった。
「父さんは間違ってたんだよ」
声が響いた瞬間、その場の空気が一変する。ゲオルギオスは振り返る。
先ほど入っていた入り口のすぐ側。先ほどは扉で死角となっていた場所に、赤髪赤眼の青年が立っている。ゲオルギオスは小さく、息子の名を呼んだ。
「…………ビオン」
かつて、気弱で怯えた表情ばかり浮かべていた息子はそこにいない。落ち着いた、しかし、強い意志を感じる瞳でこちらを見下ろす。
「エリュトロス家の血筋に、火の大精霊の恩寵に誇りを持っていたことじゃない。その価値観を絶対だと思い、それ以外の考えを否定した。他人の価値観を受け入れようとしなかった。……それが父さんの過ちだ」
その言葉で、ゲオルギオスはようやく気づく。どこから過ちだったのか、に。
それはガラノス家の三人を殺したでもない。
イグナティオスに剣を振りかざしたときでもない。
マルガリタを旧『赤の砦』から追い出したときでもない。
イグナティオスをあの廃虚で育てることを決めたときでもない。
二十二年前。レオニダスの家を訪れたとき。弟は数年ぶりに会う兄に向かって、屈託ない笑みを向けた。そうして、こう言ったのだ。
『今、研究してるのは誰でも精霊術が使える方法がないかってことなんだ。だって、エリュトロス家の人間しか火の精霊術が使えないのはおかしいだろ? 水の精霊術だって、風の精霊術だって――何だって、万人が使えるようになったらいい。そう思わないか?』
『俺たちだけで独占するのは良くないよ。だって、火は皆のものだ。名誉とか誇りとか言えば、聞こえはいいけど……たった数百人の人間に色んな責任をおっかぶせるのは俺は嫌だな。皆、平等。それじゃ駄目なのかな?』
『そうしたらさ、兄さんだって今の重圧から解放されるよ。一人で全部背負わなくてよくなるんだ。そうしたら、今度は俺も手伝うからさ』
レオニダスのその言葉を――その思想を、ゲオルギオスは受け入れられなかった。
父に従わず、エリュトロス家の誇りを踏みにじってきた愚か者。それがとうとう、大精霊たちが定めた領域を犯そうとしている。その屈辱と怒りから、ゲオルギオスはレオニダスを焼いた。
そうして、弟に大罪人のレッテルを貼り、己の罪を正当化したのだ。――あの時から、ゲオルギオスは何一つ変わっていない。同じ過ちを何度も繰り返してきたのだ。
ゲオルギオスは蹲る。
己が殺した者と、自分の過ちのせいで苦しんだ人々の顔を思い出す。一体、自分のせいで何人の人間の人生が狂わされてしまったのだろう。
いくら後悔しようと、もう取り返しはつかない。それでも、ゲオルギオスは心の奥底からの懺悔を呟く。
「…………本当に、すまなかった」
その言葉に、息子も、被害者の娘も、何も答えない。ただ、静寂だけが、その場を満たしていた。




