42 破滅への道
自分の過ちは、どこから始まっていたのだろう。
――ゲオルギオスは、ずっとその問いに答えを見つけられずにいた。
◆
イグナティオスによって己の罪が暴かれた。火の大精霊により、恩寵を剥奪された。今のゲオルギオスは何の後ろ盾も持たない、ただの大罪人だ。
七家の当主たちはゲオルギオスの処遇を皇宮の裁判所に一任することにしたらしい。そして、エウフェミアを八番目の当主として認め、『誓約』を破棄することを決めた。
皇宮に移送される直前、ヨウスカルからその話を聞かされた。しかし、今のゲオルギオスにはもうどうでもいいことだ。七家の伝統も、当主としての責務も。恩寵とともにすべてを失った。あとはどのような刑が下されるのか、その裁定を待つだけだ。
ゲオルギオスがいるのは留置塔だ。皇宮の一角にある政治犯や貴族階級の重犯罪者を一時収容する施設。一般の囚人と区別してここに入れられたのは、おそらくその罪の重犯罪性からだろう。
ベッドと机。そして、椅子しかない簡素な独房の中で一人自嘲する。
(あれほど、大罪を犯す者を非難したいというのに)
精霊術師としてだけでなく、人間社会においても大罪人に成り下がってしまった。そのことがなんともおかしい。
誰もいない部屋でゲオルギオスは乾いた笑い声を上げる。ひとしきり笑うと、今度は手で顔を覆う。
(だが、今更か。――私は昔から罪人だった。ただ、虚勢の鎧を身にまとって誤魔化していただけで、ずっと前から裁かれるべき人間だった)
すべての罪を他人に押しつけ、己の過ちからずっと目を背けていた。その罰がようやく下るのだ。もう、己が正しいと無理に思い込む必要もない。そのことがこれ以上なく、安心した。
ゲオルギオスは目を閉じる。
皇宮の留置塔は、家族でさえ面会が許されない。罪が明るみになってからゲオルギオスの拘禁される部屋に毎日のように訪れていたビオンに詰問されることもない。イグナティオスも行方をくらました。ヘクトールも主人の意に沿わないことはしないだろう。――この先の真実は明かされない。誰にも知られず、すべてを終わらせる事ができるのだ。
看守が牢の鍵を開け、扉を開けたのはそのときだ。ゲオルギオスはゆっくりと目を開ける。看守の男は外を親指で指す。
「来い」
ゲオルギオスは緩慢な動作で立ち上がる。手錠をかけられ、左右を看守に囲まれ、向かったのはやはり尋問室だった。
室内に入ったゲオルギオスは目を瞠る。前回中年の尋問官が座っていた椅子に若い娘が腰かけていたからだ。彼女は微笑む。
「こんにちは。ゲオルギオス様」
「…………なぜ、貴様がここにいる」
そこにいたのはエウフェミアだった。
九年前、ゲオルギオスが殺した相手の遺族。罪を明らかにする一端を担った少女。そして、火の大精霊を止め、ゲオルギオスの命を救った張本人でもある。
「座れ」
看守に肩を押され、ゲオルギオスは罪人用の椅子に座る。テーブルを挟んで、エウフェミアと向かい合う形だ。
「どうしてもゲオルギオス様にお伺いしたいことがありまして。お会いする機会がほしいと、お願いしたんです」
――嫌な予感はした。
この娘の前にいると、自分が丸裸になるような錯覚に陥ることがある。
あの時もそうだ。――彼女が二度目に『赤の砦』にやって来たときも。エウフェミアはゲオルギオスの鎧の内側に踏み込んできた。
「イグナティオスが育ったあの廃墟に行ってきました。マルガリタ様にもお話を聞いてきました。……元々、ゲオルギオス様とイグナティオスの仲は悪くなかったそうですね」
ゲオルギオスは沈黙を選ぶ。彼女の言葉に反応を返す義務はない。しかし、少女は言葉を続ける。
「その話を聞いて、不思議でした。なぜ、そんな関係性を築いていた二人が、殺し殺されるような事態になったのか。……でも、分かったんです。どうして、あなたがイグナティオスを殺そうと――いえ、殺さないといけなかったのか」
――その先は聞きたくなかった。
できるなら、耳をふさぎたかった。しかし、ゲオルギオスの両手は手錠で拘束され、それは敵わない。彼女の言葉を止める術もない。
そうして、エウフェミアは口にする。
「イグナティオスを殺そうとしたのはビオンのため、ですね? ……火の精霊が視えるイグナティオスはあのままでは大精霊の紋章を授かるはずだった。だから、その前に命を奪おうとしたんですね? ビオンを当主にする未来がなくならないように」
ゲオルギオスが自身の命とともに闇に葬ろうとした、真実を。
◆
今から二十二年前。ゲオルギオスは弟レオニダスを殺した。
その後、あの赤ん坊を見つけたときは動揺した。そして、弟の子を生かしておくべきか、悩んだ。
契定の儀を行っていない女性との間の子。それはゲオルギオスにとって認め難い存在だった。それでも、幼い赤子には罪はない。そう思ったから、生かすことを決めたのだ。
ただ、イグナティオスの存在を公にして育てることには躊躇があった。レオニダスの血を引いているというのもあった。どう育つか分からない。弟のようになるかもしれない。
だから、旧『赤の砦』で隠し育てたのだ。何かあっても、すぐ対処できるように。
そのゲオルギオスの考えはすべて杞憂だった――そう思えるほど、イグナティオスは素直に育った。弟のような奔放さもなく、ゲオルギオスに従順であった。
マルガリタの育て方がよかったのか。あるいはヘクトールがこっそりと『お前の父は大罪人だ。それなのに、お前に衣食住を与えているゲオルギオス様に感謝するんだ』と言い含めていたおかげなのかは分からない。
少なくとも、その出生が気にならなくなるほど、イグナティオスは模範的な優等生だった。正式にエリュトロス家の一員として認めよう。そう思えるほどには。
しかし、そんなゲオルギオスの想いを打ち砕く出来事が起きた。――それはイグナティオスが十歳のときだ。
その頃、ゲオルギオスは子育てに悩みを抱えていた。一人息子ビオン。我が子は自分の血を引いているとは思えないほど、大人しく、気弱な性格だった。
『あれでは、エリュトロス家当主としてやっていけない。何とか矯正しなければ』
そう考えたゲオルギオスは我が子を厳しく躾けた。優しくしたらつけ上がる。ビオンが甘えを見せようものなら、一喝する。それが息子を導く正しい方法だと信じていた。
しかし、なかなかビオンは思うように成長してくれなかった。ゲオルギオスの言葉に萎縮する――そんな様子ばかり見せてくる。思い通りにいかないことに苛立ちを覚えながらも、それでもそのときはまだ次の当主は息子だと信じていた。
イグナティオスを引き取ってから、ゲオルギオスは定期的に彼の顔を見に行くようにしていた。それは最初、弟の子が正しく育っているかの確認のためだった。しかし、長い歳月の中で少なからず情も生まれた。その頃には二ヶ月に一度の訪問を楽しみの一つのように思えるようになっていた。
その日。旧『赤の砦』に到着するとすぐに屋敷の外で洗濯をするマルガリタを見つけた。彼女と二、三言葉を交わし、イグナティオスに会いに行った。
廊下を歩いていると、居間から幼い少年の声が聞こえてきた。
「――そう。だから、帝国の初期において、徴税人というのは重要な役割を果たしていたんだ。それがいつしか、必要以上の税を取り、私腹を肥やしていた」
しかし、話す内容はとても十歳とは思えない。年老いた乳母との軟禁に近い生活の中で、イグナティオスは本を求めた。ゲオルギオスは少年の望むままに本を買い与えた結果、甥はかなりの博識となった。
まだ幼い少年が帝国初期に存在した徴収人について書かれた内容を大人のように読み上げる。その光景を想像し、ゲオルギオスは小さく笑った。しかし、同時に違和感も覚えた。――イグナティオスの語り口がまるで誰かに教えるかのようだったからだ。
「それで皇帝は方針を変えた。各地に徴税人を派遣するのではなく、領主たち自身に税を集めさせ、直接皇宮に納めさせる仕組みにしたんだよ「」
ゲオルギオスは居間を覗く。そこには暖炉の前に本を広げ、床に座る少年と――そして、その周りを舞う火の精霊がいた。
『イグナティオスは物知りだ』
『もっと、もっと教えて』
イグナティオスもエリュトロス家の一員だ。火の精霊に好かれるのは当たり前のこと。精霊たちは自分たちの姿が人間に視えていなくとも話しかけることがある。だから、その光景は見慣れたもののはずだった。
「じゃあ、次は古代語の文献の話をしようか」
しかし、精霊たちの言葉にイグナティオスは明確に返事を返した。開いていた本を閉じ、立ち上がる。
「キミたちのことも書いてあって面白かったんだよ。少し待っ――」
そうして、振り返った先にゲオルギオスがいることに気づき、イグナティオスは顔色を変えた。――それは幼い子供がいたずらをしているのが見つかったときのような反応。少年はとっさに笑顔を作り、何事もなかったかのように振る舞う。
「当主様、こんにちは。いらっしゃっていたんですね」
「…………今、何をしていた」
ゲオルギオスにはそれを問うだけで精一杯だった。
幼い子供に精霊が視えている。現在精霊の眼は二人とも所在が明らかだ。特に亡くなったという話も聞かない。なら、それが示すのはただ一つの事実だ。
しかし、ゲオルギオスにはそれが認められなかった。そして、何も知らない子供がそのことを隠す理由も分からなかった。イグナティオスにはエリュトロス家がどういう一族かさえ教えていない。マルガリタにも、イグナティオスの前で精霊術は使わないようにと伝えている。
イグナティオスは笑顔を崩さない。
「声に出して本を読んでいただけです」
「誰かに話しかけていただろう」
「誰かって、誰ですか? ここには僕しかいませんよ」
少年はなかなか認めない。そのとき、一人の火の精霊が『ゲオルギオス』と顔に向かって飛んできた。思わず避ける動作をし、――それを見たイグナティオスが目を見開いた。
「……もしかして、当主様にも見えていらっしゃるんですか?」
信じられないとでも言うように少年は呟く。それから、本当に嬉しそうに笑った。
「よかった! 僕だけじゃなかったんですね!」
――その後、イグナティオスは今まで言えなかったことをすべて吐き出すかのように説明しだした。
幼い頃から彼らが見えていたこと。でも、マルガリタにもヘクトールにも見えていないため、心配させまいと誰にも言えなかったこと。そのうち、彼らが精霊であると気づいたこと。マルガリタの目を盗んで、彼らと時々話をしていたこと。
弾む声でイグナティオスが話せば話すほど、ゲオルギオスは追い詰められていった。いくら、否定したくとも、否定できない。嫌でも、真実を突きつけられる。
――精霊が視えるのは大精霊に認められ、大精霊の紋章を与えられた者だけ。しかし、稀に大精霊から愛されている者はそれ以前からも精霊を視認することができる。
つまりは、目の前にいるこの少年こそが次期エリュトロス家当主――ゲオルギオスの後継者だと火の大精霊に認められた存在であることの証明だった。それは同時にビオンが次期当主となる道が閉ざされたことを示していた。それは、エリュトロス家の当主となることが息子の唯一の幸福だと信じていたゲオルギオスには、到底認められない話だった。
その後、ゲオルギオスは自身がどうしたかよく覚えていない。この件はマルガリタには話さないようにイグナティオスに言い含め、足早に旧『赤の砦』を出た。そして、『赤の砦』に戻り、ヘクトールにこの事を話した。
忠実な腹心は翌日、自分の母親を旧『赤の砦』から連れ帰ってきた。イグナティオスが次期当主である。そのことをそれ以上、誰にも知られないようにするために。
当主の部屋で一人、ゲオルギオスは箱にしまった石を見つめていた。それはイグナティオスの精霊石。精霊術を扱うための核となるものだ。十歳になると親から渡され、精霊術師としての教育が始まる。
この石も、ゲオルギオスはレオニダスの家で見つけ、持って帰ってきた。そして、先日イグナティオスに会いに行ったとき、本当はこれを渡すつもりだった。――『お前には名誉ある火の精霊術師の血が流れている。これから、その責務を果たすために研鑽していくのだ』と伝えて。
しかし、ゲオルギオスはその箱に鍵をかけ、机にしまった。
これをイグナティオスに渡してはならない。それは最愛の息子の未来を閉ざす行為だ。イグナティオスの持つ秘密はこれからも守り続けなければならない。それが息子の――いや、エリュトロス家のためなのだ。大罪人の息子を火の精霊術師の長に据えるわけにはいかない。
ゲオルギオスはその決断に正当性があると自分に強く言い聞かせる。――それが、破滅への道とも気づかずに。




