40 深まる謎
「本当に突然のことでイグナティオスにきちんとお別れをする暇もありませんでした。……私が屋敷を出ていくときの、あの子の呆然とした顔が忘れられません」
マルガリタの目に涙が浮かぶ。エウフェミアは衝撃を受ける。
確かにイグナティオスに乳母がついていたのは幼い頃の話というのは聞いていた。しかし、そんな急に無理やり二人を引き剥がしていたとは。
何も言えないエウフェミアの代わりに疑問を投げかけたのはビオンだった。
「十歳で? 一人で暮らさせるには小さすぎるだろう?」
「ええ。私もそのことをゲオルギオス様に進言しました。――でも、駄目だったのです。『決めたのは自分だ。これはもう決定事項で覆らない』と取り合ってくださいませんでした。……あのときのゲオルギオス様の目はとても恐ろしかった」
老婆は怯えるように肩を震わせる。エウフェミアは訊ねる。
「エリュトロス精霊爵は何か理由をおっしゃらなかったのですか?」
「『もう一人で生活できるから』と。その一点張りでしたよ」
ビオンと顔を見合わせる。――それが方便でしかないと、双方が気づいている。
しかし、マルガリタも本当の理由は知らない。何かヒントがないかと、彼女への質問を続ける。
「マルガリタ様。こちらにはエリュトロス精霊爵がいらっしゃることもあったんですよね?」
「はい。大体二ヶ月に一度ほどでしょうか。イグナティオスの様子を見に」
「マルガリタ様から見て、エリュトロス精霊爵とイグナティオスはどういう関係でしたか?」
「そう、悪くありませんでしたよ」
すぐに返ってきた返答にエウフェミアはすぐに反応を返せなかった。ビオンもだ。やっとのことで言葉をひねり出す。
「……悪くなかった?」
「はい。いらっしゃるのは本当にたまにでしたから。それほど深い関わり合いはございませんでしたが、……なんと言えばいいのでしょうか。ゲオルギオス様はイグナティオスのことを気にかけていらっしゃいましたし、イグナティオスも当主であるゲオルギオス様を敬っていました」
エウフェミアとビオンは顔を見合わせる。マルガリタは訥々と語る。
「ゲオルギオス様は、毎回いらっしゃる度にイグナティオスに『不便はないか』『最近はどう過ごしているのか』を聞かれていました。イグナティオスも聞かれたことに真面目に答えて……。ゲオルギオス様がイグナティオスと遊ぶようなことはありませんでしたけれどね。よくイグナティオスの分からないことを教えたりはしてくださってました。質問に答えるのも。すぐ答えられないような質問にも、ゲオルギオス様は時間をかけて、誠実に答えていらっしゃったように見えました」
ゲオルギオスがなぜイグナティオスを殺そうとしたのか。――その理由を探しに来たのに、マルガリタの話を聞いていると余計に分からなくなってくる。エウフェミアは途方に暮れる。
ふと、隣のビオンに視線を向け――その表情が妙に強張っていることに気づく。
「ビオン?」
エウフェミアが声をかけると、我に返ったようにこちらを向く。そして、誤魔化すように「何でもない」と笑い、マルガリタに言う。
「じゃあ、マルガリタにも父さんがイグナティオスを殺そうとした理由は見当がつかないんだね」
「はい。……お力になれず、申し訳ございません」
「――エウフェミア。この屋敷に何か残っているかもしれないし、少し探してみよう。俺は奥の子供部屋から見てくるから、こっちのほうがお願い」
ビオンは返事を待たず、居間を出て行ってしまう。急なことにエウフェミアだけでなく、マルガリタも戸惑っているようだ。
なぜ、と考えて、理由に思い至った。
ゲオルギオスとビオンは長らくこじれた親子関係だった。強い言葉を吐き、自分の話に耳を傾けなかった父が甥であるイグナティオスに対しては誠実に接していた。その事実は実の息子としては複雑極まりないだろう。
「ビオン様。どうなさったのでしょう」
心配そうに呟くマルガリタに、エウフェミアは苦笑を返す。それから、木箱に近づくと、中の積み木を手に取った。
何も変哲もない積み木。大きな傷も、汚れもない。大事に扱われてきたように見える。
「……イグナティオスはどんな子だったのですか?」
エウフェミアは振り返らずに訊ねる。すると、嬉しそうな声が返ってきた。
「とても素直でいい子でしたよ」
意外な言葉にエウフェミアは振り返る。マルガリタはソファを見つめながら、懐かしそうに語る。
「私が疲れてうたた寝していると、必ず毛布を持ってきてかけてくれたんですよ。小さい頃は私が家事をしてると邪魔にならないよう静かに遊んでくれていてね。でも、終わったと声をかけると本当に嬉しそうに笑ってくれたんですよ。大きくなると、お手伝いも率先してしてくれるようになりました。……何をしても、ちゃんと『ありがとう』が言えるいい子でしたよ」
それは今のイグナティオスからは想像できない姿だった。皮肉屋で捻くれていて――そんな彼が素直だった頃があるとはとても不思議な感覚だ。
マルガリタは話を続ける。
「それと、本当に本が好きな子でした。……ほら、本棚に色んな本が並んでいますでしょう? 小さい頃から本を読むのが好きでね。小さいのに歴史書とか哲学の本とか、色んな難しい本を読んでいたんですよ」
言われて、エウフェミアは本棚を見る。そこには絵本や子供向けと思われる物語本以外に、歴史書、哲学書、辞書なども並んでいる。エウフェミアはそのうちの一冊を手に取る。
それは淡水魚の図鑑だった。しかし、後半には簡単な釣りの知識も紹介されている。――餌の種類。餌となるミミズのいる場所。魚が釣りやすい場所。それは湖畔でのやり取りを思い出させる。
魚釣りをしたことがないという話をしたとき、アーネストはこう言っていた。魚釣りに関する本を読んだことがある、と。そして、この本に書かれているようにミミズを探し、魚が多くいる水草が生えた場所を指定した。
(会長がおっしゃってた釣りの本って、これのことなのかしら)
本棚には他にも古代語の辞書も並んでいる。アーネストがエウフェミアにつけた『フロマ』という姓。この単語が古代語であることはカティアが言っていた。
エウフェミアは図鑑を本棚に戻す。それから、マルガリタに問いかけた。
「イグナティオスは日記などはつけていなかったのですか?」
玩具や本。こういったイグナティオスの私物を見ても、知りたいことのヒントになるものは見つからないように思う。
「いいえ。私がいた頃は特にそういった習慣はございませんでした。でも――もし、それ以降につけるようになったのだとしたら……あるとすれば、子供部屋か、あるいは図書室でしょうか」
「図書室、ですか?」
子供部屋なら今ビオンが探してくれているはずだ。もう一方の候補について訊ねると、マルガリタは頷く。
「あの子はヘクトールが来る度本をねだっていましたから。ここの本棚に入り切らなくなったんですよ。だから、空いている部屋を図書室に改装したんです。――どうぞ、案内します」




