38 置いていった理由
エウフェミアは呆然と呟く。
「…………私」
「言ってみれば、あの子は常にアーネスト・ハーシェルという役柄を演じていました。行動原理はいつだって、商会のため。もちろん、人道を優先することはありましたけど、決して、演じている役柄から逸脱することはありませんでした。……でも、あなたが関わったときだけ、アーネストはその役柄よりあなたのことを優先した」
精霊庁に呼ばれたエウフェミアに同行し、二週間も商会を留守にしたのも。その後、ハフィントン伯爵と引き合わせ、仮装舞踏会への参加の手伝いをしたことも。それから、ナイセルの件でまたしばらく商会を留守にしたときも。
特に皇宮とナイセルのときの影響は大きかった、とトリスタンは言った。
確かにアーネストは自分がいなくなる準備を進めていたとはいえ、皇宮のときはそこまで進んでいなかった。ナイセルのときは大分引き継ぎが進んでいたとはいえ、あれほど長い期間完全な不在というのは少なからず商会に混乱を与えた。――それでも、アーネストはエウフェミアを優先してくれたのだ。
「間違いなく、エフィさんはアーネストにとって特別な人でした。ですが、アーネストは個人的な結びつきを誰かとしようとしません。だから、お二人が付き合っていると知って、驚いたんです。……『ああ。アーネストも誰かと互いに繋がり合う関係性を持とうと思えるようになったんだな』って」
トリスタンは優しく微笑む。――ゾーイに勉強会を開いてもらった帰り。屋敷まで送ってくれた彼がそんなことを考えているなんて知らなかった。
「だから、僕は少し希望を抱いたんッスよ。これから先、アーネストがどんな道を選ぼうと、エフィさんがいたらそれはきっと温かなものになる。決して、一人っきりの寂しい道じゃないって。――でも」
そこで彼は言葉を止めた。しかし、何を言いたいかはエウフェミアにも分かる。
「……あの人は私を置いていきました」
「ええ。多分、アーネストが覚悟を決めたのは、湖畔での出来事がキッカケでしょう」
あの日、トリスタンは少し離れた場所で待機していた。その時、湖畔の方からフードで顔を隠した男が馬で走り去っていったのを見て、不審感を抱いた。そして、エウフェミアたちの様子を見に来たのだ。
そこで見たのは工房の焼け跡と、エウフェミアを抱き上げたまま、静かに工房を見つめるボロボロの服のアーネストだった。駆け寄るトリスタンに、彼は振り返らずに言った。
『幸福な時間ってのは短いもんだな』
それから、アーネストは商会から自分の着替えを持ってくるように言い、着替えをすますとエウフェミアを皇宮へと連れて行った。
その後のアーネストはまるで昔に戻ったかのようだった。ハーシェルの夢を叶えようと一心不乱に邁進していた頃のように。そして、エウフェミアに呼ばれたからと皇宮に出かけていった日。帰ってきたアーネストはこう告げた。
『期限を決めた。アーネスト・ハーシェルを一ヶ月に殺す。それまでに商会の体制を整えたい。お前にも覚悟を決めてほしい』
「そして、前々から交渉していたダインリー公爵からの支援を勝ち取りました。自分がいなくなった後に困らないように引き継ぎを進め、当時にアーネスト・ハーシェルの代わりとなる遺体を探し――あの日が来たんです」
それは精霊会議の前日のこと。表向きにはアーネストはフィランダーの家を訪ねる予定だった。その日は朝、珍しくアーネストは事務所の前に立ち、ずっと煙草をふかしていた。――どこか名残惜しそうに。
「だから、僕は聞きました。『やっぱり今日出かけるのはやめますか?』って。……でも、アーネストは『行く』とおっしゃった。それから僕らは馬車に乗って目的の地点を目指しました。――ところが、アーネストが途中で後ろから追ってくる馬に気づいたんです。アーネストは『予定を変更する。もっと手前の地点で馬車を落とす。お前は追っ手に殺されないように逃げるんだ』と」
そうして、崖に差しかかったとき。事前にした細工でキャビンだけを落下させた。中にはまだアーネストが乗っていて、危険な行為だった。しかし、一度その場を離れた後、助けを連れて戻ってきたトリスタンは、馬車から見つかったのが一人分の遺体だったことでアーネストが死んでいないことを悟った。
「その後は全部アーネストの計画どおりです。皆にアーネストが死んだことを伝えて、葬儀をあげて。……さすがに事前に部屋の片付けはできなかったので。その途中、金庫からエフィさんの書類を見つけて返そうと思ったんです。でも、帝都のお屋敷を訪ねてもまだ帰ってこないと言うし。たまたま精霊庁の馬車がたくさんどこかへ向かっていったと聞いて、後をつけてきたんです。エフィさんが何か大きな集まりに参加することは聞いてましたからね。でも、途中から全然車輪の跡を見つけられなくなって、途方に暮れてたんです。そこをエフィさんに助けてもらいました。――そうして、今に至ります」
すべてを聴き終えたエウフェミアはすぐには何も話せなかった。
トリスタンから見たアーネストの過去と現在。そして、アーネスト・ハーシェルを殺すための用意周到な作戦。その壮絶さに、だ。
エウフェミアはポツリと呟く。
「…………私には分かりません」
ここまで説明されても、分からないことがある。
「私を愛してるなら、どうして私を一人っきりにするんですか? どうして、私を置いていったんですか? ……どうして」
またポロポロと涙が落ちる。さっきから涙腺が弱くて嫌になる。必死に涙をぬぐっていると、考え込んでいたトリスタンが口を開いた。
「あなたを愛しているからですよ」
彼は静かに言う。
「それがあの子の愛し方なんだと思います。愛する人のために何かをする。でも、側にいることはしてくれない。……旦那様の夢を代わりに叶えてくれたように。商会を僕に残してくれたように。きっと、自分が誰かの側にいることで誰かが幸せになるなんて思ってもいないんじゃないッスかね? まあ、僕にはなんでアーネストがそんな考えをするようになったかは分かりませんけど」
トリスタンが知っているのは、あくまでアーネストという男の現在だけだ。イグナティオスとして生きていた過去や、その胸に抱えていた思いまでは分からない。それはきっと、エウフェミアも同じだろう。
エウフェミアは目を伏せる。しばらく思案してから、もう一度質問をする。
「……本当に、あの人が私を今でも愛していると思いますか?」
「ええ」
誰よりもアーネストをよく知る男の答えは淀みない。
「ですが、あの人は私のことはもうどうでもいいというような態度を取ってきたんですよ」
『生命の間』でまるでエウフェミアを見なかったこと。冷たい視線を向けてきたこと。エウフェミアの気持ちはどうでもいいと言ったこと。
そのことを告げると、トリスタンは驚いたように目を見開いた。――それから、叫ぶ。
「何言ってるんスか! あの人ほど発言と真意が一致しない人もいないでしょう! あの人の性格忘れましたか? とんでもない捻くれ者ッスよ!!」
何をそんな当たり前のことを言うのか、とでも言わん勢いに、エウフェミアは目が覚めるような衝撃を受けた。
――そうだ。何でそんな当たり前のことを忘れていたんだろう。
出会った当初からアーネストは捻くれた物言いしかしない男だった。廃道で出会ったエウフェミアに馬車に乗せる代わりに対価をよこせと言いながら、雑用程度のことしか求めなかった。なんだかんだ皮肉を言いながら、最終的にはエウフェミアのことを助けてくれる。ずっと、ずっと、そうしてきてくれた。
トリスタンは笑う。
「もし、本気でアーネストの気持ちを疑うっていうなら、ちょっと思い出してみてください。あの人の発言や態度じゃなくて、行動を。あの人の本心はそこにしかないっスよ」
エウフェミアの気持ちはどうでもいいと言いながら、結局、彼はエウフェミアに生命の精霊を目覚めさせた。倒れるエウフェミアを受け止めてくれた。姿をくらます直前――眠るエウフェミアにキスをしていった。
イグナティオスはアーネストは死んだと言った。でも、本当にそうだろうか。確かに社会的にアーネスト・ハーシェルという人物は死んだだろう。しかし、エウフェミアが愛した彼が死んだわけではない。
ようやく、イグナティオスとアーネストという二つの顔がエウフェミアの中で重なる。もう、涙はこぼれなかった。それを見てトリスタンが微笑む。
「ここに来てよかったです」
そうして、彼は馬車の扉を開ける。
「じゃあ、僕は渡すものも渡しましたし、帰りますね。若様がいなくなって、本当にやることがたくさんあるんスよ。きっと、帰ったらゾーイさんに怒られますよ。『仕事をサボって、どこほっつき歩いていたんだ!』って」
彼の言葉にエウフェミアも笑う。そうして、馬車を降り、帝都に戻るために御者台に乗ったトリスタンを見上げる。
「ああ、そうだ。最後に。――若様に会ったら、伝えておいてください。『行く場所がなくなったらいつでも戻ってきていいッスよ。下働きとして雇ってあげます』って」
エウフェミアは目を瞬かせる。偽装用の遺体まで用意して死んだことにしたアーネストがハーシェル商会に戻れるわけがない。
それを分かった上で、それでもなお、ハーシェル商会の新会長は笑ってみせた。
「僕は旦那様と一緒でとても懐が広いので。ああ、『戻ってこなかったとしても、ちゃんと挨拶しに来てください』っていうのも。さようならもろくにしないなんて、人間として最低ッスよ。エフィさんもそう思うッスよね?」
エウフェミアもクスクスと笑う。
「そうですね。ちゃんと伝えておきます」
そうして、トリスタンは帝都へと戻っていく。それを見送ってから、エウフェミアは『無色の城』に続く道を歩き出した。
城に戻ると、門のところですぐにノエに遭遇した。彼はエウフェミアを見つけると、「あああああ!」とこちらを指差し、駆け寄ってくる。
「どこ行ってたの! 突然姿を消すから皆探してたんだよ!!」
「ご、ごめんなさい」
見れば、周りには他にも人の姿がある。そちらにも謝罪をしようとして、近づいてきた一人の人物に気づく。
赤いマントを羽織った赤髪の青年――ビオンだ。久しぶりに見るその姿にエウフェミアは目を瞬かせる。
「…………ビオン」
「――エウフェミア」
彼はただ、静かにこちらを見ている。そこには不安や後ろめたさといったネガティブな感情は一切感じない。どこか、静かな決意を感じさせる目だ。
思えば、彼と最後に会ったのはダフネ行方不明の事件の最中。彼の父であるゲオルギオスの罪が明らかになって以降はまったく姿を見ていなかった。エウフェミアも余裕がなく、そのことに思い至ることもなかった。
殺した側の息子。殺された側の遺族。何一つわだかまりのなかったはずのビオンとエウフェミアの間に、九年前の真実という亀裂が生まれてしまったはずだ。しかし、今のビオンの目を見ると、そんなものは乗り越えられるもので、共に傷を抱える同志なのだと思えた。
「俺たちはまだすべてを知ったわけじゃないと思うんだ」
それは思いも寄らない言葉だった。エウフェミアは目を見開く。ビオンが右手を差し出してくる。
「まだ隠されていることがある。――一緒に“本当”を探しに行ってくれないか?」
彼の言う“本当”が何を指しているのかは分からない。しかし、エウフェミアもまた、まだ知らないといけないことが残っている。
エウフェミアは静かに一歩を踏み出し、差し出された手をしっかりと握り返す。そして、「ええ」と力強く微笑んだ。




