37 『アーネスト・ハーシェル』という男
エウフェミアは精霊術を使い、馬車をぬかるみから救出する。トリスタンは感激したように喜ぶ。
「本当に助かったッス」
「……その、私に会いにきたというのは……?」
おそるおそる訊ねると、彼は思い出したように手を叩く。
「ああ、そうでした。――良かったら、中に入ってください。そこで話しましょう」
トリスタンに促され、エウフェミアはキャビンに入る。
何度も乗ったことのあるハーシェル商会の馬車。いつもはそこにアーネストがいた。そのことに少し感傷的になりながらも、後から乗ってきたトリスタンと向かい合う。
「エフィさんに渡したいものがあるんですよ」
そう言って、彼がカバンから取り出したのは二枚の紙だ。それを受け取り、書かれた文字を読む。それは、かつてエウフェミアが署名した雇用契約書と退職届だった。
「……どうして、これを?」
書類を渡された意図が分からず、エウフェミアは問いかけた。すると、トリスタンは笑った。
「若様が亡くなって、僕が会長の座に就くことになったんですよ。――と言っても、名ばかりですけどね。若様や他の人みたいな商才はありませんし、交渉事も苦手で。皆が働きやすいように手配したり、事務仕事をしたり、そういうのをやってます。まあ、僕にはこういう役割のが性に合ってるんスよ」
トリスタンはアーネストの片腕だった。後を継ぐなら確かに彼しかいないだろう。
「それで、若様のお部屋の片付けを今していて。金庫の中からエフィさんの書類が見つかったんです。僕が持っててもしょうがないし、エフィさんに返そうと思って」
エウフェミアは再び書類に視線を落とす。自信の運命を変えた二枚の紙。そのいずれにもエウフェミア・ガラノスの署名がある。それを見つめながら、訊ねる。
「…………トリスタンさんは、どこまで知っていたんですか?」
トリスタンはきょとんとした表情をこちらに向ける。人が良く、嘘なんてついたことのなさそうな青年。だが、彼が何も知らなかったはずはない。
アーネストの父親であるハーシェルに昔から雇われ、アーネストと故郷を共にする。そのプロフィールは嘘だ。アーネストがイグナティオスであるなら、彼らの故郷は同じではないし、そもそもハーシェルはイグナティオスの父ではない。
「本当は全部知っていたんですか? 会長がイグナティオスであることも、父や兄のことも、本当の犯人のことも、……全部……っ」
知らない間に手に力がこもる。シワ一つなかった書類の端がくしゃりと握りつぶされる。
「ちょっと、落ち着いてください!」
慌てたようにトリスタンはエウフェミアの指を書類から剥がし、回収する。それから、丹念にしわを伸ばし始めた。ある程度元に戻すと安堵したような息を吐いた。それから、再び書類を差し出してくる。
「多分、僕はエフィさんが思ってるよりは何も知らないッスよ」
エウフェミアは瞬きをする。トリスタンは落ち着いた口調で話し出す。
「その、イグナティオス?――というのが、若様の本名と言うことも今初めて知りました。エフィさんとの本当の関係も知りません。もちろん、エリュトロス家の縁者ってことは知ってました。初めて出会ったとき、若様の髪も眼もまだ赤色でしたからね。あと、精霊とか色んなものが視えて、だから目利きが効くってことは教えてもらってました。けど、それぐらいです。若様と出会う前のことは本当に何も知りません」
その答えにエウフェミアは困惑した。彼はアーネストに一番近い人であるはずだ。なのに、そんなにも知らないというのは何故なのか。
「――どうして」
「そんなこと、知る必要がなかったからッスよ」
さらりと彼は答えた。
「僕と旦那様と若様――僕たちは家族でした。誰一人血の繋がりはありませんでしたけど、一緒に食事をして、働いて、同じ屋根の下で眠る。そうやって一緒に暮らす家族でした。僕たちにとって、若様の過去なんてどうでもよかった。一緒にいてくれさえすれば良かったンスよ」
エウフェミアは言葉を失う。トリスタンは一瞬苦笑してから、表情を真剣なものに変える。
「昔の若様のことは本当に知りません。でも、この九年間、若様――いえ、アーネストのことはずっと横で見てきました。彼のことを一番知っているのは僕です。誰かに何かを語れるなら、僕しかいないと思った。だから、あなたに会いに来たんですよ」
アーネストとの付き合いは約一年。そして、彼がイグナティオスであったという真実も知った。しかし、エウフェミアは一体彼のことをどれだけ知っているだろう。
「エフィさんはアーネスト・ハーシェルという男について知りたいッスか?」
その答えは考える必要もなかった。「教えてください」というエウフェミアの言葉に、トリスタンは少し困ったように微笑んだ。
◆
僕たちがアーネストと出会ったのは今からちょうど九年前のことでした。
その日は前日の雨の影響で川の水量が増えていて……。旦那様が様子を見に行かれたんです。そして、川原に流れ着いた子供を見つけて連れて帰ってきた。それがアーネストでした。
もう、ビックリしましたよ。着ている服がすごく立派だったというのもありますが、全然動かなくて。最初死んでるかと思いました。でも、その子はすごい高熱を出していたけれど、生きていました。旦那様は必死に看病をして、僕もそれを手伝ったんです。
僕の母親は体の弱い人で、僕も看病は慣れてましたけどね。あれほど、大変だったのは初めてでしたね。
寝ている間はいいんです。でも、時々飛び起きる度に、大絶叫するんですよ。まるで悪夢から覚めたみたいな――いや、もっとひどいですよ。何を言ってるのかよく聞き取れないのがほとんどでしたけど、聞き取れたこともあります。虚ろな目で誰かに向かってずっと謝っているんです。きっと、信じられないくらい、すごいひどい目にあったんだ。それが僕と旦那様の共通見解でした。
それから、間もなくして赤いマントを着た人が旦那様の家を訪ねてきました。その人はアーネストを探しているようで、引き渡せば莫大な金貨を褒美でくれると言いました。でも、旦那様は『そんな子供は知らない』とアーネストを庇いました。あの人に引き渡したら、どんな目に遭うか分かったものじゃないですからね。
アーネストの熱が下がったのは二週間ほどしてのことだったと思います。
最初旦那様が連れ帰ったとき、アーネストの髪と瞳は赤でした。それがその頃には真っ黒に変わっていた。不思議ではありましたが、都合は良かったです。誰もアーネストをエリュトロス家の関係者とは思いませんでしたから。
旦那様は周りに『親戚の子を引き取った』と説明しました。そして、アーネストという名前をつけ、自分の息子だと周囲に紹介するようになりました。旦那様の人の良さは誰もが知ってましたから。誰もその説明を不審に思うことはありませんでした。
でも、その頃のアーネストはまだ心は疲弊したままだったんでしょう。目には生気がなく、僕らの話にもまったく反応しません。食事をしたり、眠ったりはしてくれていましたけど。
だから、旦那様は『元気になるのを待とう』と言っていました。そのうえで、一緒にいるのが大事だと、どこに行くときもアーネストを連れていきました。
アーネストが変わったのは、確か一年後くらいのことです。
それまでの彼は、話しかけても返事すらせず、仕事にもまったく手を貸そうとはしませんでした。でも、ある日、突然アーネストがお客さんに向かって口を開いたんです。
『会計ちょろまかす気か? ちゃんと払えよ』――って。
旦那様も僕も計算があまり得意ではありませんでしたから、そのお客さんが本当より少ない金額で誤魔化そうとしていたのに気づかなかったんです。でも、アーネストは気づいた。
その日からアーネストは積極的――とまでは言いませんけど、そこそこ仕事を手伝うようになってくれました。話しかけたら、皮肉ばっかりですけど返事をしてくれるようになりました。旦那様はとても喜んでましたよ。アーネストが元気になったことをね。僕も弟ができたようで嬉しかったです。
それから、僕らは少しずつ本物の家族になっていきました。……残念なことに僕の母が亡くなって、僕も旦那様やアーネストと同じ家で暮らすようになりました。頭のいいアーネストがいてくれるおかげで、少しずつ商売も軌道に乗って、ブロウズの街に店を構えることもできるようになりました。あの頃は大変でしたが、楽しくもありました。できるなら、ずっとあんな風に三人で暮らしていたかった。
その生活に終わりが来たのは今から四年前です。旦那様が病気で倒れたんです。元々不調は感じていたのを無理していらっしゃったんだと思います。その時にはもう手の施しようがありませんでした。
死期を悟った旦那様は僕らを呼びました。そして、最後の言葉を残してくれました。
……僕には『今まで我慢をさせてすまなかった。お前のことは本当の息子のように思っている。これからは思っていることを素直にいいなさい』――アーネストには『私のわがままに付き合わせて悪かった。これからは好きに生きていいんだよ』と。
そうして、旦那様は旅立たれ、僕とアーネストだけが残されました。僕は商人という仕事が好きでしたけど、自分一人では店を切り盛りできないことも分かってました。……アーネストが仕事を手伝ってるのは旦那様のためであって、アーネストが商人という仕事が好きなわけでないことも。
葬式も終わり、これからどうしようかとなったとき、アーネストが僕を呼びました。そこで、こんなことを言い出したんです。
『何で、この世は真っ当な人間ばかりが先に死んでいくと思う?』
……僕にはアーネストが何を言っているのかよく分かりませんでした。アーネストは続けてこう言いました。
『俺は親父の名がこのまま知られずに忘れ去られていくのが嫌だ。帝都で店を開いて、帝国中の品を商うっていう親父の夢を叶えたい。協力してくれねえか?』
驚きました。僕は店を継ぐことは考えても、店を大きくしようなんて考えもしませんでしたから。……僕はアーネストに協力することにしました。それまで、僕とアーネストは対等な立場でしたが、アーネストを新しい会長に据え、僕は部下に徹することにしたんです。
◆
トリスタンの昔話に、エウフェミアは呟く。
「……そうして、今のハーシェル商会ができた」
「はい。それからもしばらくは大変な日々でした」
彼は昔を思い出すように苦笑する。
「なんと言っても、元は片田舎の商人ですから。歳も若いし、舐められます。アーネストは周囲から舐められないよう身なりや発言で威嚇する術を覚えました。煙草も、お酒も、博打も、女遊びだってそうです。少しでも舐められないよう年齢もサバを読むことにした。――全部、商会を大きくするためです」
ライノットの頂上でアーネストはこう言った。
『この三年、俺はハーシェル商会会長として必要な振る舞いをしてきたつもりだ。感傷とか、同情とか、不要なものは全部捨ててきた』
彼は本当に不要と思うものを全てを捨て、ハーシェル商会のために全てを捧げてきたのだろう。ただ、一つ養父の夢を叶える、そのためだけに。
自然と涙が頬を伝う。それを拭い、話の続きに耳を傾ける。
「目標どおり、帝都に事務所を構えて、一緒に働く従業員も増え、貴族とも取引をするようになって――夢はほとんど叶えたも同然でした。けれど、この頃からアーネストに、少しずつ変化が現れ始めたんです」
それはトリスタンでもうまく説明できないらしい。しかし、それまでハーシェルの夢を叶えるために最短の道を進んでいたアーネストが、違う選択肢を取り始めた。……そう思ったのだと言う。
「例えば、僕や他の従業員を試すような行為が増え始めました。あとはお墓の使用権を買ったり。考えてみれば、自分がいなくなる準備を始めていたのだと思います」
思い出してみると、エウフェミアもそれらしいアーネストの発言を聞いたことがある。
タビサが商会にやってきた日のことだ。彼はトリスタンに仕事を押しつけるとき、『事故か何かで俺がくたばったときはお前が後を引き継ぐんだ。俺の仕事ぐらい代わりにできるようになってろ』と言っていた。あれは最悪を想定しての発言ではなく、元からそのつもりでのものだったのだ。
「僕も分かっていました。……アーネストはずっと片田舎にあったハーシェル商会に縛られているべきではない。いずれ、旦那様の遺言通り自由に生きるべきなんだと思ってました。だから、途中からアーネストの計画に気づいていながらも、僕は何も言いませんでした。僕にアーネストを止める権利はないからです」
トリスタンは目を伏せる。
「でも、ずっと不安でもあったんです。このままで本当にアーネストは幸せになれるのか。商会を飛び立った後に、あの人の向かう先に安らぎはあるのか。……僕のその不安を拭ってくれたのが、――エフィさん。あなたでした」




