36 彼の代わり
エウフェミアはシリルの腕を振りほどく。彼から距離を取り、心の叫びを吐き出す。
「――私らしいってなんですか!」
いつも前向きで、笑顔で。本当はそうするのがつらい時もあった。それでも、エウフェミアは笑顔を作り続けてきた。そうすることがいい未来に繋がると信じてたからだ。
――しかし。
「こんな状況でも笑っていろとでも言うんですか!? 会長が、いなくなったのに……っ!!」
エウフェミアの提案により精霊貴族のあり方は変わる。変わろうとしている。それはきっとこれからの世界にとっていいことだ。なのに、そのことをまったく喜べない。エウフェミアにとっての未来が失われたからだ。
瞳から涙がボロボロと零れ落ちる。アーネストと過ごした日々が脳裏に蘇る。
廃道で助けてくれたこと。雇ってくれたこと。商会で一緒に過ごしたこと。
一緒にフィランダーの家に行ったこと。川原でかけてくれた言葉。夜の面談。
一緒に水の大精霊の心を鎮めたこと。銀行に連れて行ってくれたこと。
商会を辞めたあとも手を貸してくれたこと。一緒にハフィントン侯爵に会いに行ったこと。仮装舞踏会。
一度は決別したと思ったのに、もう一度仲直りできたこと。ナイセルの問題解決に取り組んだこと。その中で自覚した彼への想い。そして、この想いに彼も応えてくれたこと。
そのすべてが、エウフェミアにとってはかけがえのない思い出だった。
湖畔でデートをして、楽しい時間を過ごした。サプライズの誕生日会のあとに二人で話したこと。あの瞬間の幸福は今も覚えている。だからこそ、今の現実がつらい。
エウフェミアは俯き、ポツリと呟く。
「…………こんなことになるなら、真実なんて追い求めるんじゃなかった。――精霊術師になるんじゃなかった」
きっと、分岐点はいくつもあった。その中の一つはおそらくエウフェミアが精霊術師になると決めたことだ。
ウォルドロンでノエから家族の死に不審点があることを聞き、真相を知るために精霊術師となる道を選んだ。あのとき、エウフェミアがその道を諦め、ハーシェル商会に残ることを選んでいれば未来は変わったのではないだろうか。
「そんなことをおっしゃらないでください」
そう言って、シリルが再びエウフェミアの手を掴む。
「あなたの選択は間違いではなかったはずです。精霊貴族に大きな変革を起こした。あなただからこそできたことなんです。誇っていいことですよ」
その言葉に心がどんどん冷めていくのを感じる。信頼する相手であっても、彼とエウフェミアの間には決定的な価値観の違いがある。彼がすごいと言うことに、だからどうしたと思ってしまう。
こちらの冷たい目にシリルも気づいたのだろう。ハッとしたように口を噤む。それから、突然エウフェミアを抱きしめた。
「私では駄目ですか?」
耳元で囁かれ、エウフェミアの思考は停止する。その間も、彼は真剣に想いを語り続ける。
「私だって、ずっとエフィさんのことを見守ってきました。あなたのことを――愛していました。今、この瞬間もです。確かにハーシェル会長はあなたに多大な影響を与え、あなたを支えてくれたでしょう。でも、これからは私があなたを支えたい。私を彼の代わりとしてくれませんか?」
突然の愛の告白。それに対し、最初に湧き上がったのは――嫌悪感と拒絶感だ。エウフェミアは淡々と告げる。
「離してください」
「エフィさん……っ」
「離してください。さもなければ、人を呼びますよ。それとも、火で燃やされることを望まれますか?」
その警告が明確な拒絶ということが伝わったのだろう。シリルは体を離してくれた瞬間、エウフェミアは扉へと駆け寄る。
部屋を出る直前、エウフェミアは一度後ろを振り返る。傷ついたような顔のシリルに言う。
「会長の代わりなんていません。――絶対に」
◆
エウフェミアは階段を駆け下りる。居館を出て、中庭を通り過ぎ、門をくぐる。そうして、道なりに歩き続ける。
目的地なんてない。ただ、どこかに行きたかった。誰もいない場所に。エウフェミアのことを知る人のいない場所に。
しかし、他の集落から離れた場所にある『無色の城』から徒歩でどこかに行くというのは無謀な行為でしかなかった。しばらく歩き続けたエウフェミアだが、ついに足を止める。
(…………一体何をしているのかしら、私)
少し冷静になったエウフェミアは道の側の岩に腰かける。
シリルに八つ当たりのように感情をぶつけて。城を飛び出して。精霊会議に向かったこの道を戻ったところで、過去の自分には戻れない。いくら望んだところで、アーネストが帰っては来ないのだ。
どれだけ時間が経っただろう。ふと、遠くで馬のいななきを聞いた。その直後、近くで声が響く。
『やった、やったよ! エウフェミア! うまくいった!』
エウフェミアは顔をあげる。――それは精霊たちの声だ。
『でも、こんなことしてよかったのかしら』
『何言ってるんだよ。最初にやったのはお前じゃないか!』
『あの時は、あの馬車を止めないとエウフェミアが死んでしまうと思ったのよ。あんな人気のない廃道を通る馬車なんて、もう二度と現れないと思ったのよ』
目を凝らせば、風の精霊と水の精霊の姿が見える。誓約がなくなった影響だろうか。二人は言い争いをしている。他の精霊たちはその周りで二人を見守るだけだ。
「二人ともやめて」
仲介に入りつつ、エウフェミアは質問を投げかける。
「――何の話をしているの?」
『今がチャンスだよ!』
風の精霊は言う。
『さっきからこの辺りをずーっとウロウロしてたんだ! またどっかに行ってしまいそうだったから、止めてきたんだよ! さあ、早く行こうよ! きっと、向こうもエウフェミアのことを探してる』
彼の言うことはまったく分からない。しかし、行かないといけないというのがエウフェミアにも分かる。
精霊たちの導きに従って道を進む。途中、視界が暗転し、元に戻る。『無色の城』を隠す結界を越えたのだ。
それはどこか見覚えのある光景だった。
ぬかるみに車輪をとられ、動けなくなった馬車がある。その車輪を覗き込む帽子を被った男の姿がある。
一陣の風が吹く。
男が「わあっ」と短く悲鳴を上げる。風に煽られた帽子がふわりと宙を舞い、エウフェミアの足元まで転がってきた。――遠くで、風の精霊の笑い声が聞こえたような気がした。
振り返った男の顔を見て、エウフェミアは目を見開いた。呆然と、彼の名を呟く。
「…………トリスタンさん」
エウフェミアの呼び声に青年――トリスタンは振り返る。
彼の着る茶色のスーツは見覚えがないものだ。中流階級向けの、普段彼が着ていた下層階級向けの洋服とは全然違う。髪型も整えられており、まるで別人のようだ。
彼は落ちた帽子を拾い上げ、土ぼこりを叩く。それから、笑顔を浮かべた。
「こんにちは。エフィさん」
その声も、表情も、エウフェミアがよく知る彼そのもの。そうして、ハーシェル商会会長補佐だった男は告げる。
「よかった、こうして会えて。――あなたに会いに来たんですよ」




