25 呼ぶ声
エウフェミアはすぐに状況が飲み込めなかった。それは他の六家の当主たちも同じだっただろう。
首をひねりながらヨウスカルが言う。
「……今代の左の眼はキトゥリノ家らしい子ということかのう? アキレウスも会議直前に行方をくらましたことはなかったはずじゃ」
「違う!」
円卓に駆け寄り、ニキアスは乱暴に机を叩く。
「ダフネはそんな子じゃない! 勝手にどこかに行ったりしない!」
キトゥリノ精霊爵の焦った様子に部屋の空気が徐々に変わっていく。――これは事件だ。
エウフェミアは立ち上がり、手を挙げる。
「ニキアス様。最後にダフネを見たのはいつですか? どこを探されました?」
ニキアスは真剣な表情で眉間に指を当てる。
「――多分、三十分ぐらい前。少し外を見てくるって、『黄の談話室』を出ていって……。城壁塔内は全部探したよ。さすがに外には出ていってない、と思う。居館への通路側の扉から出ていったから」
「では、居館と……あと、他の六家の城壁塔も探すべきでしょうね」
「……うむ」
それを聞いたヨウスカルは髭を撫でる。
「早急に左の眼を探さねばならんのう。居館を探す前に、それぞれの家の城壁塔へ左の眼の失踪を連絡しよう。城壁塔での捜索は各一族に任せ、伝達が終わったら我々で居館内を探そう。それでよいかの?」
年長の精霊爵の提案に反対する者はいなかった。
セオドロスが「では、お先に」と真っ先に『無色の広間』を出ていく。他の精霊爵も扉を出ていき、エウフェミアも後に続こうとして、足を止めた。――エリュトロス精霊爵が椅子から立ち上がらないのだ。
「エリュトロス精霊爵?」
エウフェミアは赤い椅子に近づき、声をかける。
その声でハッとしたように、ゲオルギオスは目を見開く。それから、ゆっくりと立ち上がろうとし、その体がふらりとよろける。
慌ててエウフェミアはその体を支えようとするが、自分よりずっと体格のいい男性を支えきるのは困難だった。しかし、転ぶ前に、精霊爵が円卓に手をつく。
ゲオルギオスの様子は明らかに異常だった。額に脂汗を浮かべる精霊爵を見て、心配を通り越して困惑してしまう。
「本当にどうなさったのですか?」
しかし、彼は何も答えなかった。困り果てたエウフェミアは別の提案をする。
「――『赤の談話室』には私が伝えてきましょう。エリュトロス家以外の人間が足を踏み入れることをお許しください」
そう言って、エウフェミアは答えを聞かず、広間を飛び出した。向かうはエリュトロス家に割り当てられた城壁塔だ。
幸運なことに居館から各城壁塔へ繋がる扉にはそれぞれの大精霊をモチーフにしたレリーフが飾られている。エウフェミアは火のような髪型をした女性のレリーフがついた扉を見つけ、それを開く。
『赤の談話室』へと続く通路。その途中に友人の姿を見つけて、エウフェミアは安堵した。必要以上の説明をせずにすみそうだ。
「ビオン」
エウフェミアに気づくと、ビオンは驚いたように目を見開いた。それから周りを見回す。誰もいないことに安心したように息を吐くと、こちらに駆け寄ってくる。
「エウフェミア。どうしたの? 会議は?」
「それどころじゃないのよ」
そうして、エウフェミアはダフネの行方不明であることを説明する。驚いたように声を上げた後、ビオンは真剣な表情で大きく頷く。
「分かった。こっちの塔は俺たちで探すよ。――でも、どうしてそれをエウフェミアが? ここに入ってくることをよく父さんが許したね」
やはり、部外者のエウフェミアが知らせに来たことに違和感を覚えているようだった。エウフェミアはもう一つの異変についても知らせる。
「エリュトロス精霊爵のご様子が変なの」
「父さんが?」
『無色の広間』で見たエリュトロス精霊爵の様子を説明すると、ビオンは首をひねった。
「確かに、ここしばらくずっと難しい顔はしてたけど、……さっきまではそんなことなかったんだけどな」
考え込む仕草をしてから、ビオンは思い出したように言う。
「そういえば、さっき、ヘクトールが来たんだ」
「ヘクトールさんが?」
「父さんに大事な話があるって一度席を外して――戻ってきたときにはもう会議の時間だったから、その後の父さんの様子はちゃんと見てない」
ビオンの証言で情報は増える。しかし、まったく何も分からない。
「……ひとまず、そちらのことはビオンにお願いするわ。私は戻って、エリュトロス精霊爵の様子を見てくる」
「うん。よろしく」
そうして、エウフェミアは再び居館へと戻る。そして、『無色の広間』に向かう途中の廊下で、壁に手をつきながら歩くエリュトロス精霊爵を見つける。慌てて駆け寄る。
「無理はなさらないでください。座っていなくて大丈夫ですか?」
「……大丈夫だ。それより、左の眼を見つけなければ。これ以上、神聖な精霊会議の場を荒らすわけにはいかない」
精霊爵の厳格さが少し戻ってきたことにエウフェミアは安堵する。確かに先ほどよりは顔色もいい。
彼は壁から手を離すと、自らの力だけで歩き出す。
「――まず探すなら上の階だ。使っていない部屋が多く、鍵もかかっていない。子どもがかくれんぼするにはうってつけだ」
そうして、エウフェミアたちは階段へとたどり着く。上階、そして、下階へと続く二つの階段だ。
エウフェミアは疑問を投げかける。
「下の階には何があるのですか?」
「儀式のための部屋だ。各大精霊と謁見するための部屋。それに『生命の間』がある」
そう説明し、精霊爵は階段を上っていく。エウフェミアもその後に続こうとし、――しかし、体が動かなかった。
下へと続く階段。そこからまるで目が離せない。視界が一瞬ブレ、今より目線の低い『誰か』として、同じ階段を見つめている。
「おい。どうした?」
『――どうしたんだよ、エフィ。急に立ち止まって』
怪訝そうなゲオルギオスの声に少年の声が重なる。――いや、これは兄の声だ。
じっと下へ続く階段を見つめる幼いエウフェミアに、先を歩いていたはずの兄が戻ってきて話しかける。
『何? この下が気になるのか? 下の階は儀式用の部屋で、鍵がかかってるんだ。きっと、探してもいないよ。それより『無色の広間』にいるか、あるいは上の階に――って、エウフェミア! どこに行くんだよ!』
兄の言葉を無視し、あの日のエウフェミアは――そして、現在のエウフェミアも――下へ続く階段へと足を踏み出した。
一度動き出した足は、もう止まらない。あの日、エウフェミアは確かに誰かに呼ばれたのだ。
『おいで、エウフェミア。私の可愛い子。私を目覚めさせてくれ』
初めて聞くはずなのに、どこか懐かしい声だった。耳ではなく、頭の中に直接響く。彼が自分を呼んでいる。
階段を下りた先に一つの扉があった。立派な錠前のかけられた扉。しかし、エウフェミアが手を伸ばすと、独りでに鍵が開き、錠前が落ちる。そして、兄の――エリュトロス精霊爵の制止を無視し、エウフェミアは扉を開けた。
扉の向こうは下へと続く螺旋階段だ。
「……まったく、いったい何がどうしたと言うんだ」
『――さすがにまずいよ、父上に怒られるって。どうせまた『俺がそそのかした』って言われるんだぜ。違うのに』
「おい、貴様。――エウフェミア・ガラノス。この先は神聖な『生命の間』だ。貴様が生命の精霊の恩寵を受けていようと無断で入っていい場所ではない。何より、左の眼を探しに行かなくてよいのか!」
『いや、確かに『青の談話室』から連れ出したのは俺だけどさ。ああ、もう! こっそり会わせて、こっそり戻ればバレないと思ってたのに! これじゃあ、全部台無しだ!!』
後ろから声が聞こえていたが、その内容はまるで耳に届かなかった。途中、腕を掴まれたが、それを振り払う。強い力だったが、なぜか簡単に払えた。
「おい、娘!」
『ホントどうしちゃったんだよ、エフィ! お前おかしいぞ!』
二人の叫びが重なる。そして、階段を降りきったエウフェミアは目的の場所にたどり着いた。
そこは広い空間だった。天井は高く、まるでどこまでも続いているかのようだった。部屋の奥には祭壇が置かれている。
エウフェミアはまっすぐ、そちらに向かう。それから、床に膝をつく。祈るように目を閉じる。
――それは不思議な感覚だった。
過去の映像が頭の中を流れていく。それは一瞬だったかもしれないし、途方もなく時間が経ってのことだったかもしれない。様々な感情が胸の中をぐるぐると回る。
そうして、次に目を開けたとき。エウフェミアはすべてのことが分かっていた。ゆっくりと立ち上がり、エリュトロス精霊爵を振り返る。
赤い瞳と視線が合う。エウフェミアが正気を取り戻したことに一瞬、安堵したように表情を緩めてから、再び精霊爵は厳しい表情を作る。
「一体何事だ。九年前のマネごとでもするつもりか」
「エリュトロス精霊爵」
エウフェミアは男の名を呼ぶ。大きく息を吸い、エリュトロス家当主に問う。
「――どうして、あのとき、イグナティオスを殺そうとしたのですか?」
目の前の男の九年前の罪を暴くために。




