9 青空の下で
次の約束の日は、エウフェミアが望んだとおり快晴だった。
(晴れてよかった)
カーテンを開け、空に雲一つないことに安堵する。もし、天気が悪かったら日を改めなければならなかった。
台所に向かい、エウフェミアは一人料理を始める。クラリッサが手伝いを申し出てくれたが、断った。今日のお弁当は自分一人で作りあげなければ意味がない。
作った料理をバスケットにしまい、次に身支度を整える。
膝丈の薄いブルーのワンピース。髪は邪魔にならないよう後ろで結び、化粧も最低限だけ。今日は屋外ということもあり、動きやすい服装を選んだ。そうして、約束の時間が来るのを待つ。
時間どおりに馬車が屋敷を訪れる。しかし、御者は前回の雇われではなく、エウフェミアも知る人物だった。
「トリスタンさん」
「エフィさん、こんにちわ」
御者台から降りたトリスタンがニコニコと笑顔で挨拶してくれる。そして、キャビンの扉を開け、乗るように促してくれる。しかし、車内には人影がない。
「どうぞ、乗ってください」
「あの、会長は……」
「先に行って待ってます。――さあ、どうぞ。出発しましょう」
疑問を抱えながらも、エウフェミアは馬車に乗る。そして、トリスタンの操る馬車は帝都を走り、その外へと抜けた。
車窓を眺めながら、エウフェミアは考える。
(どこに行くのかしら)
今回のデートはピクニック。しかし、その場所をエウフェミアは知らない。場所はアーネストが考えてくれると言ってくれたからだ。
『全部、お前に任せきりにするのもな。それくらいは俺に考えさせてくれ』
エウフェミアは地理に疎い。商人をしているアーネストのほうが土地勘があるだろう。そう思い、場所探しをお願いしてしまった。
そうして、何も分からないまま、やってきたのは木々や野原に囲まれた湖畔だった。
目視で全体が一望できるほどの小さな湖。その直ぐ側には二階建ての建物が建っていた。その側にはいくつもの物干しが並んでいる。しかし、物干しの木は腐り、今にも折れそうだ。建物自体も古びている。
馬車を降りたエウフェミアはトリスタンに訊ねる。
「ここは……?」
「知り合いの所有する工房です。元々染物屋をやっていたんですが、だいぶ前に店じまいをしてしまって……使わなくなったんスよ。若様が頼んで、今日一日借りれることになったんです」
そんな話をしていると、建物の扉が開く。中から現れたのはアーネスト――だが、その身なりはいつもと全く異なっていた。
まず、服装が違う。普段キッチリとスーツを着こなしているが、今日はシャツにズボンとかなりラフな格好だ。髪も以前変装していたときと同じように下ろしている。そのうえ、全身ホコリまみれだ。
ぎょっとして、彼に駆け寄る。
「どうなさったんですか?」
「――駄目だな。一階の工房は使いものにならん」
苦々しい顔でアーネストが吐き捨てる。エウフェミアが彼の体のホコリを払っていると、トリスタンが笑い出す。
「そもそも、若様がお片づけなんてムリだったんですよ。整理整頓と掃除が苦手で、いつも僕にやらせてるじゃないッスか。慣れないことはするもんじゃないですよ」
「うるせえな」
その話で以前モロニー駅の宿泊施設でアーネストの泊まる部屋を訪れたときに、荷物が片付いていなかったことを思い出す。あのときは荷物を整理している最中かと思っていたが、どうやらそういうわけではないらしい。
アーネストはため息を吐く。
「まあ、二階の住居部分は元から片付いてたから何かあったら、そっちを使わせてもらおう。――それでいいか?」
「あ、はい。そうですね?」
急に話を振られ、分からないなりにエウフェミアは頷く。笑い終えたトリスタンが一歩後ろに下がる。
「夕方くらいになったら迎えに来ますから。どうぞ、ごゆっくり」
そうして、トリスタンは馬車に乗って来た道を戻っていく。移動させてばかりで申し訳なく感じるが、今日はデートだ。ここに残ってもらうわけにもいかない。
馬車を見送ってから、アーネストがこちらを振り返る。そして、手を差し出してきた。
「じゃあ、行くか」
「――はいっ」
エウフェミアは微笑み、その手を握り返した。
アーネストに手を引かれ、野原へと移動する。少し小高くなった場所からは湖畔とその周辺の緑が一望できる。
「いい場所ですね」
「ああ」
返答は短い。
一番高い場所に来るとアーネストは手を離した。そして、その場にごろんと横になる。服が汚れるのもおかまいなしだ。エウフェミアもそれを真似て、隣に寝転ぶ。
上を見ると澄み切った青空が広がっている。頬を撫でる風も心地よい。じっと空を見上げるアーネストにエウフェミアは訊ねる。
「空がお好きなんですか?」
「……好きだ」
その答えに少しだけ驚く。捻くれ者のハーシェル商会会長は「嫌いじゃない」という言い回しをよく使う。ストレートに何かを好きと表現するのを聞くのは珍しい。
「許されるなら朝から夜までずっと空を眺めて過ごしていたい」
子供みたいな言い回しにエウフェミアは思わず笑いをこぼす。
「そんなに空がお好きだったなんて知りませんでした」
「そりゃ、誰にも言ってないからな。トリスタンにも、親父にも言ってない。――ああ、でも」
アーネストは思い出したように言う。
「イオエルには言ったか」
「お兄様に?」
「……アイツの髪と瞳が空と同じ色だったから。その話をしたんだ。そしたら、これは水の大精霊の色だと言い返された」
確かにガラノス家の青は空の青にも似ている。だが、兄の言うとおり、あの青は水の大精霊の色だ。空とは違う。
「でも、すごく綺麗だと思った」
そう言って、アーネストは目を閉じた。
エウフェミアは体を起こし、その顔を覗き込む。影が落ちたことでそのことに気づいたのだろう。アーネストが目を開く。
「私の髪も青のままだったら、綺麗とおっしゃってくださいましたか?」
それは幼稚な嫉妬心からの発言。その言葉にアーネストは笑った。
「今の銀だって綺麗だと思うよ。それに――」
そこまで言って、アーネストは黙る。そして、無理やり体を起こした。
「腹が減った」
「では、そろそろお昼に――」
そう言って、エウフェミアは昼食の入ったバスケットを工房近くに置いてきたことに気づいた。慌てて立ち上がる。
「すみません。今、取ってきます」
「いい。俺が取ってくる。ここで待ってろ」
アーネストは立ち上がると、一人丘を降りていく。エウフェミアはそれを黙って見送ることしかできなかった。




