29 親子の対峙
母は物心つく前に死んだ。兄弟はいない。だから、ビオンの唯一の家族は父だった。だが、小さい頃から父は畏怖の対象だった。
幼いビオンは父に親子らしい交流を求めたこともある。しかし、こちらの行動に対し、父が愛情らしい愛情を返してくれたことはない。
一緒にボール遊びをしようと誘えば「そんなことをしている暇はない。ヘクトールにでも遊んでもらえ」と言われた。
似顔絵を描いて渡せば「こんなことをしている暇があるなら勉強をしろ」と言われた。
仕事でなかなか帰ってこない父にもう少し家に居れないかと聞いたところ、当主としての責務や役割の重要性を説教された。
その厳しさは精霊術師としての教育が始まってから尚更強まった。教え通りにできないビオンを、父は罵倒するかのように糾弾した。それはたった一度きりのことだったけれど、ビオンが諦めるには十分な出来事だった。
――自分に火の精霊術師としての才能はない。大精霊の紋章を授かるなんて不可能だ。
だからこそ、あの日。精霊会議への参加のために『無色の城』への来訪はこれ以上なく憂鬱なイベントだった。どうせ、自分が火の大精霊に認められることはない。また、不出来を晒すだけだ。『赤の談話室』でビオンは一人膝を抱えていた。
彼女に出会ったのは、そんなときだった。
◆
翌日はからりとした晴天だった。火の精霊術を行使するのにこれほど相応しい日はない。
身支度を整えたビオンはナイセルの山を見上げる。今までも山には何度も登った。しかし。いつも一緒にいたエウフェミアはいない。代わりにビオンの側にはニキアスの姿があった。
「一人で山登り? 大変だね!」
無神経とも思えるほど能天気な言葉に、ビオンはどう返すべきか分からなかった。
今回、キトゥリノ精霊爵は連絡係を担ってくれることとなった。空を自由に飛べる彼ほど迅速に動ける者はいない。
彼は手元の懐中時計を見る。
「えっと、火口まで二時間だっけ? それくらいしたら様子を見に行くね。ボクはダフネのところに行ってくるから。じゃあ、頑張って!」
そう言い残し、ニキアスは空へと飛び上がった。それを見送ってからビオンは一人、山へと向かった。
――山に戻ってきた火の精霊たちを落ち着かせる。
エウフェミアから与えられた役割は想像以上に重要なものだった。才能のない、半人前の自分にはあまりに荷が重すぎる仕事。今までなら無理だと拒絶していただろうが、今のビオンは妙に落ち着いていられた。
火の精霊術を使う上で重要なのは強い意志。
父は多くのことをビオンに語った。火の精霊を支配下に置くにはどうするべきなのか。そのやり方の多くは腑に落ちなかったが、唯一この言葉だけは今も心に残っている。
『私には火の精霊術のことはあまり分からない。でも、一つ分かっていることもある。それはビオンが自分自身を信じなければ、絶対に力に目覚めることはできないってことよ』
昨日、エウフェミアはそう言った。自分を信じること。それが強い意志を持つための第一歩なのだろう。
ずっとビオンは自分を信じられずにいた。精霊術を使うとき、いつだって父の言葉が脳裏に蘇る。
――ビオンは弱い。
――火の精霊術師として重要な素養が欠けている。
――才能がない。
――一人前になんてなれない。
その言葉が呪いのようにビオンを苦しめる。何もしても無駄なのだと、そう思わせてくる。自信を喪失させていく。
でも、きっと、このままでは駄目なのだ。
このままでは本当にビオンは父の言うような存在で終わってしまう。何も成すこともできず、火の精霊術師として認められることもなく。そんなふうに一生を終えてしまう。――それは嫌だと、はじめて思った。
火口へと続く山道の登り口。山の入り口とも呼べる場所に近づき、ビオンはありえないものを見た。
――人がいる。
ナイセルは噴火の恐れがある。そのため近隣住民を避難させ、人払いをしたとエウフェミアが言っていた。
まさか避難していない人がいるのか。そんな不安を覚えながらビオンは人影に早足で近づく。しかし、その人物が誰なのか気づき、足を止めた。
「――なんで」
そこにいたのは父ゲオルギオスであった。エウフェミアに無理難題をふっかけた張本人。父がここにいることが何より信じられない。
ゲオルギオスが口を開こうとする。その前にビオンは怒鳴る。
「なんで、ここにいるんだよ! 邪魔しに来たのか」
父から出るのはすべてビオンを批判する言葉だ。攻撃される前に攻撃する。それがビオンが覚えた父からの防衛方法だった。
しかし、いつもなら息子の反抗にすぐに言い返してくるはずの父が何も言わなかった。
いや、何か言いたげでありながら、すぐに言葉を発さない。常に不遜なまでに自信に満ち、己に一片の間違いもないというオーラをまとう父からは思いもよらぬ姿だ。
怪訝に思っていると、ゲオルギオスが口を開く。
「私は見届けに来ただけだ。あの娘が――グレイトスの娘が、本当に有言実行するのかどうかをな」
「エウフェミアは成功させる」
ビオンは即座に返す。
「父さんよりずっと、ずっと、エウフェミアのほうが素晴らしい人間だ。生命の精霊の恩寵の有無なんて関係ない。彼女は素晴らしい精霊術師だ。――彼女は成功する。父さんが出来なかったことを為すんだ」
今までビオンは父の言うことに反論したことは多くある。しかし、自分の主張より父の主張が本当は正しいのではないかと不安がよぎることが多かった。
しかし、今回は違う。
エウフェミアを黙らせようと彼女に無理難題をふっかけたのが間違いだった。彼女は特別な人だ。ビオンはそう信じている。
◆
あの日、一人ぼっちのビオンの前に現れた女の子。
長くて綺麗な青い髪の女の子。キラキラした青い瞳。可愛らしい彼女にビオンは一目で恋に落ちた。
『私もはじめて精霊会議に参加するの! 一緒ね』
そう楽しそうに彼女は笑うが、ビオンは一緒だとは思えなかった。ソファに膝を抱えて座ったまま、向かいに立つ少女に言う。
『君は怖くないの? ……大精霊様に会うのが』
『どうして? 水の大精霊様はとっても素敵な方なのよ。また会おうっておっしゃってくださったの。楽しみだわ』
答えてから、エウフェミアは何かに気づいたようにきょとんとした表情を浮かべる。
『ビオンは火の大精霊様に会うのが怖いの?』
恥ずかしさのあまり、ビオンは何答えられなかった。こんなにも大精霊との対面を楽しみにしている少女に、自分がそんな恐れを抱いているなんて思われたくない。
すると、突然少女が手を伸ばしてきた。両手を握られ、無理やり手を引っ張られた。少しバランスを崩しながらも、なんとか床に立つ。
エウフェミアは笑う。
『大丈夫よ。火の精霊たちはみんな明るく元気でいい子たちだもの。主である火の大精霊様もきっといい方よ。確かに火は怖くもあるけど、温かくて明るくて、私たちを助けてくれるものよ。怖がることないわ』
ビオンが一番怖がっているのは火の大精霊自身ではない。彼女に認められないこと――大精霊の紋章を授かれず、父から失望されることだ。だから、エウフェミアの発言は少し的外れではある。
しかし、それを聞いてビオンは心に明かりが灯るような感覚がした。ずっと、寂しかった、寒かった心が暖められていく感覚があった。
――そう、怖がる必要なんてない。
父は言っていた。火の大精霊と対面できることは名誉なことだと。彼女と会い、彼女を偉大さを目の前で体感する。本来、大精霊と子供たちが対面するのはそういうもののためだったはずだ。
大精霊の紋章を授かれるかなんて関係ない。父の期待なんて関係ない。そんな風に気持ちが傾いていく。
そのとき、『赤の談話室』の他の部屋を探検しに行っていたエウフェミアの兄がどこか期待はずれという顔で戻って来る。
『エウフェミア、行くぞ』
『うん』
兄の呼びかけにエウフェミアは頷く。そして、ビオンの手を離す。そうして、兄のもとへ駆け寄ろうとする彼女の手を、今度はビオンが掴んだ。
『待って!』
エウフェミアは不思議そうにこちらを振り返る。ビオンは勇気を振り絞って言う。
『…………また、会えるかな』
すると、彼女は笑った。
『うん。またね』
そうして、彼女は手を振りながら兄とともに談話室を出ていった。




