0 プロローグ
新連載です。よろしくお願いします。
『自分は幸福だ』と、エウフェミアは信じていた。――今、この瞬間まで。
エウフェミアは目の前のテーブルに置かれた書類と、向かいのソファに座る夫を見比べる。
「その、旦那様。なんとおっしゃいましたか?」
「だから、イシャーウッド伯爵家を出ていけ。――離縁だ。その書類にサインしろ」
「ええと……」
まるで状況が理解できず、エウフェミアは困惑するばかりだ。
目の前に座る金髪の男は夫のイシャーウッド伯爵マイルズだ。彼と会ったのは結婚式の日、ただ一度きり。そして、今日が一年ぶりの二回目の対面になる。久方ぶりの来訪を喜んでいたエウフェミアには、突然告げられた言葉の意味がまるで理解できなかった。
そんな妻をマイルズは見下すように鼻で嗤う。
「相変わらず愚鈍な女だな、お前は」
夫は鞄から乱暴に新聞を引き出し、テーブルに叩きつける。乱暴な動作にエウフェミアはビクリと肩を震わす。
「見ろ! 昨日の新聞だ!!」
示されたのは新聞の片隅にひっそりと載った小さな記事。――『イシャーウッド伯爵領、豪雨で甚大な被害』とある。
記事には豪雨で堤防が決壊し、近隣の田畑が壊滅。突然のことで対策を講じる間もなかった――そう、記事には書かれている。
イシャーウッド伯爵家の本邸も水没。近年、こうした水害が増加傾向にあり、警告を促すような内容だった。
エウフェミアは驚き、息を呑む。イシャーウッド伯爵夫人でありながら、別邸で生活するエウフェミアにはその情報は届いていなかった。何も知らずにいたことを恥じる。
「……それは、大変でしたね。私にも何かできることがあれば、――旦那様のためなら、何でも致し」
「馬鹿なことを言うな!!」
突然の怒声に、エウフェミアは完全に萎縮する。怒りで顔を真っ赤にしたマイルズが続ける。
「全部――全部、お前のせいだろうが!!」
「わ、……私、ですか……?」
どうして、領内の水害がエウフェミアのせいになると言うのだろう。
「先代ガラノス精霊爵の娘――水の大精霊の恩寵を受けた、水の精霊に愛される娘と、あの男が言ったから! だから、名ばかりとはいえ妻に迎えたんだぞ!!」
「え、ええと」
確かに、エウフェミアは先代ガラノス精霊爵の娘だ。八年前、父と母、それに兄も事故で亡くなり――自分だけが、生き残った。
そうして、行き場のないエウフェミアを生家のガラノス邸に置いてくれたのが新しい屋敷の主となった現ガラノス精霊爵である伯父だ。おかげでエウフェミアは衣食住に困ることがなかった。その代わりに屋敷の掃除や料理といった家事のすべてを任されたが――それは恩義に比べればとても軽い。エウフェミアにとって、伯父一家のために働くのは当然のことだった。
伯父はそれだけでなく、年頃になったエウフェミアに縁談まで持ってきてくれた。それが今の夫マイルズとの結婚だ。新しい家族ができる。そう喜んでエウフェミアはイシャーウッド伯爵家に嫁いできた。
しかし、実際に夫と顔を合わせたのは結婚式の一度きり。義家族とも同様だ。今は自分と数人の使用人で、領地の外れにあるこの別邸で生活をしている。夫が訪ねてくる気配はまったくない。それも使用人に『旦那様はとても忙しい方なのです』と説明されて、そういうものだと納得していた。
それでもエウフェミアは、いつか夫や義家族とも、ちゃんと向き合って暮らせるようになるのだと信じている。――こうして、離縁を突きつけられた今でさえ。
(“あの男”って……誰のことかしら。それより、まずは旦那様の誤解を解かないと)
躊躇いながらも、エウフェミアは口を開く。
「あの、旦那様。……旦那様は少し誤解をなさっているようです」
「――誤解だと?」
「ええ、ええ!」
額に青筋を立てながらも、マイルズがこちらの話に耳を傾けてくれたことにエウフェミアは顔を輝かせる。
「その、確かに私の父は先代のガラノス精霊爵でした。ガラノス家が水の大精霊様の恩寵を得ていることも事実です。――でも、私はそうではないのです」
この告白をすることは少し恥ずかしくもあった。だが、夫には本当のことを告げないといけないだろう。
「水の大精霊様の恩寵を受けたガラノスの人間の髪と瞳の色は青です。ですが、私は違いますでしょう?」
エウフェミアは色のない自分の髪に触れる。――この色を見て、伯父はくすんだ灰と表現した。
「……昔、父たちが亡くなったのと同じタイミングで恩寵を失ってしまったのです。だから、精霊術も使えません。水の精霊たちからも……嫌われてしまったのです」
水の大精霊の恩寵を受けたガラノス家の人々は例外なく水の精霊術を使える。その能力で帝国からの仕事をこなし、生計を立てている。
精霊術が使えない彼女には、そうした仕事はできなかった。だから、イシャーウッド伯爵家に嫁いだのだ。力がなくても、ここでなら役に立てる――そう信じていた。
エウフェミアは単純に“家族”であるマイルズには本当のことを教えようという善意から誤解を解こうとした。しかし、この告白はより、夫を激昂させるだけだった。
一瞬、静寂が落ちる。
「――なん、だと……!」
その後、起きたことは嵐のようだった。怒りに任せ、マイルズが部屋の調度品や家具を投げ捨てる。怯えたエウフェミアはその間、部屋の隅で怯えるしかできなかった。
床に割れた陶器の破片や、家具が散乱する。部屋の中央には暴れるのをやめたマイルズが仁王立ちしている。その肩は呼吸で大きく上下している。
嵐が去った。――夫が静かになったのを見て、エウフェミアは恐る恐る声をかける。
「あ、あの、旦那様……? 大丈夫ですか……?」
破片を避けながら、ゆっくりとエウフェミアはマイルズに近づく。そうして、相手の肩に手を伸ばした瞬間。ぐるりと振り返った夫が、乱暴にエウフェミアの腕を掴んだ。
「今すぐ、ここから出ていけ」
先ほどのように夫は声を荒げていない。しかし、その目は確かに激怒しているようだった。
「ま、待ってくださ――」
しかし、エウフェミアの声は届かなかった。あっという間に玄関まで半分引きずられるように連れて行かれる。そうして、嫁入りの際に持ってきた小さなトランクと一緒に馬車のキャビンに押し込められる。
夫は冷たい声で御者に命じる。
「北の廃道に捨ててこい。――行け!」
そうして、無慈悲に馬車は一年間暮らしていた別邸を出発する。見知らぬ道を数時間走り抜け――人気のない森の中で無理やり馬車を降ろされる。そして、御者は無言で走り去っていく。
「待って――!」
残されたエウフェミアは慌てて馬車を追おうとして、ぬかるみに足を取られ、その場に転んでしまう。幸運なことに怪我はしなかったが、ドレスは泥だらけだ。
馬車の音が遠ざかり、やがて森のざわめきだけが耳に残る。ぬかるんだ地面が冷たい。
「……これから、どうしよう」
その場に座り込んだまま、エウフェミアは途方に暮れる。
道を戻れば、別邸に帰れるだろうか。しかし、よく分からないが夫はとても怒っていた。離婚したいとも言っていた。帰ったとして、またあの屋敷で暮らしていくことは難しいかもしれない。
なら、伯父の住む屋敷へ帰るべきだろうか。しかし、ここがどこかも分からなければ、伯父の屋敷の場所もよく分かっていない。一人で歩いて帰る、というのは難しいように思える。
しばらく考えた末、エウフェミアは立ち上がった。近くに落ちていたトランクを拾う。
確かにこれから先のことはまったく分からない。もうすぐ日が暮れそうだが、夜を過ごせそうな場所があるかも分からない。しかし、エウフェミアは物事を後ろ向きに考えるのが苦手だ。
「うん。きっと、どうにでもなるわ」
自分を奮い立たせるためにも、エウフェミアはそう呟いて口元を緩める。
そうして、夜過ごす場所を探すために歩き出した。