第三十七話 推し変。
マインは、ナイフの片方をぽいっとほおり投げ、空いた手で私の顔に手を伸ばす。私はチャンスとばかりにすかさず押し返したが、片手でありながらビクともしない……なんという力だ。やはり先ほどまでは手加減されていたようだ。
彼女は、私の前髪をかきあげる。目を突くつもりかと顔を逸らしたが、顎を捕まれ、無理やり正面を向かされる。
マインの獣の瞳が、値踏みするように私を見る。まさか、私を食べるつもりじゃなかろうな。確かウサギは草食という話ではなかったのか。
マインは、口紅が引かれた唇をぺろりと舐める。舌が赤く染まり、肌が粟立つのを感じた。
「ニックって、魔力ないから気配もないし、何言ってるかわかんない不気味な陰キャって思ってたけど……顔良いじゃん」
「え? あ、うん? あ、ありが、とう?」
「ねぇ、今ニックって彼女いるの?」
「え、彼女……ああ、交際している異性は、いないよ」
「ふぅん……ね、ちょっと歌って見て?」
「う、歌? 今?」
「何回もおんなじこと言わせないで?」
「あ、はい」
意味は全くわからないが、ともかく時間稼ぎできるなら助かる。
しかし、歌か……元々音楽のない場所で育った私に、歌える歌など……いや、一つあった。
どう考えても体制が歌い手向きではないので、せめてもの抵抗として、私は思いっきり息を吸い込んで、叫ぶよう歌った。
「死んだ〜、死んだ〜、四軍が死んだ〜、アレンにサリバン、セリーナにランバ、イザイルさえも死んだ〜。ふっふふんふんふ〜んっ、フォウッ」
そう、四軍大量死後、トムが気に入って歌っていた例の歌だ。あまりに頻繁に歌うので、ついつい覚えてしまった。
静まり返るフィールド。我ながらうまく歌えたと思ったのだが、賞賛の声はあがらない。
あれ、私、何かやっちゃった……やっちゃってる、アレンとセリーナは、ユルー派の四軍の名前だ。
「……テメェ、ぶち殺すぞ!!!」
その言葉を皮切りに、私に対する罵倒が派閥関係なしに飛び交い始める。しかし、マインは全く気にした様子もなく、熱っぽい瞳で私を見た。
「歌唱力はともかく、声質は合格! それじゃあ、今度は、うん……マインのこと、好きっていってみて」
「はぁ!? マインあんた、何言ってんの!? ニックはあんたのことなんか好きじゃないんだけど!?」
マインはやれやれと肩を竦めてから、呆れた表情でエリースの方を振り返った。
「エリース、そんなのわかってるっ! なに、マインのこと厄介ガチ恋勢だと思ってる!? そう言うのじゃなくって、その程度のファンサービスもできないようでは、この先が心配って話なの!」
「ファンサービス? この先?」
何を言ってるんだ?……まあいい。時間稼ぎ時間稼ぎ。
「えーっと、マイン、好きだよ」
「……ふーん」
無感情な相槌だったが、口元がニヤニヤしているので、どうやら気に入ってくれたようだ。
「感情がこもってないけど、そういう子を一から育てていくっていうのもいいかも……あ、先に言っとくけど、私が一番の古参だから。他のファンと扱いを変える、くらいのファンサービスができないようだと、正当な冒険者アイドルにはなれないよ?」
「アイドル?」
さっきから何の話をしているんだろう。支離滅裂なうえに早口なので本当に理解できない。
すると、私を押さえつけていた力が弱まった。私はすぐさま剣をカチあげて横に転がったが、マインは追ってくることもなく、守りに徹するグリーフ相手に剣戟を繰り出しながらも、何事かとこちらを伺っていたブライトの方を見た。
「ごめん、マイン推し変するわ。レオ様最近マジで塩だし。届かない推しよりも、繋がれる推しの方がいいし」
「……お前、何言ってんだ?」
「いや、だってさぁ、こんな馬鹿みたいなことしないと推しに近づけないのって、冷静に考えたらおかしくない!?」
「おい!!!!!」
耳をつんざくような絶叫だった。その絶叫の本人であるブライト自身も驚いているくらいだ。慌てたたように獣の口を塞ぎ、フサフサの耳をびくんびくんと揺らしている。
「……それは、お前がレオ先輩の後をつけたり、家に不法侵入したり、レオ先輩の隊服を盗んで勝手に染色したからだろ! 本来だったら殺されてるところだったんだぞ!」
「えぇ、別によくない、そのくらい。ね? にっくん?」
「え? にっくん?……ああ、うん、確かに、そのくらいで殺すのはどうかと思う」
せっかくの群れの一員を、そんなことで殺してしまうなんて馬鹿げていると思うので同意する。すると、マインの白い頬がポット赤らんだ。
「優しい…好きっ」
「え?」
好きって、ただ一般常識を話しただけだぞ?……もしかしたら、私はとんでもない過ちを犯してしまったのかもしれない。
「うん、もう完全に最推しだわ。最推しとは戦えないから、マインは引っ込んでるね。にっくん、頑張って♡」
そして、マインは私に投げキッスをしてから、ユルー派観戦組の方へとスキップで合流すると、両手を揃えて右斜め上に掲げてから、弧を描きながら下に下ろし、その反動を利用し左斜め上に掲げる、という動きを繰り返し始めた。その上双剣がピカピカ光出したのでより奇怪だ。
ただ光るだけの魔剣など聞いたことがないので、あれは自前の魔法だろうか。魔法が苦手な獣人なら、ただ光るだけの魔法でも習得に相当苦労したはずで、それも含めて非常に不気味。彼女が味方になってくれてよかったと、心底思ったのだった。




