第二十六話 脱退失敗。
「トム、いい加減出ておいでよ」
『トム隊』と書かれた名札が落ちるほど扉を力強くノックしたが、返事はない。しかし、耳をすませばぐずぐずと鼻をすする音が聞こえたので、聞こえた上で無視を決め込んでいるようだった。
五軍寮は水も滴る腐りかけの木造だから、私が本気で体当たりをすれば扉を開けることもできるわけだが、この部屋はあくまで『勇ましい大群』の所有物。破壊行為はれっきとした器物損壊罪として相応の罰を食らうことになってしまう。
つまり、トムの方から鍵を開けてもらわないと野宿しなくてはならないわけ、あいにくこれから洗濯の仕事があるので、この場から離れなくてはならない。洗濯の仕事は、お付きのメイドがいる一軍の先輩方以外の隊服を洗うと言う重要任務なので、サボるわけにはいかないのだ。
「トム、俺たちは脱退するから、そのつもりでお願いね!」
仕方なくそれだけ言い残して、私は踵を返して廊下を早歩きできしませ進むと、グリーフがしかめっ面で私を追いかけてくる。
「おいおい。追い討ちをかけんなよ」
「…………」
私が無視をすると、グリーフが私の肩を掴む。勢いよく振り返りグリーフの手を降り解くと、逆にグリーフに詰め寄った。
「そうしないといけないのはグリーフのせいだろう? あそこでトム隊を脱退すると宣言しておけば、すべて丸く収まったんだ」
「……約束を破ったのは、悪かったと思ってるよ」
「それは良かった。それじゃあ、洗濯まで時間もないけど、今からカイセドに脱退の件を伝えに行こう。こう言うのは、時間をかければかけるほど言いにくくなるからね」
すると、グリーフは切れ長の瞳を伏せて、深々とため息をついた。まるで非は私にあるかのような態度に、頭に血が上るのを自覚する。
「約束を破ったのは悪いと思ってる……が、脱退するつもりはない」
「なんで?」
「トムのことが心配だからだよ。逆に聞くが、お前は心配じゃないのか?」
「…………」
どうやら、グリーフは今回の昇格試験の変更によってトムに危険が及ぶと考えているらしい。しかし、それはちょっと色々と酷いんじゃないだろうか。
「もし、トムに危険が及ぶのなら当然心配だけど……杞憂だよ。カイセド先輩だってそう言ってたじゃない」
「お前な、あんな奴のことを信用するのかよ? 人のちんこの小ささを笑うようなやつだぞ?」
「いや、あれは笑ったというより……まあいいや。少なくとも、カイセド先輩はトムのことを好意的に見てるんだから、そういう面ではグリーフと同じ立場なわけだから、信用はできるよ」
「いいや、できないね。あいつは楽観視しすぎなんだよ。だから四軍の奴らを死なせちまった……トムを昇格させるため、わざと危険な潜行をしたって噂も立ってるがな」
「まさか……」
トムが昇格に強い執着を抱いているのは知っているが、間接的に人を殺すことを受け入れるほどとは思えない。もちろんカイセドが勝手にやった可能性もあるけど……ありえないと、信じたい。
「まあ、それはないにしても、カイセド派へのヘイトは尋常じゃないくらい高まってる。ただでさえ、カイセドが元々ユルー派に所属していて、ユルー派の団員を引き連れて新派閥を作ったって経緯から、ユルー派には目の敵にされてたのにだ」
「え、でも、最近のユルー先輩、全然大人しくない? なんならちょっとカイセド先輩庇ってくるくらいだよ」
「それは……嵐の前の静けさってやつだよ。ブライト隊の奴らなんか、『命の記録帳』が運営の手にあるうちに俺たちを襲ってきただろうが。実質殺人許可証を得ることになる今回の昇格クエストで、トムを襲わないって保証がどこにあるんだよ」
「……でも、それなら、俺たち二人がいたところでどうしようもないじゃないか。武闘派だらけのユルー派に勝てるわけがないよ」
私が単純な疑問を打ち明けると、グリーフは押し黙った。そして、迷ったように視線を空中に漂わせた。
「……お前なら」
そして、探りをいれるような目で私を見る。
「お前なら、どうにかできるんじゃないのか?」
「ぇ」
一体全体、どんな根拠でそんなことを言うんだろう。ブライトの言う通り、私はちょっと剣の腕がいいだけのアタッカーでしかないのだぞ……魔力無しのフリをしているのがバレたのか? 私と同じく、具現化していない魔力も認識可能なエルフたちですら、私から一切魔力を感じないと断じたのだ。人族のグリーフにバレるはずがない。
きっと、何かの冗談なんだ。しかし、これでは、まるで図星を突かれたような反応だし、何かを言わなくてはいけないと思っているのに、口は動かない。
気まずい沈黙が、私たちの間に降りた。
「……はっ、グリーフ、冗談にしては悪質すぎて笑えねぇぜ」
その沈黙を待っていたように、廊下の角で待機していたブライトが姿を現したのだった。




