第二十五話 脱退。
トムの絶叫に、何事かと視線が集まる。カイセドは、困惑した様子でピンク色の耳をビクビク痙攣させた。
「な、なんだ、トム、何か問題でもあったのか?」
「あ、ううん! その、それは全然、大丈夫なんだけど」
「……なんだよ、その態とらしい演技」
すると、いつも笑顔で気のいいトリッソ班のズールが、怒り任せに手のひらで水面を叩きつけた。そして、温和な印象を抱かさせるタレ目を限界まで吊り上げて、トムを睨む。
「わかってただろ! お前はカイセド先輩に気に入られてるんだからよぉ! まさか、そんなつもりじゃなかったとでもいうつもりか!!」
「え、いや、そういうわけじゃっ」
「お前ら、恥ずかしくねぇのか! 他の隊と比べて、お前らの隊だけ忖度で選ばれてんの丸出しじゃねぇか!」
今まで溜め込んでいた不満が、ここで爆発してしまったようだ。感情をまとった魔力が漏れ出し、我々に対する罵詈雑言が大浴場に飛び交いはじめると、事態を察した他の入浴者が、蜘蛛の子を散らすように浴場から出て行った。
カイセドの方に視線をやると、ただでさえ赤らんでいる顔を真っ赤にして戸惑っている。彼が一喝すれば場が収まるというのに……いや、それは結局のところ不満に蓋をするだけなので、解決にはならないかもしれない。私が今後この群れで快適に過ごすためには、私自ら彼らの不満を解消すべきだ。
「あのー、すみません!」
私が挙手をすると、団員たちの敵意の視線が一気に私に集まった。
「な、なんだ、ニック、言ってみろ!」
まるで私のことを救世主のように見るカイセド。彼の望み通り、私は彼を救うことになるだろう。
「カイセド先輩、俺とグリーフは、トム班を脱退します!!」
沈黙。ジャボジャボと、ドラゴンの口から水が噴き出る音だけが大浴場に響き渡った。
なんだろう、この空気。私、何かやっちゃいましたかね?
「……お前、一体何を言っている。今お前たちは、昇格の機会を得たのだぞ? それなのに、なんで脱退だ?」
カイセドが、まるで暗闇の先でも見るように、不安げに私の顔を覗き込んでくる。
ここで、昇格したくないことを打ち明けるのは悪手だ。私が調べた限り、五軍の人間で”昇格したくない” なんて公言しているのはグリーフだけなので、そんな主張をしてしまえばグリーフと同類だと思われてしまう。
もちろん、用意周到な私は、ちょうど良い理由を用意している。
「ええ、昇格はしたいのですが、俺たち、全然昇格にふさわしくないじゃないですか。それなのに昇格なんておかしいので、辞退したいということです」
私も皆と同じ意見であることを表明すれば、少なくとも私は皆からの侮蔑を受けずに済むはずだ。もちろん常日頃からアピールしてはいたものの、口だけだと言われてしまっていた。しかし、本当に昇格できる機会を自ら捨ててみせたら、そんなことは言えないはずだ。
すると、今度はカイセドまで黙り込んでしまう。空気はさらに淀み、心なしか靄も濃くなった気もする。賞賛を浴びる予定だった私としては、湯に浸かっているのに冷や汗を禁じ得ない展開だ。堪らなくなってきて、グリーフに全てを投げ出すことにした。
「グリーフと一緒に話し合って決めたんです。ね? グリーフ」
「……え、グリーフ、嘘だよね?」
「……ったく」
トムに問われたグリーフは、深々とため息をついた。そして、危うく腰に巻いたタオルが解けかねない勢いで立ち上がり、女性陣から期待の声が上がる。
「カイセド先輩、一つ質問があります」
質問? あとはトム隊を辞めるだけなのに、一体何を聞くことがあるんだ?
「……ぐるるぅ。言ってみろ」
カイセドが、細い目をぎらつかせてグリーフを見る。やはり彼は、
「今回の潜行、派閥間の争いは、ポイントの競い合いの範疇では収まらないと思います」
「……ぐるるぅ。というと?」
「『命の記録帳』が俺たちの手元にやってくるからです。そして、試験の期間中に、『命の記録帳』の記録期限は終わり、隊員が全滅した場合、その隊は失格となる……」
「……それがなんだ、ぐるるぅ?」
カイセドが惚けるように首を傾げると、グリーフは苛立たしげに眉根を顰めた。
「わざわざポイント勝負なんてしなくても、他の派閥の昇格する可能性の高い隊の連中を全員殺しちまえばいいと考える連中だって、いるってことです」
私のせいで白けていた空気に、緊迫感が戻る。しかし、このような発言で緊迫してしまうのは如何なものか。
「その上、隊を二つに分け、しかも潜行隊が多層式を使い分離していくなら、より狙われやすくなります。カイセド先輩は、そのリスクに対してどうお考えですか?」
「……ぐるるぅ。嘆かわしい」
カイセドは深々とため息をつき、濁った豚の瞳でグリーフを睨みつける。
「一切の心配はいらない。お前たち五軍たちは、お互いの派閥をライバル視するがあまりに鍔迫り合いが多いようだが、私たち四軍では、健全な競争のみが存在する。今回の昇格クエストは我々四軍が主導で行われるのだから、そのような愚かなことが起こり得るわけがないぐるるぅ」
「……しかし」
「無駄な心配をして効率的にポイントを稼げなければ、昇格の五枠を他の派閥に奪われる可能性もあるのだぞ…ぐるるぅ…お前の馬鹿げた話を信じて同士討ちを警戒した結果昇格を逃したらどうする?」
「もちろんその可能性もありますが……特にユルー派は、血の気の多い連中が多い。カイセド先輩が過去ユルー派から脱退して、引き抜きをしたという経緯もありますし、復讐には良い機会です」
ピクリ、とカイセドの獣耳が揺れる。自分を批判していると受け取ったのかもしれない。
カイセドは、むちむちの身体を揺らして立ち上がる。そして、醒めた表情で私たちを見下げこう言った。
「ぐるるぅ。そこまで気に食わないのなら、今回の私のありがたい提案を辞退するということでいいのか、トム?」
「……ない、絶対にありえない! ボクは絶対に昇格する!」
トムは、状況を飲み込むための時間こそかかったものの、答えに迷いは感じられなかった。彼の昇格に対する思いは、すでにわかっていたことだ。一体全体何の確認作業かわかったものではない。
「ぐるるぅ、素晴らしい闘志だ。こういう、ポイントでは表せないものを見込んで、トム隊を一番に据えたのだ……といっても、もう隊ではなくなってしまうようだがな」
グリーフは私の方にちらりと視線を落とす。
「……ニック、悪いな」
非常に嫌な予感がして、私はグリーフを止めるべく、タオルを思いっきり引っ張った。
「俺とニックはトム隊に残って、昇格を目指すことにします」
タオルが取れ、グリーフの男性器が露わになった。
「……え、ちっさ。ゴブリン並みじゃん」
女性陣から失笑が漏れる。確かにグリーフの男性器は平均より小さいが、今はそれどころの話ではないだろう。
「え、それで小さい、のか?…ぐるるぅ…わかった。なら構わない。それでは、私は上がるから、各々自分の入浴料は自分で払うようにぐるるぅ!」
『えぇっ!?!?!?』
そう言いながら、カイセドは股間を押さえながら、すごすごと浴室から出て行った。少しの沈黙のあと、グリーフの男性器の小ささや、カイセドのケチっぷりが話題を席巻し、グリーフの宣言は完全に流されてしまった。
心なしかグリーフは恥ずかしそうだ。繰り返すが、グリーフの男性器の小ささなんて今はどうでもいい……プフッ。なんだか知らないけど笑ってしまった。もしや、うんこよりちんこの方が面白いんじゃないだろうか?




