第一話 ダンジョンの最下層からの脱出。
ダンジョンの階層を上がれば上がるほど、今まで嗅いだことがない、はずなのに、どこか懐かしさを感じさせる匂いが強まってくる。
「ねぇ、ニック、これ以上濃厚な血と香り豊かな魔力を垂れ流して、私を誘惑するのはやめておくれよ!」
それが、私の生まれ故郷である、地上の匂いなのだと気づいた時は、腹に空いた穴のことなど忘れるほどの感銘を受けたのだが、それで血が止まる訳でもない。
「なんだ、そうまでして私に食べられたいのか!? つまり私がお前を食べたとして、その責任はお前にあるということだな! それじゃあ足からお前を食べるので、お前はダンジョンの母様に贖罪を叫べ!」
「ちょっとおねぇ! ニックが誘ってるのはあーしなんで、おねぇは草でも食ってな!」
「……そんな短小尻尾で、よくもまあそんな大言を吐けたものだな。私だったら恥ずかしくて求愛の一つもできないが、そんな女に食べられたい男などいるのだろうか?」
「はぁ!? 女の価値は尻尾だけじゃないんですけど!? 実際、あーしのツノの方が、おねぇのツノより長くて太いぢゃん!」
「ツノなんて、寝るときに邪魔だし、攻撃の時だって対して役に立たない! 実際に、私はこの尻尾でニックの骨を何回も折った!」
「は? あーしはこのツノでニックの腹を裂いたことあるけどぉ!? あの時の悲鳴、おねぇにも聞かせたかったな!」
「それでニックが死んでないのが、お前のツノが役に立たないことを証明しているな!」
「殺したらダンジョンの母様に怒られるから、手加減しただけだし!…ま、一番ないのはカナコだけど! ツノも尻尾も笑っちゃうくらい短いんだから、カナコに食われるのだけは勘弁っしょ!」
「っ……ぼ、僕は……おっぱい、大きいもん!」
「ブフッ、それのどこがいいのよ! ただのデブじゃんデブ!!」
「っ…違うんだよ! 人間はおっぱいが大きかったら大きいほどいいんだよ! ねぇ、ニック!」
魔法によって強化した脚力で大地を蹴っているはずなのに、後方から聞こえる三姉妹の声は遠ざかるどころか、徐々に近づいてきている……このままでは、追いつかれる。
しかし、残りの魔力量を考えたら、これ以上の身体強化はできないし、苦手な分消費の激しい回復魔法を使おうものなら、失神してしまうだろう。
「……ニック、なんで無視するの!? 僕がデブだから!?!?」
ヒステリックな叫び声とともに、背後から強烈な熱気が迫るのを感じる。視界が真っ赤に燃え盛り激痛を訴えた身体ごと、私の意識は吹き飛んだ。
「……っ」
しかし、奴らに鍛えられた生存本能が、すぐに意識を取り戻させる。
森に巣食う魔物たちの阿鼻叫喚に目を覚ますと、先ほどまで青々と生い茂っていた森は、煌々と燃え盛っていた。ちょうど焦げ付いた手が目の前にあったので、ぷすぷすと音をたてる黒土を握りしめる。
ああ、よかった、まだ動く。
「ちょっとマリー!? あんた、森を燃やしちゃダメぢゃん! ダンジョンの母様オコだよ!?」
「だって、だって、ニックのくせに、僕を無視するから!」
「この妹は……ニックは私たちと違って、一回死んだら生き返らないのだぞ!」
どうやら耳も効くようだ。他は……脚をやられたな。いくら身体強化をしたとしても、まともに動かないものを動かすのは難しい。
私は、脚の関節周りの火傷だけを限定的に治して、絶叫をあげる身体を無視して立ち上がった。
「おっ、さすがニックだ、私たちのしごきに耐え抜いてきただけある!」
奴らの品性のかけらもない笑い声が、迫ってくる。
走らないといけないのに、苦しくてたまらない。業火に包まれるこの森は、人間の私にとってはあまりに劣悪な環境。そして、奴らにとっては安息の地でしかない。
このままでは、ダンジョンの最下層……あの魔女の元へ、連れ戻される。
それならば、死んだほうが良い。だが、ただでは死ぬつもりはなかった。
足を引きずり、火を灯しうねうねとのたうつ藪を抜け出すと、森の中にぽっかりと穴が空いたような空き地に出た。炎に囲まれたそれは、本の中で見た決闘場のようだ。
立ち止まって、振り返る。三姉妹のうち、一番の年長者であるエリーが、べろりと長い舌で真っ赤な唇を舐めた。
「やっと諦める気になったか、ニック。何、食うなんてのはちょっとした冗談だ。しっかりダンジョンの母様の元へと連れ帰ってやろう。今回の逃亡はちょっとした拷問で許されて、あと三年は生かされる。その間、私たちが遊んでやろう。それなら退屈もしないだろう?」
「……お前らの遊びは、いつだって、最悪だった、よ」
焼けた喉で応える。本当はこんな奴らと言葉を交わしたくはないが、時間を稼ぐ必要があった。
「はぁ!? 何それ! 他の下級魔物だったら、涙を流しながら絶叫してんし!」
「それってただ絶望してるだけじゃない? やっぱり僕たち嫌われてるのかなぁ」
「まあまあ、サリー、そう怒るな。最悪なのは、私たちの問題じゃないさ」
エリーはテラテラと赤黒く光る龍人の尻尾が、タンタンとリズミカルに地面を打つと、紅蓮のドレスがふわりと舞った。燃え上がるような瞳が、品定めするように私を見る。
「何せお前は、ダンジョンの母様が赤子から丹念に育てあげた最高級の“肉”なのだからな」
「……っ」
ずきり、と胸のところが痛んだのは、外傷が原因ではないようだった。
ダンジョンの母。
このダンジョンの産みの親であり、彼女たちの産みの親でもあり、そして……私の育ての親でもある。魔女と呼ばれる、不老不死の存在。
あの魔女が、私を肉用に育てたのは、紛れもない事実だった。
「つまり、死んで物言わぬ肉塊になって初めて、お前は自身の価値を証明できる。逆に、肉のくせに生きてしまっている今、こいつは無価値なゴミだ。常に無価値であり続けたこいつの日常は、いつだって最悪だったんだよ」
「うわ、そんなん言われたら一気に食欲減退なんですけどぉ。ほらニック、今すぐ全裸になって開脚して! 肛門の臭いを嗅いだら一気に食欲湧くから!」
「サリー、それは後でいいだろう」
私は微弱な回復魔法を使い、それによって出た魔力の残滓を、あくまで自然に空中に漂わせた。
「しかし、それを理解していて、なぜ地上に逃げようとする? もしお前がこのまま逃げ果せたら、お前は無価値なゴミのまま生涯を終えることになるのだぞ?」
「……お前には、関係、ない」
たとえ時間稼ぎになるとしても、こいつらに私の本心を打ち明けることはない。
「ふっ。ま、大方、肉のくせに死ぬのが怖くなったんだろう……まぁ、この際私たちはいい。しかしなニック、ダンジョンの母様に申し訳ないと思わないのか?」
「……ぇ?」
意味がわからなくて聞き返すと、エリーは、まるで物分かりの悪い子供を相手にするかのように苦笑した。
「赤子の時、ダンジョンに捨てられたお前は、人間の子供と思えないほど魔力に満ち満ちていた。本来だったら、その時点でダンジョンの母様はお前を食べていたはずだ。しかし、ダンジョンの母様は、私たち由緒正しき魔人しか住むことが許されないダンジョンの最下層で、お前を育てることにした……お前の魔力を増やし、より美味しい肉にするためだ」
「…………」
「おかげでお前は、まず間違いなく人間の中で最強の雄になった。魔力量だけ見れば、私たち魔人と比べても遜色のないだろう。私たちに食われるためだけに存在する劣等種にとっては、身にあまる光栄だろう」
「……………………」
「それなのにお前は、ダンジョンの母様に感謝の一言もなければ、一口も食われていない。今、ダンジョンの母様が、最下層でどんなお気持ちでおられるか想像することさえできないほど、人間は愚かなのか? 手塩をかけて育てた息子に裏切られた母の気持ちに、涙を流せないほど残酷なのか?」
「…………………………………」
「……ふっ、気づいたようだな。結局子供は、母を愛さずにはいられないのだから当然だ。ほら、今すぐ謝りに行くぞ」
「……は」
思わず、笑ってしまった。
こいつらは、本当に、私のことを、一匹の生物としてすら、認めていないんだな。
そんなことはわかっていたつもりだったが、改めて示されると……そうだな、もうとっくの昔に失ってしまったはずの、怒りの感情が湧いてくる。
「あの魔女を、母と思った、ことなど、ない」
私がそういうと、三姉妹の雰囲気が一気に変わる。
彼女たちの身体から発せられる魔力は熱気を纏い、焼けついた背筋に寒気が走った。
「……どうやら大人しく帰る気はなさそうだな。仕方がない。肉は肉らしく、串刺しにして連れ帰ろう」
タンタンと地面を打っていたエリーの尻尾が、鞭のようにしなりながら私の方に飛んでくる。
私はそれに合わせて、粒子状の魔力をつなげて、薄く伸ばす。
そして魔力を実体化させると、そのまま残りの魔力を使って、魔力の刃を操り、尻尾めがけて振り下ろした。
キン、と、硬いもの同士がぶつかる音。魔力の刃は弾け飛び、エリーの尻尾には、ちょっとした傷がついたくらいだった。
……一矢報いた、と思えるだけ、私の人生にしては、いい終焉なのかもしれない。
私は残りの魔力を全て使い果たし、身体を燃やし尽くす準備をした。しかし、尻尾がピタリと止まったので、寸前で辞める。
エリーは、顔を反らしながら、ゆっくりと尻尾を抱き寄せる。そして、薄目で尻尾を観察する。
真紅の瞳が見開かれると、聞くに耐えない絶叫。
「私の、私の尻尾に傷がああアアアアア!!!! 真っ赤になっちゃってるじゃないかぁぁぁぁぁぁ!!!!」
そして、尻尾を抱きしめながら、ゴロゴロと地面をのたうちまわり始めた。
「ちょ、ちょっとおねぇ!? 真っ赤なのは元からぢゃん!」
「え、ダサ」
他の二匹が、醒めた目で姉を見る。この程度の女から必死に逃げていたと思うと、私まで恥ずかしくなって、思わずその醜態を眺めてしまった。
すると、真紅の瞳と目があう。
「ニック、なにを見ている!! 早く、私の尻尾を治せ!! 回復魔法使えるんだろうが!!」
「他人には、使え、ない」と嘘をつくと、エリーの顔が情けなくゆがんだ。
「うぅ〜!!」
エリーは自分の尻尾を涙目で抱きかかえると、プイッと顔を背けた。
「帰る!!!」
「……えぇ!?!? ちょっと待ってよおねぇ! ニックはどうすんの!?」
「どうでもいい!! 私の尻尾に傷がついたんだぞ!! ほら、肩を貸せ!! もしくは肩に類する何かを貸せ!!」
「……肩に類する何かが思いつかないから、肩を貸すね」
そして、エリーは二人の妹に支えられながら、「傷残るかなぁ。残るよなぁ。残ってもパテ的なやつで埋めたりできるかな? 埋めたとして、色とか質感が違ったら嫌だなぁ。はぁ、最悪」とブツブツ去っていった。
……まさか、私を圧倒してきたあの尻尾への攻撃が、ここまで効くとはな。今日の醜態を思い出して、顔まで真っ赤にならないことを祈ってやろう……!?
がくり、と身体から力が抜けるのを感じる。
煽っている場合ではない。回復魔法で火傷と穴を治すと、身体強化に使う魔力すらなくなってしまった。あとは、新たな追跡者が来る前に、地上に出なくてはならない。
私は踵を返すと、魔物たちが燃え尽きていくのを傍目に、迷いなく進む。
マリーに焼かれたせいか、今更熱さも感じない。燃え盛る森から抜け出すと、まず目に入ってきたのが、ボロボロに老朽化した建物だ。
これは……本で、見たことがある。教会と呼ばれる、地上の最高権力者、神に祈るための場所だ。
教会は、確か人が集まる場所にあるはずだから、ここは、村、と呼ばれる、人間が暮らす場所か……ポツポツと建っている今にも崩れ落ちそうな小屋は、村人が住むためのもので、その先に広がっている黄金の地平線は、麦と呼ばれる植物のはずだ。
もちろんこの全ては魔女の作り物で、実際の村ではない。そうわかっていても、立ち止まり、上を見ずにはいられなかった。
空。地上を構成する要素の一つらしい。思わず見とれてしまうほど、澄み切った青色だった。
「……あ」
青い空に、切れ目が入る。切れ目は、徐々に広がっていき、やがて真っ赤に色づいた。
あの魔女が、血を滴らせながら肉を食べる時の唇。吐き気を催すが、なぜだか目が離せなかった。
唇がゆっくり開くと、病的にも見えるほど白い歯がのぞく。
おえっおえっと嗚咽がダンジョン内に響き渡ると、魔女の口から、ボトボトと泥のようになった肉片が流れ出、黄金の大地を汚す。
肉は、母の胎内に戻りたがっている赤子かのように、うねうねと天高く伸びていく。
やがてそれは、私をその形のままぶくぶく膨らませたような、巨大な肉になった。
顔にあたるところに、ギョロリと一つの目が現れる。
「サイクロ、プス」
サイクロプスの一つ目が、私を捉えた。
お読み頂き誠にありがとうございます!
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