第863話
草木も眠る丑三つ時―――
ここは歓楽街裏の貧乏長屋。
酒の徳利を転がして、隠密同心、チョウベエ=サカムラが眠っていた。
「んがあ~・・・んがあ~・・・がっ・・・うん・・・ううん・・・」
「チョウベエ」
「が・・・」
「チョウベエ」
「ああ・・・んん?」
ぼけっとした顔で、チョウベエが起き上がる。
「は・・・」
口を開け、半目を開いて、暗い部屋を見回す。
夢か。
「ん~っ・・・」
チョウベエが寝転がる。
「チョウベエ」
「は!」
ぱ! とチョウベエが飛び上がって、枕の下に手を入れる。
「!」
脇差がない!
「探し物はこれか」
ぼすん、と脇差が布団の上に落ちた。
「誰でえ!」
チョウベエが脇差を取って抜く。
「暗くて見えぬか」
ぽ、と行灯の火が灯る。
「う!」
壁に下がって、部屋の中を見渡す。
誰も居ない。
「幽霊か! ちきしょう、成仏しやがれ!」
「そう。我らは幽霊。既にこの世に無き者」
窓の方!
「されどもここにおる」
土間の方!
「盗人か! 隠密同心の所に入るたあ間抜けな泥棒よ!」
「ふふふ。腹が座っておる。さすが隠密同心」
「うおっ!?」
背中を付けた壁から声がして、チョウベエが飛び退く。
「つ・・・つ・・・」
チョウベエが油断のない目で、部屋の中を見回す。
じり・・・じり・・・
ゆっくりと土間に進んでいく。
「逃げられぬぞ」
すかん!
「ぬ!」
土間の板に何かが刺さった。
手裏剣!
ぱ、と手に取って驚いた。
(卍手裏剣?)
滅多に見ない形だ。チョウベエも実物を見るのは初めてだ。
これは今は滅んだカザマの・・・
「気付いたようだな。そう。我らは既に滅した」
「聞いた事はないか。カザマは各地の廓に散った、と」
は! とチョウベエが不敵に笑い、
「ちっ! どこの忍だ。こんな物でそんな与太に乗せられると思うなよ」
「我らはオリネオ歓楽街の陰の守護者」
「歓楽街の者も誰一人として我らを知らぬ」
「腐ったとはいえ貴様も色町の隠密同心。今までは見逃してきた」
「だが貴様は寄生虫に成り下がった。一線を越えたのだ」
「チョウベエ。貴様はやりすぎた」
「一線を越えた者の前に我らは現れる」
「・・・」
チョウベエが油断なく周りを見る。
「本当に見えぬのか」
耳元で声がした。
「そこだ!」
空振り。何の手応えもない。
「ここにおるではないか」
背中!
ぶん!
手応え、なし。
「ふふふ。此奴、まだ寝ぼけておるのか」
「ところでチョウベエよ」
「竹光で人を斬る事が出来るか」
「さすが隠密同心は腕が違う」
「ははははは」「ははははは」「ははははは」「ははははは」
「ううっ!?」
脇差が、いつの間にか竹光になっていた。
抜いた時は竹光ではなかったのに・・・
部屋が笑い声で包まれる。
ぞー、とチョウベエの顔から血の気が引いた。
「まずはこれを読め」
ばさ、と紙束が落ちてきた。
「こ、こいつぁ」
少し目を通して、チョウベエの手が止まった。
次いで、ぶるぶると震え出す。
今までのゆすりたかり。金の代わりに抱いた女。
いくらゆすった。いくらもらった。誰にもらった。誰を抱いた。
のみならず、いつどこに行った、誰と何を喋った、全て書かれている。
歓楽街での行動が、全て克明に記されている。
「貴様の悪行、全てそこに記してある」
「同じ物、既にタニガワ様に提出しておる」
「隠密同心の汚職は決して許されぬ」
「仏さえ見つからねば良いと、殺しの許しは得ておる」
「されど我らはタニガワ様のような鬼ではない」
「タニガワ様も無闇に血は求めぬ」
「今や寄生虫なれども、貴様も隠密同心として働いてはきた」
「体は違えども名は同じ隠密。一片の慈悲をやる」
紙束を持ったチョウベエの手が震え、脂汗が額に浮く。
「殺さねえって事か」
「我らは、な」
「てめえらは、か。俺はどうすりゃいいんだ」
「今すぐ荷をまとめ、日が登る前に町を出よ」
「我らがしかと見送ってやる」
こく、とチョウベエが小さく喉を鳴らし、
「そう言って、町を出た所でぶすりか」
「そのような手間はかけぬ」
「いつでも殺せたゆえな」
「ははははは」「ははははは」「ははははは」「ははははは」
どす! とチョウベエの脇差の刀身が畳に突き刺さった。
「カザマの忍はもはや世界中に広まった」
「それゆえ滅したと言われた方が都合が良いのだ」
「隠密稼業でそんな事も分からぬとは呆れたものだ」
「此奴、本当に隠密か? 真にカザマが滅んだと信じておったのか?」
「ははははは」「ははははは」「ははははは」「ははははは」
「わ、笑うんじゃねえ。笑うな」
ぴたりと笑いが止まった。
しーん、と部屋が静まり返る。
殺気! 殺気に囲まれている!
は、は、とチョウベエが部屋を見回すと、
「チョウベエ。貴様は我らに指図出来ぬ」
「貴様に指図するのは我らカザマ」
「立場を弁え、荷をまとめよ」
「タニガワ様は貴様の悪行を既にご存知という事を忘れたか」
「朝までのご猶予を頂いた事、感謝致せ」
ふ、とチョウベエが息をついて、がくりと肩を落とした。
「分かった。分かった。すぐ荷をまとめる。町を出る」
「それで良い」
「殺しの許しは得ておるが、タニガワ様も無駄な血は求めぬお方」
「貴様は奉行所の動きに勘付き、先んじて町を逃げ、行方知れずになった」
「それで良いのだ。分かるかチョウベエ」
「町を出たら、どこかに隠れて住め。隠密同心の足抜けは許されぬ」
「ああ。分かってる」
「見張っておるぞ」
立ち上がって竹光を放り投げ、押し入れを開ける。
慌てて風呂敷を出し、広げようとして、
「ううっ!?」
振り返ると、紙束も、刺さった脇差の刀身も消えていた。
放り投げた竹光も消えており、脇差が布団の上に置かれていた。
恐る恐る手を伸ばして脇差を抜くと、竹光ではなく本身に戻っている。
は、は、と息を切らせながら部屋を見回す。
誰も居ない。
誰の気配もない。
だが、カザマの忍は見ている!
「い、急ぐからよ! すぐに出るよ!」
日が昇るまで時間がない!
チョウベエはばたばたと荷をまとめ、戸を開けて暗い中を駆け出して行った。
―――数年後。
チョウベエは河原者となってひっそり隠れて生きていたが、無断で隠密同心を抜けた罪で暗殺された。遺体は深い山に捨てられ獣の餌となり、河原者仲間からもすぐに忘れられた。そしてチョウベエ=サカムラは世から完全に消えた。




