第749話
夕刻の街道。
赤い西日を浴びながら、カオルがゆっくりと馬を進めて行く。
後ろに、重い足音を立てながら黒影が付いてくる。
(人の身体の反応か)
鍛錬でどうにか出来るものではない。どうしようもない。
威圧感のあるアマツカサの立ち姿を思い出す。
前に立たれてしまうだけで、簡単に丹田を崩される。
触れられただけで倒されてしまう。
カオルはアマツカサが触れた手を見つめながら、投げられた時の感触を思い出す。術理は分かったが、自分に出来るだろうか? 繊細過ぎる技術だ。
(『誘い』まで使って)
自分が気付かないうちに、いつの間にか相手の間合いに入ってしまう。
入ってしまうのは1寸程度だが、自分では動いてしまった事が分からない。
間合いのぎりぎりに立っている時は、1寸は致命的な間。
カゲミツは反応して避けていたが、自分に出来るだろうか?
丹田が崩されたのは感じたが、誘いは避けられるか?
(秘密にされるわけだ)
前に立てば、丹田が崩されてしまう。
気付かぬ内に相手の間合いに入っている。
そこに撃ち込まれたら終わりだ。
たとえ受けられても、丹田が崩れていれば、軽く押されれば姿勢も崩れる。
前に立たれたら、カゲミツ並の感覚でなければ、もう避けられない。
仕組みは分かったが、一朝一夕で身に付けられるものではない。
基本的には、自分と相手の反射、反応を誘って崩してしまうこと。
ほとんど動かず、動きもゆったりしていたが、中身は非常に繊細で攻撃的な武術。
アマツカサの前に立った所を想像してみる。
怖ろしい。
アマツカサは剣は素人と言っていた。
こちらが剣を持っていたら勝てるかもしれない。
だが、もし剣を使える相手が同じ技術を持っていたら・・・
また背中に冷たいものが登っていく。
----------
魔術師協会。
からからから・・・
玄関を開けた手に力が入っていないのを感じる。
「只今戻りました」
「お帰りなさい」
ぱたぱたとマツが出てくる。
「奥方様」
ん、とマツがカオルの元気のない顔に気付いて、
「あら。どうかなされました? お父上に絞られましたか?」
「あ、いえ、そうではありません。失礼致します。ご主人様に報告が」
「はい」
カオルがすうっと居間に入っていくと、クレールが顔を上げた。
マサヒデは縁側でクレールの忍と話している。
カオルに気付いて、肩越しに振り返り、
「お帰りなさい。どうでした」
「は」
忍の反対側に、マサヒデを挟んで座る。
「今、聞き始めた所です。実際に受けたカオルさんの意見も聞きたいですね」
「は。一言で言えば、怖ろしい、怖ろしすぎる武術です。
術理は分かりましたが、一朝一夕で身に付けられるものではありません」
「ほう」
マサヒデの向こうの忍も頷く。
「で、どういった術理でしょう」
「全てを見た訳ではございませんが、人の身体の、反射と反応を利用した武術です。
あれは避けようがありません」
「避けようがない、ですか。ふうむ。怖ろしいですね」
「それと、我らと同じ技術がありました。
偶然かもしれませんが、他ではまず見られない技術です。
やはり、この国の忍の術も、噂通り王流の流れを汲んでいると確信しました」
「へえ。どういった技術でしょう」
「これも、人の反射と反応を使うもの。我らは『誘い』と呼んでおります」
「誘い、ですか。それ、どういった技術でしょう」
カオルがレイシクランの忍を見る。
彼らはあれに気付いたのだろうか。
でなければ、あまり口には出したくないが・・・
忍が小さく頷き、
「カオル殿、我らもしかと見ました。カゲミツ様が微かに動かされました。
動いていないようで微かに動き、相手も反応して動いてしまう、あれですね」
カオルが頷き、
「如何にも、その通りです。養成所でも出来る者は少ない技術です」
マサヒデが興味深そうに、
「カオルさんは、その出来る少ない者ですか?」
「いえ。恥ずかしながら、私には。術理は分かっておりますが」
「ほう。出来そうなものはありましたか」
カオルが顎に手を当てて、少し黙り込んだ後、
「投げは・・・練習すれば出来るでしょうか。
丹田の崩しも出来るでしょうか・・・ううん・・・
ご主人様、お手を拝借しても」
「どうぞ」
マサヒデが手を出す。
カオルがそっと手を乗せる。
む、と首を傾げて、もっと軽く、触る程度に・・・
ゆっくり回すが、するっと手が滑ってしまう。
「ううん・・・」
マサヒデが滑ったカオルの手を見ながら、
「これで投げられるんですか?」
「はい。本当に触れるか触れないか程度で手を回され、私は投げられました。
まるで吸い付くように、手が離せずに崩れていきまして」
「ふむ。合気や柔術とは、少し感じが違いますね」
「はい。一見、どっしりと、ゆっくりとした動きでしたが、見えない程に繊細に動きます。その見えない程度の繊細な動きで相手を崩し、誘うのです。非常に攻撃的で、何と言いましょうか・・・容赦のない武術であると」
「攻撃的で、容赦のない、ですか」
マサヒデが頷いて、
「続けて下さい。離せそうだったら、私は手を離します」
「は」
マサヒデの手にカオルの手が置かれ、すう、すう、と撫でるように滑る。
クレールは首を傾げたが、マサヒデ、カオル、忍の3人の顔は真剣だ。
マツも茶を持って来てマサヒデ達の側に座ったが、はて? と首を傾げる。
「おっ?」
「何か」
「今、少しですが、確かに持っていかれた感覚がありました」
「む・・・こうか・・・」
3人が穴を開きそうに目を皿のようにして、マサヒデとカオルの手を見つめる。
「こう・・・」
「いや、違いますね。全然持っていかれません」
「このくらいでしょうか・・・」
マサヒデの手を、カオルの手が滑る。
----------
夕餉を済ませた後も、マサヒデとカオルは真剣な顔で手を合わせていた。
シズクが牧場の警備でいないので、今日は静かだ。
「・・・」
「・・・」
2人が無言で手を合わせ、回しながら上げたり下げたりしている横で、マツとクレールが紅茶を飲んでいると、からから、と控えめに玄関が開き、
「失礼しまーす」
と、声がした。
ば! とカオルが玄関の方を向いて、
「私が!」
さささ、とカオルが出て行く。
マツとクレールも飲んでいた紅茶のカップを置いて、皿を隅に置く。
少しして、カオルと大柄な男が入って来た。
男が、ぺこ、と頭を下げて、
「どうも、夜分遅くに申し訳ありません」
マツが手を付いて頭を下げ、隣でクレールも頭を下げる。
「オリネオ魔術師協会へようこそ」
マサヒデも姿勢を正して頭を下げ、
「こんな時間にわざわざお運び頂き、感謝致します」
「こんな時間に、どうもすみません。
トミヤスさんが道場には来られないと聞いたので、挨拶だけでもと思って」
さ、とマツが座布団を出す。
「どうぞ、おくつろぎ下さいませ。今、お茶でも」
「あ、いえいえ! 遅いですし、もう、すぐにお暇しますので」
マサヒデが頭を上げて、
「アマツカサ先生。少しだけ、お教えを願えませんか。
代わりと言ってはなんですが、良い道場をひとつ紹介致しますので」
「え! 本当ですか! いや、それはありがたいですよ」
「どうぞ、お座り下さい」
マサヒデが座布団に手を差し出すと、アマツカサが座る。
「早速ですが、ご紹介したい道場は、アブソルート流の道場です」
「アブソルート流・・・ええと、聞いた事がありますね・・・」
「ゲッダン=ツムジ。ご存知ですか」
「ああっ! そうだ、アブソルート流! ツムジ道場!」
「そうです。そのアブソルート流です。
コヒョウエ=シュウサン。聞いた事は」
「知ってますよ! 有名な剣客ですね!
え、コヒョウエ=シュウサンが居るんですか?
首都に行った時は、もう道場はないって」
マサヒデがにやっと笑って、
「御子息が道場を開いています。
実は、コヒョウエ先生も、その近くに住んでおられます」
「ええ!? 消息不明で、もう死んだんじゃないかとか聞きましたけど」
「隠棲されておられるだけです。父上もつい最近まで知らなかったんです」
「はあー・・・あのコヒョウエ先生が!
あ、そうだ! カゲミツ先生はシュウサン道場でしたよね!
ああもう、紹介してくれるなら、何でも教えますよ!」
マサヒデが頭を下げ、
「ありがとうございます。すぐ紹介状を書きますので、しばしこちらで」
「いや、こちらこそありがとうございます!」
「では」
マサヒデが立ち上がると、カオルが台所から出て来て、アマツカサの横に茶を差し出した。廊下に出て、ちらっと湯呑を取るアマツカサの横顔を見る。
もう夜も遅い。
時間は少ししかない。
王流を知ることが出来るだろうか。