第706話
魔術師協会、執務室。
半刻後。
イザベルとカオルが2人で紋章辞典のページをめくっていく。
ぱたん、と分厚い辞典が閉じられる。
「ないですね」
「ううむ」
2人がじっと手紙を見る。
カオルが険しい顔で、
「イザベル様、これはまず偽印かと思います。
でなければ、流された貴族が勝手に作った印。
もしそうでなければ、隠し印・・・でしょうか」
「隠印? 図書館の?」
「いえ。その隠印ではなく、本来の紋章の代わりに使われる、表に出ない印。
個人的なやり取りに使ったり・・・正体を知られないように。
稀に、本来の紋章を隠している貴族もおられます事から、隠し印と」
「貴族ではなく、どこかの組織的な所の印という事は」
「少なくとも、私は存じません」
「カオル殿も。なれば、まず偽印でしょうか」
「その可能性が高いです。それにしてもおかしな物です。
貴族を装って上等な紙を使っているのに、地味な紙の封筒・・・
なぜこの封筒を選ぶのか」
「もしや、封筒に何か」
カオルが封筒を窓にかざし、角度を変えたり、指でそっと押してみたり。
「何もありません。炙り出しの類もありませんし・・・まあ、そういう仕掛けがあれば、初めて手紙を出す相手であれば、封筒を捨てぬよう指示が書いてあるはず」
「確かに」
「差出人を辿るにも、いくつもギルドを回って届いた物だと時が掛かります」
「カオル殿。やはり、打ち捨てて無視した方が良いでしょうか」
「・・・」
カオルが顎に手を当てる。
少し考え、
「広場はすぐ近く。行ってみましょう。私が見張っております。
無視するかしないか、その時に決めましょう。
何者かが来たら、引っ捕らえて大元を吐かせれば宜しいかと」
「は」
カオルが頷いて、
「昨日の依頼で、もうランクが上がったでしょう。
手早く終わりそうな依頼を、一仕事片付けてきては」
「そうします」
「では、未の初刻、長椅子に座って下さい。
私は広場のどこかで見張っております」
「宜しくお願い致します」
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そして、未の初刻。
ちらちらとイザベルが周りを見ながら、長椅子に向かう。
屋台、露天商、勇者祭の放映を見て騒ぐ者。
人が多すぎる。
カオルはどこかにいるのか。
長椅子もいくつかある。
どの長椅子かは指定されていなかった。
相手はこちらを知っているのだ・・・
ち、と小さく舌打ちをして、手前の長椅子に座る。
町人が隣で放映を見ながら「おお」「いけ、いけ」と小さく声を上げる。
ちゃりん。
「む」
金属音が響いて、思わず足元に目を向ける。
銅貨が転がって、隣の町人の足にぶつかる。
お? と町人が銅貨を拾い、
「姉さんのか?」
「いや」
「そう?」
くる、くると町人が周りを見る。
「じゃ、俺がもらっちまうぜ! ははは! 儲けたね」
「・・・」
町人が噴水の上の放映画面に目を向け、
「な、もしここに金貨の小袋が落ちてたらどうする?」
こいつか。
「落とし物には1割の謝礼。我は金貨10枚で十分。奉行所に届け出る」
くるりと町人がイザベルに顔を向け、
「ははは! 正直だな! あんた嘘は言ってないな!
俺はどんな奴でも嘘を言ってるかどうか分かるんだ」
「そうか。イカサマ師相手に稼いだらどうだ」
「イカサマ師かあ~。ああいうのは猫族が多いって聞くぜえ~。
俺って猫アレルギーでよお~」
「そうか」
「だからよお~、猫か犬かって言ったら、犬が好きかなあ~。
姉さんも犬族だよな? 俺の好みッ! わーはははははー!」
犬。奉行所の下っ引きか。
「何か用か」
「ちょいと昼間から酒でもどうだい。暇してんだろ」
「暇ではない。今すぐギルドに戻って依頼を請けたい」
「ふうん・・・真面目な冒険者さんだな」
「それが取り柄でな。では」
す、と立ち上がってイザベルが立ち上がる。
町人は放映に目を向けて「いいぞッ!」「やれッ!」と声を上げている。
ふん、と鼻を鳴らして足を出した時、かさ、とポケットの中に紙の感覚。
(こいつ)
ちら、と肩越しに下っ引きらしき男を見て、すたすたとその場を立ち去る。
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魔術師協会、執務室―――
カオルとイザベルが下っ引きの手紙をじっと見ている。
「ハチめ・・・何故こんな回りくどい事をするかと思いましたが」
「ええ。お調べに入ってもさっぱりと言う訳ですか。
相手は専門家という事ですね」
歓楽街で殺し。
一本通りを外れれば不逞な輩の巣窟。
喧嘩騒ぎはそう珍しい事ではないが、殺し。
鬼と呼ばれる名奉行がいるこの町で、殺しなど滅多にない。
正面から頭に銃弾を1発。
安酒場が目の前にあるのに、誰も銃声を聞いていない。
歓楽街は夜も人が多い。
銃声が響けば、通りからでもすぐに分かる。
見つかったのも、死んだ直後。
銃を撃てば火薬の臭いが残る。
急いで獣人族の同心達が回ったが、足取りが掴めない。
「これはカオル殿の手助けも欲しい、という事でしょうか」
「そうでしょうね。イザベル様が私に相談するのも折込済みでしょう」
「全く・・・」
「専門家。殺し屋ですね。それもかなりの。
それが分かっているので、回りくどい連絡を取ってきたのでしょう」
「なるほど」
「手助けはせぬ方が宜しいでしょう」
「何故でしょう」
「まず、相手は殺し屋。殺人鬼ではありません」
「他に被害者は出ないと」
「他に狙われる者が居なければ、ですが。
仕事を終えたのなら、とっくに町の外でしょう。
調べた所で、見つかるとは到底思えません。
そして、追われていると分かれば、我々に牙を向けるやも。
音もなく銃を使う殺し屋となれば、シズクさんでもやられます」
「なるほど」
ぱらりと紙をめくって、
「ここに書いてある通り、被害者はそこら中で恨みを買うような人物。
殺される原因が多すぎてさっぱり分かりません。
死んで悲しむ者などおりますまい」
「ううむ」
「危険を冒して手を貸す必要は皆無。
イザベル様、この件に手をお出ししてはいけません」
「・・・」
カオルが腕を組み、
「この手紙、お奉行様は知らないと思います」
「なぜでしょう」
「もし我らが調べに入ったら、危険な目に会うとすぐ分かりましょう。
おそらく、歓楽街の常設番所の同心の誰か。間違いなくハチ様ではありません。
子供のように正義感にかられて、手伝いにくると・・・舐められましたね」
「ちっ・・・では」
カオルが行灯に火を入れる。
イザベルが手紙を取り、火にくべて燃やす。
カオルが頷いて、
「忘れましょう。イザベル様は、先日の熊の件で、奉行所で名が売れました。
以降、このような事があるかもしれませんが、まず私にご相談下さい」
「は」
「決して、クレール様やシズクさんには話さないように。
お二方は、興味津々でいざ参りましょう、と言うでしょうから」
「む・・・確かに」
「このような依頼は厄介の元です。
イザベル様ご自身のみでなく、ご主人様方も巻き込まれます。
奉行所から正式にお頼みがあるか、指名依頼が来ない限りは」
イザベルが頷いて、
「知らぬ存ぜぬ、ですね」
「はい。お奉行様が承知の依頼でなければ、無視して構いません」
「しかと」