第700話
魔術師協会。
冒険者ギルド食堂での祝いが終わって、マサヒデとイザベルが帰って来た。
マサヒデはイザベルに茶を出した後、刀架に雲切丸を掛けて、
「イザベルさん。せっかく来てくれたのに、申し訳ありません。
かなり呑まされましたから、私は薬を飲んで寝ます」
「えっ」
「そろそろ酔い止めの薬が切れますし、切れると一気に来ますから。
すみませんが、寝ておかないと、まずいことになってしまうので」
せっかくマサヒデが居る所に遊びに来れたのに・・・
しゅーん、とイザベルがうなだれてしまった。
マサヒデがそれを見て、小さく笑い、
「イザベルさんも呑んだでしょう。
今日はここに泊まっていって構いませんから。
暇だと思いますが、本でも読んでて下さい。
あ、呑んだ後に読書はきついか。まあ、適当に」
お泊り!
お許しが出た!
「は!」
「では失礼します」
す、す、とマサヒデが廊下を奥の間に下がっていき、すとん、と襖が閉まる音がした。
「・・・」
すっとイザベルが立ち上がり、奥の間の前に歩いていって、背を向けて正座する。
すー。マサヒデが襖を開け、顔を見せて、
「・・・何してるんです?」
イザベルが肩越しに振り返って、
「マサヒデ様、ご安心下さい。私めがここに」
「平気ですから・・・」
「皆々様がおられぬ間、私がここに」
くす。
マサヒデには聞こえない、小さな笑い声。
「何奴!」
ぱ! とイザベルが立ち上がり、マサヒデも驚いて脇差に飛びつく。
「ふふふ」
音もなく百姓が居間から出てくる。
いつの間に!?
ぴりっとイザベルが腰を落とし、手首の五寸釘を抜く。
マサヒデの方は、なあんだ、と布団の上で腰を落ろす。
「イザベル様。護衛は我らレイシクランにお任せを」
「ははは!」
後ろからマサヒデの笑い声。
かあーっとイザベルの顔が赤くなる。
「少しそちらの方に稽古でもつけてもらったらどうです!
もう同僚なんですから! ははは!」
「ふふふ」
んんー! とイザベルが恥ずかしそうに顔を歪め、ぱ! と膝を付き、
「大変失礼を致しましたー!」
と、ば! と頭を下げた。
「うくく・・・面白くて寝付けなさそうですよ。
では、庭でゆっくり絞られてきなさい」
「は!」
マサヒデが百姓姿の忍に顔を向け、
「少しいじめてあげて下さい」
「承知致しました」
にやりと忍が笑う。
「では、おやすみなさい」
頭を下げたイザベルの後ろで、静かに襖が閉じられた。
----------
魔術師協会、庭。
百姓姿の忍とイザベルが向き合う。
「イザベル様。得物は如何致します」
「あっ」
しまった。木剣もないではないか。
マサヒデは・・・恥ずかしくて顔を出せそうにない。
あの醜態の後で、木剣を貸してくれなどと。
「徒手の稽古に致しますか?」
「は・・・」
「ふっふっふ・・・稽古の時は虫と呼んだ方が良うございますかな?」
う! とイザベルの顔が固まる。
道場の代稽古を見られていたのか!?
「何故、何故それを知っておられる!?」
「ファッテンベルクの稽古は実に厳しいものですな。
もはや忍の訓練と変わりませぬ。いや、それ以上でありましょうか。
我らも些かならず驚きましたぞ」
「・・・見て、おられたのか・・・」
「如何にも」
全く気付かなかった・・・
カゲミツは気付いていたのか!?
「カゲミツ様は、我らの同席をご承知でございますぞ」
「な!」
「我ら程度、容易く看破されますゆえ」
つつつ・・・とイザベルの背中に冷たい汗が垂れていく。
見えも匂いも気配も感じないのに、何故分かる!?
「イザベル様もすぐに分かるようになりましょう。
修行など要りませぬ。勘は生まれ持っておられる。
鼻に頼らず、耳に頼らず。剣と同じく、体に傾かぬ事でございます」
「は・・・」
「では参られませい。私も徒手空拳でお相手致します」
ゆっくりとやや前かがみになり、やや半身になり、両手を目のやや下に。
イザベルは右利きなのに、右手が前。
懐深く、顔も腹も攻めづらい形。
む! と忍が驚いた顔をして、すう、と目を細める。
(この構えは)
あの凄腕の男の試合の時の構えとそっくりだ。
いわゆる軍隊格闘技というものか。
あの男は軍属? 諜報部か?
存在を秘された、軍の工作員のような者か?
(今は考えまい)
忍がすたすたとイザベルに近付いて、すっと右手を伸ばす。
すぱん! とイザベルの右手が押すような形で伸びて、出された右手を押す。
(おっと)
手の甲の方から弾かれるのかと思ったが、そのままぴたりと手を押し付けて、真正面からの片手の小手返しのような形。くるっと腕を回して避ける。ナイフや小刀を持っていたら落ちていた。柔術や合気の技術も混じっているのか。
「おお、これは中々。さすが、叩き込まれておりますな」
ゆっくりと回した手を戻す。
と、イザベルが両手をゆらりゆらりと小さく回し出した。
(おや)
見た事のない動き。不規則で、一定の動きではない。
これは一体・・・
(狙いづらい。守りの型か)
本来はナイフや小刀を用いた、近接戦闘の技術であろうか。
この動きでは上がさらに狙いづらい。
回している腕に向かって出せば、一切り出来ても絡め取られるか弾かれるか。
カウンターで首を取られるというわけだ。
では狙う所は腹か足か、となる。
狙われる所を絞らせ、来た所で返しを狙うのだ。
だが、良く見れば緩い前傾姿勢と前に出された腕。
懐が深くなっているから、これも致命傷は難しいという誘いだ。
(良く考えられたものだ)
と、ちょっと感心しながら、ぴ! と腕を出す。
「う!?」
忍の指先が喉元に。
ナイフを持っていたら、さっくり刺された所だ。
「ふふふ。良く考えられた技術です」
ぱ! とイザベルが手首を取る。
逆の手の肘を、ぐ! と忍の肘の内側に押しながら腰を落とそうとして、
「なるほど。ただ押すだけでなく、しゃがみ込む力も使ってと」
忍の腕がぴくりともしない。
「何!?」
「ふむ。そうして倒せば、手首は取ったまま、自分の片手は自由。
これは良い応用技術ですな。抑え込むも得物で止めるも思いのまま」
ぐ! ぐ! とイザベルが押し込む。
レイシクランは剛力な種族ではない。
むしろ魔族の中では非力も非力、人族と変わりないくらいだ。
それが、押しているのは関節の内側!
狼族の力に敵う訳がないのに、関節が曲がらない!
「されどこう返されますぞ」
くりん、と忍が腕を回すと、ばたん! とイザベルが膝を付く。
す、と下を向いたイザベルの首を、忍が上から掴む。ぴたりと頸動脈。
「さ、これで一本。このまま軽く握りますと、如何に狼族であろうと落ちますぞ」
く、とほんの少しだけ首を握られる。
きゅう、と頸動脈が締められ、目の前が暗くなる。
「く、参りました」
忍が首から手を離し、すっと手を引き抜く。
「これが軍隊格闘技というものですか」
「如何にも」
「手前の見た所、まだまだ磨く余地がありますぞ。
さあ、お立ち下され。いざ参られませい」
ふ、と息を吐いてイザベルが立ち上がる。
「何故、何故、腕が曲がらなかったのです。
関節の内側を押していたはず」
忍がにやっと笑って、
「合気とは、ただ相手の力を利用して、抵抗出来ない関節を極めて投げて、などと浅いものではございません。字の如く、相手と気を合わせると、ああいう芸当も出来ますもので」
忍がイザベルの手を取って、自分の胸に当て、
「さ、思い切り押し倒してみて下され。イザベル様の力であれば楽なはず」
「・・・」
どうなる。
まさか、力が跳ね返って自分が吹き飛ぶとか、腕が、とか・・・
心配そうなイザベルの顔を見て、忍がにやりと笑い、
「イザベル様には何も痛くはございませぬゆえ。さあ」
「で、では! たっ!」
(何!?)
押し込んだ瞬間、ぐっと重いような感触。
ざー! と忍が体勢を全く崩さないまま、3尺ほど後ろに滑って止まる。
自分も押し返されるように仰け反ってしまった。
「なんと!? ううむ、ここまで押されるとは・・・驚きました!」
「馬鹿な・・・そんな、そんな馬鹿な!」
思い切り押したのだ。1丈、2丈は飛ぶと思ったのだが、この感触は!?
まるで重い石柱を押したようであった。
相手はレイシクラン、鬼族のように異常に重い種族ではないのだ。
この体格であれば、体重は自分と大して変わらないはず・・・
「何故、何故!?」
「気を合わせるとは、こういうものでございます。
ただただ技を組み入れるだけでは、格闘術は完成しませんぞ」
「・・・」
「いや、軍隊格闘技とは広く兵に教える為の技術ゆえ、ここまで深く踏み入れる必要はございませぬか。技だけで十分ですかな。では、続けましょう」
「参る!」
出したジャブをひょいと外側に押され、体がほんの少し開く。
忍の手が顎の下。くいと押されると、ぐっと背が仰け反る。
「このまま押せば、頭から後ろにという訳ですな。
さ、受け身の準備を」
ばたん! とイザベルが倒される。
これが実戦であったら、後頭部からもろに落とされていた。
「むう・・・」
くらくらして、のそのそと起き上がるイザベルに、
「マサヒデ様も、カオル殿も、徒手の腕は我らと変わりませぬ。いや、我ら以上。
剣を取らずとも、小さな得物ひとつあれば、我らの徒手では歯も立ちませぬ。
武人としてお仕えを願うのであれば、も少し磨きなされ」
「くそ! もう一本!」
ぱ! とイザベルが立ち上がり、また倒される。
立ち上がり、また倒される・・・