第689話
冒険者ギルド、裏。
今まさに大振りのナイフが熊に入ろうとしている。
そこに、すぱーん! とイザベルが駆け寄って、調理人の手を押さえ、
「待て! 待て待て待て!」
「な!」
「桶を持って参れ。血が欲しい」
「血!?」
ぎょ、と調理人が後ずさる。
「おい! 変な勘違いをするな!
熊の血は薬になるそうな。今、調薬に詳しい者に聞いてきた」
「え? 血がですか?」
「そうだ。捌き終わったら、骨も分けて欲しい」
「ええ? まさか骨も?」
「如何にも。骨も薬になるそうだ。あと舌も」
「舌ですか。はあ・・・そんなに」
「分けてもらって構わんか」
「勿論ですとも」
「おお、助かった!」
調理人がにっこり笑って、
「今夜の夕餉に、熊鍋を出します。
イザベル様とお二方には奢りですから、是非食堂へいらして下さい。
鍋用の骨だけ、こちらで頂いて宜しいでしょうか」
「熊鍋!」
「こってりした脂! それでいてあっさりした食感!
がっつりきいた骨の出汁! 特製味噌に、脂と出汁が染み込んだ大根!
どうですこれ! 聞いただけで美味そうでしょう?」
「お、おおう・・・」
口の中に唾が溢れてくる。
もうよだれが垂れてきそうだ。
「うちでも滅多に出せる物ではないんですよ。是非」
「参るとも! いつ? いつ出来る?」
「これを捌いたらすぐ仕込みに入ります。
夕方前には出来上がりますが、日が沈んだ後が良いでしょう。
少し寝かせておいて、じっくり染み込んで・・・」
「うむ! うむ! 承知した! ふふ、ふふふ」
調理人が口に指を当て、
「クレール様とシズク様には内緒ですよ。
あっという間に無くなってしまいますからね」
「うむ!」
「では、確認します。
お引き取りは、血、骨、肝、脂、舌。
以上でよろしいですね」
「うむ」
「手伝いも来ますし、捌くのは1刻程で終わります。
量が量ですし、ここに置いておいて宜しいでしょうか」
「構わぬ。我が取りに参る」
「ありがとうございます」
「熊鍋、楽しみにしておるぞ!」
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熊の売却価格を受け取りに、受付に戻る。
にこにこした冒険者2人。
「おお! イザベル様!」
「待たせたな! いくらになった?」
「なんと金貨5枚ですよ!」
「よし。では2枚ずつ持って行け。我は1枚で良い」
「え!?」「金貨っ!?」
「ハチに叱られてしもうたな。それは我の詫び料である。許せ」
「良いんですか?」
「くどい。持って行け」
ちら、とイザベルが首を伸ばして魔術師協会の方を見る。
2人に顔を近付け、声を潜め、
「それより、熊鍋は聞いたな」
「はい」
「良いか。クレール様とシズク殿に知られるとまずい。
あっという間に全部食われてしまうからな。絶対に漏らすなよ」
「勿論です」
「よし・・・熊の事はもう知られてしまっただろうが・・・
肉なども薬として売るから、今日は食堂に出ぬと誤魔化す」
「肉が薬?」
「そうだ。骨も血も薬になるそうだ。舌までもだぞ。
脂だって塗り薬になるのだ。肉が薬になると言っても通じるだろう。
いやそれで何とか押し通す」
「・・・」
「放っておくとこちらに押しかけてくる。
我は今から魔術師協会に行くぞ。何としてもあの2人は止めねば」
「頼みます」
「先に謝っておくが・・・誤魔化しきれんかったら、すまん」
「いや、イザベル様、不自然な誤魔化し方ではいけません」
「何か良い案があるか」
「日が沈んだ頃が頃合いだと言ってましたね。
鍋料理です。明日まで寝かせてから食堂に出るという事にしては。
頃合いを見て出すそうで、時刻は不明です、と。如何です」
「む。それは良い。良し、それで行こう。
だが・・・マツ様が食いたいと仰られたら、嘘はつけんぞ。
後で嘘だとバレたら・・・」
「うっ」
「分かるな。その際は勘弁せよ」
「あ、お待ち下さい。そんな事をしなくても良いですよ」
「何かあるか」
「我々3人の分は、キープしておいてくれと伝えるだけで良いのでは。
奢りで出すという約束ですから、当然、キープはしておいてくれますよ」
「む、そう言えばそうか・・・」
ふ、とイザベルが小さく息を吐く。
「ふう、また焦りすぎたな・・・
では、薬の効能と、いつ出来るかを尋ねてくる。
お主等は食堂で良い酒でも飲んで、のんびりしていてくれ」
「分かりました」
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魔術師協会、縁側。
メモを持って縁側に座ったイザベルと、隣に正座したカオル。
カオルの説明を聞き、イザベルがさらさらとペンを走らせる。
「まず熊の胆ですが、こちらは簡単に言うと胃腸薬。
食欲不振、消化不良、食べ過ぎ、飲み過ぎ、胃のむかつき。
即効性があり、異常なほどの苦みがあります。
死んだ犬猫も生き返ると言われるのは、この恐ろしい苦さ故。
実際には生き返ったりしません。
指先に少し付けて舐める程度で効き目があります。
陰干しで乾燥させ、粉末にするので、出来上がりには3週間程」
「ふむふむ。胃腸薬・・・異常に苦い・・・3週間」
さらさら・・・
「次、脂。塗り薬ですね。
肌荒れ、擦り傷、軽度の火傷、しもやけ、あかぎれ等々、肌問題全般。
出来上がりは無臭ですが、数日で獣の臭いを放つようになります。
量にもよりますが、早ければ明日にも出来ますね。明後日には必ず。
臭いを除けば非常に優秀な塗り薬です」
「臭いハンドクリーム。明後日で宜しいですか」
くす、とカオルが笑って、
「ふふ、臭いハンドクリームですか。まあその通りですが。
次、骨。これは神経痛の薬。
そのまま削った物を粉末にして食べて良し。
不安であれば、黒焼にして煎じれば宜しい。
しっかり乾かす必要がありますので、熊の胆と一緒にお渡しします」
「骨は神経痛。しっかり乾かす必要あり。削って食べれば良い」
「次、舌。これは熱冷まし。
こちらも乾燥させ、粉末にしますので、やはり熊の胆と共に」
「舌は熱冷ましですか・・・
風邪の時に医者に舌を見られますが、関係あるのでしょうか」
「ふふふ。ないと思います。最後、血。
これも乾かして粉末に致します。
疲労回復、所謂、強壮剤です。
恐ろしい効果を発揮するので、流し込んだりせず、少しずつ服用する事。
頭痛薬にもなります」
「強壮剤ですか。如何にも血の効能、という感じです。
臭いハンドクリーム以外は3週間後ですね」
「ええ。そうそう。熊は雄でしたか?」
「はい」
カオルがイザベルに顔を近付け、ちら、と居間の方を見て、口に手を添え、
(では、性器も貰ってきましょう)
「はあっ!?」
カオルが驚いて顔を離したイザベルの頭を押さえ、
(しっ! 非常に高い薬になります)
(一体何の!?)
(性病です)
(せっ・・・)
(一般にはあまり知られておりませんが、貴族の間では大人気です。
表立って買う者はおりませんが、私なら流せる流通路を知っております)
(貰ってくるんですか? あれを?)
(はい)
(・・・)
(これで如何です)
右手を開き、小指から順に左手の人差し指で、1、2、3、4、5・・・
金貨5枚。すごい金額だ。そこまで需要があるのか。
だが・・・どうしよう。
(カオル殿。その・・・)
(なにか)
(女として穢れるような・・・)
(人の物ではありませんから、平気です)
(む、むむ・・・)
す、とカオルが顔を離し、
「では、イザベル様のご判断にお任せ致します。イザベル様の獲物ですので」
「う・・・ううっ!」
がば! とイザベルが頭を抱える。
マサヒデが居間の中からイザベルの様子を見て、
「どうしたんですか? 何か失敗でも」
カオルがにやにや笑いながら縁側から振り向き、
「いえ。女の試練というやつですので」
「はあ?」
ぷるぷる震えながらイザベルが立ち上がる。
「マサヒデ様・・・」
泣きそうな顔でイザベルが振り返る。
「どうしたんです?」
「申し訳ありませんッ!」
叫ぶなり、ぱー! とイザベルが走って行った。
「カオルさん?」
「ふふふ。イザベル様にも色々とございますので・・・
先程申しました通り、これは女の試練。お尋ねなさいませぬよう」
「はあ、そうですか。分かりました」
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少しして、うなだれたイザベルが戻って来た。
「カオル殿・・・」
紙に包まれた、細長い物。
血が滲み、赤く出ている。
はて、とマサヒデが首を小さく傾げる。
あれは熊の内蔵か?
「ご苦労さまでした。ではこちらを」
ちゃりちゃりん。
イザベルの手に金貨が落とされる。
6枚。
「ご一緒なされた皆様と2枚ずつお分け下さい」
「は・・・ありがたきしあわせ・・・」
「ふふふ。良い買い物を致しました」
「光栄です」
「では、皆様に薬の効能と、明後日、3週間後にお渡しするとお伝えを」
「はい・・・」
金貨を握りしめ、とぼとぼとイザベルが出て行った。
そして、聞こえていたシズクがげらげら笑い出した。
「あーははははは、は、は、ははは! カオル! カオル!」
「ふふふ・・・シズクさん。教えては駄目ですよ」
「言わない言わない! あはははは!」