第669話
歓楽街、椿油工房。
「見てて下せえよ・・・」
ねじり鉢巻の男とイザベルが顔を近付け、大きな瓶を見ている。
瓶の上には手拭いが緩く置かれ、瓶の中まで大きくへこんでいる。
瓶の回りには紐が巻かれていて、手拭いを固定してある。
「よおし・・・」
男がゆっくりと鍋を傾ける。
つつう・・・ぽた・・・ぽた・・・
男が手拭いの黒い粒を指差して、
「ほれ、黒いのがいくつも。結構なゴミが入っちまってるでしょう」
「ううむ! 手拭いで絞っておるから平気かと思ったが」
「そう思っちまうが、意外とそうでもねえんですな。
ぎゅっと絞る時に、ほら、手拭いの目が開いちまうんだな。
それで、細かいゴミが混じっちまうって訳です」
「なるほど」
「うちはこのゴミ取りを2回やるんですよ。
手間ぁ掛けた、最高の椿油・・・1回目はまずこれ」
男が空の鍋と茶漉しを取って、
「この茶漉しで通す。これも目が細かい特注だぜ」
つうう・・・
茶漉しの中にゴミが残る。
「まず、これで大きなやつを取っちまうんだな。
他所じゃ、ここで出来上がりにしちまう」
「ふむ」
「うちは更に手拭いを通す。この油を通す手拭いも特注品ですぜ。
目に見えないような、ちっちぇーゴミもしっかり取る」
「なるほど」
「目が細かいから、油が落ちるに時間は掛かる。
だが、これで混じり気なしの最高の椿油が出来る。
時間が掛かるから、多くは出来ねえが、とにかく上等なんだ。
これがうちの椿油の品質の秘密でさ。毎日、売り切れ御免なせえだ」
「飛ぶように売れるのだな」
「そうですとも。このひと手間で、質が大きく変わるんですよ。
で、この町の女郎も男芸者も、皆がうちを選ぶって訳です」
「やけに大きい店だと思ったが、皆がここを選ぶからか」
「そういう事。雑貨屋で売ってる安い椿油とは、訳が違う。うちは最高の種を仕入れてますけど、最高級のやつは、その中でも良いって木を1本ずつ絞り込んで選別して作るんですぜ。おおっと、仕入先は秘密ですよ」
「木からか!?」
「ふふん。通す布も、もう1枚増えるんです。
普通の手拭いで終わりじゃねえんだな、これが。
特注の更に目の細かいやつで、1滴1滴、時間を掛けてやっとこさ。
さらに香りまで入れて、もう時間が掛かるったらねえんです」
「ううむ・・・」
「よおし! じゃ、かすかすになるまで絞ってくれたし、ちとおまけですよ」
男が小さな瓶を取り、椿油を入れて、きゅ、と蓋を閉める。
「30匁って話だったが、40匁瓶だ。旦那には内緒ですぜ」
「良いのか?」
「構やしませんよ。大体、俺が絞ってたら、こんなに取れなかったんです。
それに、冒険者さんなら椿油はいっぱい使うはずですよ」
「やはり、野では髪が傷むからか」
「それもあるが、それだけじゃありませんよ。
椿油ってのは、刃物やら金具の錆止めにも使える。
金物だけじゃねえ、革の手入れにも使える。
更に更に、ちょっとした飯の味付けにもなっちまう。
おっと、香りが付いてるやつでやっちゃいけませんぜ。
純な椿油だけ。純な椿油だからこそ、色ーんな事に使えるんです」
「凄いではないか!」
「でしょう? 椿油は食っても平気な油だから、包丁に塗っても平気。
冒険者さんなら、外じゃナイフとか食器代わりに使うでしょう?
そいつの手入れに是非どうぞってなもんで」
「ううむ! 使わせてもらおう!」
「お! そうだ、刀の手入れする丁字油って聞いた事ありますかい?」
「ああ」
「実はあれも、椿油に丁字をちょこーっとだけ混ぜた油なんです。
丁字は匂い付けの混ぜ物みてえなもんなんですよ。つまりは椿油。
なんか変な作り方やってる所もあるみてえですがね」
「そうだったのか! 椿油、恐るべし・・・」
ぱん! と男がおかしげに手を叩き、
「ははは! 恐るべしときましたか!
その椿油が切れたら、また手伝いに来ておくんなせえ」
「うむ。依頼があれば必ず来る! 良い話を聞けた。感謝する!」
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店主から報酬の銀貨を受け取って店を出る。
椿油がこんなに凄い物だったとは。
にこにこしながら、ポケットの中の椿油の小瓶を触る。
実に良い仕事であった。
うきうきしながら歩いて行く。
職人街に寄って行く時間もある。
帰りは三浦酒天に寄り、酒と弁当。
野営地に帰れば燻製が出来上がっている。
今夜は豪華な食事になる!
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職人街。
真っ青な顔で、イザベルが弓師の店に駆け込む。
「うっぱー!」
「どうしなすった!? お客さん!?」
イザベルは手を振って、
「いや、いや。心配するな。職人街の臭いに慣れておらぬだけだ」
ぽん、と弓師が拳を手に当てて、
「あーあ! ははは! 分かったぞ!
お客さん、最近お噂のイザベル様ですね!
トミヤス様のご家臣になられたっていう!」
「ううむ、如何にも」
「ははは! うちにも来て下さるとは思いませんでしたよ!
で、どんな弓をお探しで」
「そうだな。短弓で、この店で一番強い物を見せてくれ」
「短弓で、一番強い物。ふむふむ・・・引けますかな?」
「引きの重さは何貫だ」
「25貫(約94kg/約207ポンド)です」
「何? 一番強くて、25貫しかないのか?」
「ほーう・・・おっしゃいますな」
じろじろと店主がイザベルを見る。
確かに獣人ではあるが、細いし女だ。
これでは、力持自慢の人族にも簡単に負けそうだ。
ふ、と弓師が小さく笑って、壁の上の方に掛かった弓を取る。
鍛えに鍛えた獣人族の上級冒険者用に、と作った弓。
最高品質の鉄と木を合わせた、腕を振るった逸品。
クロスボウで、一般的な引きが15貫。かなり強めで25貫。
足で踏んで、体重と背筋を使って思い切り引っ張ってやっと引ける重さ。
この短弓は、鎧も軽く貫く強さがある。
その辺の獣人族では、まともに扱える者はいない。
「ふふふ。引けたら金貨10枚まけますよ」
「金貨10枚まける? 元の値段はいくらだ?」
「150枚です」
手持ちの金貨は6枚。
全然足りない。
イザベルががっくりと肩を落とす。
「ううむ・・・済まん、手持ちでは全然足りぬわ」
「ま、お買い上げにならずとも。是非お試し下さい」
「そうか。では試してみようか。
念の為、胸当てを貸してもらっても良いか」
「そちらの棚に。腕当ては?」
棚から胸当てを取って、胸に着けながら、
「これでも慣れておるから、腕はいらぬ。さ、貸せ」
弓師がにやにや笑いながら、
「どうぞ」
と、渡す。
イザベルは何事もなく、
「軍手はしておかねばな」
と、脇に弓を挟んで右手に軍手を着け、ひょいと構えて、
「ほれ」
きゅ、と引いて、ぴたりと右顎の下に指を付ける。
指を離すと、びん! と音が響き、ぽかん、と店主が口を開けた。
「・・・」
ふ、とイザベルが弓師を見て鼻で笑い、店主の顔の前に弓を持って行き、
「ほれ。ほれ。ほれ」
びん! びん! びん!
「ははは! ほれほれほれー!」
びびびん!
速射を決めて、呆然とする弓師の手に弓を戻す。
「ふっ。まあまあだ。普段使いには丁度良いかな?」
引き25貫で速射!?
ぞー、と弓師の顔が青くなる。
青くなった弓師の顔を見て、イザベルがにんまり笑い、
「ははは! 冗談よ、冗談! 戦に行くでもなし。
狩りに使える程度の物で良い」
「へえ・・・」
「そうだな。10貫(37.5kg)もあれば良いわ」
10貫もあれば。
ライトクロスボウ並ではないか・・・
長弓ならともかく、短弓では人族では限界に近い引きの重さ。
鹿程度は軽く貫通する。
このイザベルという獣人の娘なら、小指で引けそうだ。
「10貫、10貫ですね・・・」
おずおずと店主がリカーブボウに手を出して、
「こちらなど」
「値は」
「金貨10枚です」
「ううむ、そうか・・・金貨10枚か」
むうん、とイザベルが腕を組んで、はあ、とため息をつく。
「ふう・・・店主、すまぬ。全然足りぬ。
我ながら、己の世間知らずに呆れるな」
イザベルは肩を落として振り返り、おっと、と足を止め、
「おっと、危うく泥棒になる所であった。着けたままであった」
よ、よ、と胸当てを外して棚に置き、
「冷やかしになったな。また来るゆえ、許せ」
と、肩を落として帰って行った。