第654話
魔術師協会。
町を駆け回って疲れ切ったイザベルが玄関前に立つ。
本来は庭から報告すべきであるが、マサヒデ様にバレてはならぬ。
これはクレール様の隠密の依頼。
そっと報告せねば・・・
がらり。
「イザベルでございます!」
「はーい! お入り下さいな!」
マツの声。
ほ、と小さく息をついて、イザベルが上がる。
ぱたぱたとマツが台所に入って行く。
マサヒデとカオルが絵図面に筆で線を引いている。
マサヒデがにっこり笑って顔を上げ、
「ふふ。初仕事、どうでしたか」
「マサヒデ様・・・」
「ははは! いや! 聞かなくても分かりますよ!
その顔は随分と疲れていますね!」
「此度は厳しい仕事を選んでしまいました。が、報酬もそれなりに」
「うん、成功したようですね! よく頑張りました。
さ、休んでいって下さい」
よく頑張りました・・・嗚呼! 我は頑張った!
お褒めのお言葉を頂けた!
じわあ・・・とイザベルの胸に熱いものがこみ上げる。
走ったかいがあった!
マサヒデが絵図面に顔を戻し、またカオルと指を差したり線を引いたり。
ちらりとクレールを見る。
クレールもこちらを見上げて、小さく笑って頷いた。報告の好機。
ささ、と隣に座って、
(全て終わりました)
(ありがとうございました)
2人が頷き合う。
「そうそう、イザベルさん。戦の記録をまとめ、本をお書きになりたいとか」
「はい」
「んふふーん。良い本があるんですよお! この1冊はお譲りしましょう!」
す、とクレールが1冊の分厚い本を出す。
「ゲン・・・シン、軍学書! 軍学書ですか!」
「人の国の戦国期で1、2を争うのではという名将、ゲンシン王の記録です」
「なんと!」
「ご本人が書かれたものではございません。
ゲンシン王の死後、ご家臣の口述をまとめた本。
歴史書としてはあやふやな所も多く、他の歴史書との食い違いもあります。
著者も冒頭に注意書きを書いております。
これは口述をまとめた書であり、色々と間違いもあるであろう、と」
「ふむ・・・」
「ですから、歴史書としての価値には、首を傾げる所も多々あります。
ですが軍学書としての価値は・・・さて、いかほどでしょう」
「なるほど!」
「ゲンシン=ブデン・・・その旗印は風木炎石」
「おお! あのウー=スンの!」
「そう。戦国期でも指折りの騎馬隊で鳴らした軍!
その旗印を掲げ、戦場を駆ける数多の騎馬! んー! 心躍りますよね!
うふふ。馬術がお得意なイザベル様にぴったりでは?」
「おお・・・クレール様! 感謝致します!」
「さて、そちらは第1巻。全部で何巻あると思います?」
「全部で? お聞きになられるのですから、多いのですね?」
クレールがにやにや笑っている。
「んふふ」
「この厚さですし・・・10巻ほど?」
「24巻!」
「それほど!?」
「政や言行録、手紙の記録、普段のご生活の様子まで。
軍学書と言っても、戦の記録だけではないのです。
それで24巻もあるのですね」
「なるほど」
「色々とありますけれど、言行録もすごくお勉強になりますよ!
名将と呼ばれる者、如何な教えをご家臣に与えていたか!
如何な考えで日々を過ごしていたのか!」
「名将の言行・・・」
「私が心を奪われたのは、貝殻」
「貝殻?」
「ブデンの国は、現在のこの国の北西の小国。山国で、海がありません。
ある時、南方の国から、親善に箱いっぱいの美しい貝殻を贈られました」
「ふむ」
「ゲンシン王はそれはお喜びになって、貝殻を畳の上に並べていきます。
その数、実に畳に2畳分。それを見てにやりと笑い、ご家臣達を呼びます。
皆の者、貝殻とは美しい物であるな。さて、この貝殻は何枚あるかな?」
イザベルが首を傾げる。
「2畳分の貝殻・・・1万はあったでしょうか?」
にやっとクレールが笑って、
「残念! たったの3千枚! うふふ、イザベルさんもまだまだですね!
ご家臣達も、同じようなお答えをしました。1万とか1万5千とか」
「ううむ」
「ゲンシン王は家臣達の答えに頷いて、こう言います。
戦には数が重要であると考えていたが、それは違うとよく分かった。
たった3千の兵を1万に見せられるよう動かす事こそが大事。
数など少なくともよい。必要であるのは用兵じゃ。皆よっく心得よー!」
「ううむ!」
「当時はまだ20歳前で王子の身。
人族の年齢ですから、イザベルさんと同じくらいですね」
「はい」
「うつけと陰口を叩かれ、また贈り物ではしゃいでおる、などと言われたそうですが、その場に呼ばれた家臣達はこれを聞き、この王子は末恐ろしき者と認められたとか」
「20歳前・・・ゲンシン、恐るべし・・・」
くす、とマツが笑って、
「私は山が好きです」
「山?」
「ゲンシン王は、厠の事を『山』って言ってたんです」
「厠を山と?」
「うふふ。臭きが絶えないから! 草と木の草木ですね!
只の戦上手ではなく、お茶目な王様なんです。だから好かれるんですね」
「ふふ、ははは! ゲンシン王!」
イザベルが笑ってゲンシン軍学書を掲げる。
クレールもにこにこ笑って、
「うふふ。第1巻は、まだゲンシン王のお父上の時代の記録です。
お父上も武に秀でたお方で、怖れられたお方でした。でしたが・・・」
む、とイザベルがクレールに顔を向け、
「が? が、如何に?」
「うふふ。読み進めていけば分かります。
ご家臣にも、それは優れた軍師や将だと名を残した者が多いのですよ。
彼らの記録も探してみると面白いでしょう」
「は!」
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報告を終え、軍学書を頂き、イザベルは早々に魔術師協会を辞した。
まだ日は高い。
急いで服の仕立ての注文をせねば。
宝飾品を選ぶ時間はとれるかどうか。
よし、と広場へ向かって足を踏み出し、
(しまった!)
仕立て屋。職人。職人街・・・
またあの臭いの中に行くのか!
ううむ、と顔をしかめながら歩いて行く。
慣れねば。
奉行所の獣人の同心も最初はあそこで苦労する、しかし、ちゃんと町廻りは行われている、と言っていた。
慣れれば行ける・・・はず。
またがっくりと肩を落として、広場を曲がる。
あの織物屋で作ってもらえるか?
織物屋なら、そう奥でもない。無事戻って来られるだろう。
いや、織物屋は織物屋で、ちゃんとした仕立て屋は別か・・・
簡単な服ならともかく、きっちりした服は仕立て屋があるはずだ。
奥でなければ良いが・・・