第606話
魔術師協会、居間。
すー、と静かに茶をすする音。
かちゃ、とソーサーにカップを置く。
「イザベル様の家に、通信機は」
「ありません」
「では、近くの冒険者ギルドなり、魔術師協会なりに通信を取っていただき、そちらから家に連絡、という形になります」
「はい」
「私から連絡致しますか? ご自分で連絡致しますか?」
「私が」
「では、こちらへ」
カオルが立ち上がり、執務室へ。
イザベルも続き、執務室前で座る。
「奥方様。お仕事中、失礼致します。よろしいでしょうか」
「はい」
すー、と障子が開く。
「あら・・・」
泣き腫らし、目を真っ赤にしたイザベル。
「通信機をお借りしたいのですが、宜しいでしょうか」
「お決まりになりましたか」
「はい」
「どうぞ中へ」
イザベルが中に入ると、後ろでカオルが静かに障子を閉めた。
----------
すー、と障子が開く音がして、イザベルが出て来た。
カオルが頭を下げる。
「お邪魔致しました」
イザベルがマツに頭を下げ、カオルが静かに障子を閉める。
「イザベル様。こちらへ。お荷物をまとめましょう」
「はい」
居間に戻り、縁側に出て、庭に下りる。
まとめると言っても、ここで脱いだ鎧と着込み、あとは剣のみ。
カオルが鎧を持って驚く。凄い厚さと重さ。
イザベルはこんな物を着ていたのか。
シズク程ではなかろうが、やはり狼族の力は並ではない。
それにしても、マサヒデはこんな分厚い鎧の篭手を両断したのか・・・
イザベルは剣を取り、両手で捧げ持つように持って、
「お父様、お母様」
と、頭を下げた。
クレールが居間の中から悲しげに見ている。
カオルは無表情で見ている。
「ご主人様は、全ての財産を、と仰られましたが・・・」
「はい」
「さすがに、服が無くては買い物にも参られますまい。
今、着ておられる服はお許し頂けるよう、私から申し上げておきます」
「ありがとうございます」
「もうひとつ。礼服はございますね」
「はい」
「冒険者の稼ぎでは、まともな礼服を新しく買うには時間がかかります。
冠婚葬祭はいつあるか分かりません。
しばらくは、私がお預かりしておきます。
必要の際は、お声を掛けて下さいませ」
「はい」
「それと、印も預かっておきます。
イザベル様の身分証にもなりますし、お手紙にも、契約書にも。
これがないと困ってしまいますので」
「はい」
「では、参りましょう」
----------
冒険者ギルドの前。
イザベルと4人の従者が涙を流して別れを惜しんでいた。
カオルが無表情でじっとイザベルと従者の様子を観察している。
(それなりに人に好かれる才はあるのか)
町の外に出て、従者がイザベルの馬を引いて遠ざかって行く。
イザベルも目を細めて彼らを見送っている。
カオルは少し離れて、じっとイザベルを見ている。
しばらくして、イザベルが振り向いた。
「カオル様」
「参りましょう」
無言で2人が歩いて行く。
門をくぐれば冒険者ギルド。
中に入ると、皆の目がこちらを向いた。
つい先程まで、入口で涙を流して別れをしていたのだ。
「お疲れ様です」
「カオルさん」
受付嬢が何とも言えない顔で、カオルを見る。
「こちらの方を、冒険者として登録して頂きたく」
「え? あの、冒険者登録ですか?」
「はい」
「ええと、少々、お待ち下さい」
引き出しを開けて、一枚の紙を出し、
「こちらに必要事項を書いて下さい。
名前は通り名ではなく、本名で。当然ですが、偽名は不可です。
現住所が無い場合は、決まってからお知らせ下さい。
事故、死亡時の連絡先が無い場合も、決まってからで結構です」
受付嬢は受付の横の小さな机を指差して、
「そちらの机で記入をお願いします。
ペンとインクは引き出しの中です」
「はい」
イザベルが用紙を受け取り、椅子に座る。
カオルはそれを見てから、
「受理されるまで、どのくらいかかりますか?」
「通常であれば2、3日です」
2、3日。
支度金で安宿に泊まらせるか、庭に茣蓙でも敷いてやるか・・・
受付嬢が身を乗り出し、声を潜めて、
「カオルさん、あの方は貴族の?」
「そうです」
「なぜ冒険者に?」
「こちらで働く事を条件に、マサヒデ様と立ち会いを行いました」
「あ、そうだったんですか・・・
でも、そういう事だと・・・」
「真面目に働かないかもと?」
「え、ええ、まあ、その・・・」
「家からの仕送りは一切禁止、という条件もありますので、ご心配なく。
ここで稼がねば、彼女は食っていけません」
「他の方達とやっていけるでしょうか?
仕事も、最初は・・・」
受付嬢はまだ不安そうだ。
カオルは不機嫌な顔で、
「彼女はトミヤス流を習いに来たのです。
負けたら弟子に。万が一にも勝てれば大名誉、トミヤス流は道場で、か」
ふん、とカオルが鼻で笑い、
「そんな都合の良い話が通るものか・・・」
「え?」
「あ、いえ。これは失礼。
マサヒデ様の稽古に参加するには、ここで冒険者を続ける事が条件です。
彼女がマサヒデ様から教えを請うには、冒険者で働き続ける必要がある。
よって、働かない事はありません」
「なるほど・・・そういった条件で。トミヤス様は賢いですね」
「すぐ隣村には剣聖の道場もあるというのに、こちらを選んだのです。
多少の事で折れはしないと思います」
カオルは少しだけ声を大きくして、
「誇りを重んじる騎士は、約束を違えたりはしません」
イザベルは静かにペンを進めているが、背中が明らかに重くなった。
カオルが心の中でふん、と笑う。
「あ、そうですよね!」
カオルの心中は知らず、受付嬢はにっこり笑う。
「庶民の暮らし、冒険者の生活など、想像もつかないでしょう。
身分の違いで、腫れ物扱いされる事もありましょう。
苦労は明白。それが分かっている上で、こちらを選んだのですから」
「確かにそうですね!」
「ええ。必ず戦力になってくれます」
「ご安心下さい。腕はあります。
慣れさえすれば、A級にもなりましょう」
「わあ! 期待しちゃいますよ! 良いんですか!?」
「勿論。マサヒデ様をがっかりさせるような事はしますまい」
「ところで・・・あの方、もしかして・・・」
「何か?」
ちらちらと受付嬢がイザベルを見て、口に手を当てる。
何だ? とカオルが顔を寄せる。
「もしかして、またトミヤス様のお嫁さんですか?」
「はっ・・・はははは! 違います!」
「あははは! そうですよね!」
「ふふふ。マツ様、クレール様と続けて貴族を娶りましたからね」
がた!
「えっ!?」
イザベルが驚いて立ち上がり、インク壺が落ちて転がる。
「あーっ!」
受付嬢が慌てて駆け寄り、溢れたインクを拭く。
メイドも駆け寄って来て、床を拭き出す。
「あなた!」
がば! とイザベルが受付嬢の肩を掴む。
「今、今、何と言いました!? クレール様が!?」
「は? え? え? 何ですか?」
「トミヤス様が、クレール様を娶ったとは!?」
「そそそそうですよ!?」
小さく震えながら、イザベルがカオルを見る。
カオルは無表情でイザベルを見返す。
つい先日、堂々とお七夜のパーティーを派手にやったばかり。
この辺りの貴族連中には、大きく広まっているはずだ。
こんな事も知らなかったとは・・・