第584話
マサヒデとジロウが遠間で睨み合う。
一見、遠間。
だが、無願想流と弓引き斬り。
既に互いの間合いの内。
マサヒデは右脇構え。
ジロウは上段。
どうしたものか、とマサヒデは足を止めている。
一振り外せば勝てるが、あの神速の振りを躱せるか。
ジロウも同じ事を考えているだろう。
マサヒデには、ジロウが振り出したら受けられない。
ならば躱すしかない。
右から左に振りながら跳ぶ。
ジロウの振り下ろしが、逆袈裟のように追ってくる。
マサヒデは踏み込み切らず、ぎりぎり木刀が届かない所に止まった。
目の前をジロウの木刀が落ちていく。
マサヒデの木刀の上に、ジロウの剣先。
道が見える。
ジロウの腕に沿うように、左から右に、斜めに斬り上げる。
斬り上げながら、身体を上に伸び上げ、くるりと身体を回す。
脇の下。胸の横辺りに当たる。
伸び上がった身体を沈み込めながら、振り向くように更に回る。
回りながら沈み込んでいく背中の上を、ジロウの切り返しが掠めていった。
回転したマサヒデの木刀に右肩の後ろを持っていかれたジロウが、マサヒデの左に、マサヒデに背中を向けるようにばたんと倒れる。
そのまま振り抜いたマサヒデの木刀の剣先が、ぴたっと床と平行に止まる。
「お見事!」
ぱちぱちとコヒョウエが拍手を上げると、マツとクレールも拍手を上げる。
アルマダ、カオル、シズクは目を皿のようにし、マサヒデ達を見つめている。
とすん、とマサヒデが尻を落とした。
はあっ! と息を吐いて、倒れたジロウを見る。
太刀筋を思い出し、ああ、と力が抜けた。
これは真剣なら負けていた。
「う、くっ・・・」
ジロウが呻いて、脇の下を抑えながら座り込む。
痛みに顔を歪めたジロウが顔を上げた。
目が合った。
マサヒデが、は、ともう一度息を吐いて、かくんと肩を落とす。
「ありがとうございました」
肩を落としたマサヒデを見て、ジロウがにこっと笑う。
「ありがとうございました」
「あれ、弓引き斬りですよね」
「え!? ご存知でしたか!?」
「父上の師は、コヒョウエ先生ですよ」
「・・・は、ははは! いや、そうでした! ははは!」
顔を歪めながら笑うジロウに、マツが寄って来て、手を当てる。
「今まで使わなかったのは、やはり見せたくなかったから?」
「ふふふ、いや、馬鹿なことをしていました。
勝手に禁じ手にしていたのですが、どうしても勝ちたくて・・・
既に知っていて当たり前の相手に禁じ手など! ははは!」
痛みが消え、ジロウがマツの方を向き、
「マツ様、もう大丈夫です。ありがとうございます」
と頭を下げ、木刀を拾って立ち上がる。
マサヒデも立ち上がる。
互いに礼。
もう一度、笑顔を合せて、マサヒデもジロウも笑う。
「ありがとうございました」
「ありがとうございました」
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一通り立ち会いを終えて、縁側で休憩。
コヒョウエが茶をすすって、
「マサヒデ殿」
「はい」
「そちらの・・・」
コヒョウエがカオルを見る。
ジロウもカオルを見る。
ニ刀を見たい、と言いたいのか。
「ああ。ないです」
「ない? ないとは?」
「ニ刀は嘘です」
「は?」
コヒョウエもジロウも、目を丸くしてマサヒデを見る。
カオルがくすっと笑う。
「はったりです。ジロウさんの手が見たかったので、こんなのもあるぞと」
「はーっはっは! してやられた! 言ってしまって良いのかな?」
「構いませんよ。今は出来ない、というだけです。
それに、無願想流でなければ普通に出来ます。
ですから、半分は嘘ではありません」
「はっはっは!」
げらげらとコヒョウエが笑う。
「それで、ジロウから聞きましたが、もう50のうち何度かは振れると」
「はい」
「もう理は分かったとか」
「こうではないだろうか、という程度ですが」
コヒョウエが頷いて、
「左様か。で、どのような理と見ました」
「手の内と肩です」
コヒョウエが頷き、
「お見事。では、こちらも土産を用意致しました。
よくご覧になって下され。ジロウ、準備を頼む」
ジロウがにっこり笑って、縁側から下り、道場の後ろに走って行く。
巻藁を1本抱えて戻って来て、マサヒデ達の前に立て、頭を下げる。
「さて・・・振れるようになると、どうなるか。
皆様、我が芸をしかとご覧あれ」
コヒョウエが立ち上がって、床の間から刀を取り、庭に下りて行く。
巻藁の前に立ち、すらっと抜いて、
「この巻藁程度なら、振り被らずとも良くなる」
ひょいと刀の物打ちを巻藁の横に出し、
「これで斬れる」
ぱすん! と袈裟に斬れて、綺麗に落ちる。
なんと、中には竹を芯に入れてある。
ただの一畳巻きではなかった。
しかも、アルマダのように、腰を大きく落としたりもしていない。
軽く腕を落としただけ。
「・・・」
言葉も出ない。
「さて、ジロウから聞きましたが、マサヒデ殿は三傅流をお使いになるとか」
「未熟ですが」
「教えて頂いたのは、やはり抜刀術?」
「はい」
コヒョウエが頷き、
「抜刀術は抜刀の術、という事をお忘れなく。これぞ剣術の妙ですぞ」
「と言いますと」
「あの長い雲切丸で下手に抜き付けようとすると、必ずヒケが付く。
腰を回し、手で引く。鞘を後ろに回せば、内に当たる。抜けばヒケが付く。
抜く方向は鞘を回す。刀は鞘の内で傾く。内に当たる。抜けばヒケが付く」
「は」
抜くだけでヒケが付く。
三傅流は使えないのか?
しかし、あれだけ刀を大事にするイマイが使っているのに・・・
「当然、刀のみならず、鞘の内も痛めますな。
三傅流の者は、刀のみならず、鞘の内、鯉口が傷だらけの者が多い。
中には、抜刀の稽古中に鞘を割る者まで出る始末。
正しく抜けぬから、そうなる」
正しく抜けないから、そうなる。
使えないのではなく、難しいのだ。
自分は正しい抜き方を出来ているだろうか?
「抜刀術を学びなされたのは、実に良い事。
まず斬ったり突いたりする前の、抜刀の段階こそが難しい。勿論、納刀も。
ここの所、心して鍛錬を積みなされ」
「お教え、ありがとうございました」
マサヒデが頭を下げる。
「と、ここまでは落雁の礼」
は、とマサヒデが顔を上げる。
「次はワインの礼。うむ、もひとつ芸でもお見せ致そうか」
すうっと刀を拭って、コヒョウエが刀を納める。
「この斬り方が出来るなら・・・」
コヒョウエが鞘ごと刀を前に出す。
三傅流の抜きだ。
ゆっくりと鞘を引いて、ぴっと抜かれた刀が巻藁の横に置かれる。
「ほれ、ここから斬れますな。という事は」
もう一度納めて、目にも止まらぬ三傅流の抜刀。
そのまま振り被らず、ぱすん、と片手で巻藁を斬り落とす。
「この通り。おお、今のは我ながら良く出来た!
ははは! 面白いかな? いや、武芸、武の芸とはこの事かの!
うむうむ、抜刀さえ出来てしまえば、もう勝ったも同然よ!
三傅流の目にも止まらぬ抜刀、出来てしまえば負けなしじゃ!」
コヒョウエが笑いながら刀を拭って、すっと刀を納め、マサヒデの方を向く。
「・・・」
見事すぎて、言葉も出ない。
まさか、片手でも全く振り被らずに斬り落としてしまうとは。
切り口は綺麗で、巻藁は少しもけばだっていない。
コヒョウエはにこにこしながら頷いて、
「これを我らの土産と致しましょうかな」
「お教え、ありがとうございました」
マサヒデが頭を下げ、皆も頭を下げた。