第581話
シュウサン道場。
シズクとジロウとの立ち会いが終わった。
シズクは負けたが、一本『盗った』。
「次は私が」
す、とカオルが立ち上がる。
左右に小太刀。
冷たい目をジロウに目を向ける。
すう、と空気が冷たくなる感触。
「む」
コヒョウエとジロウの顔が変わる。
小太刀ニ刀・・・
す、とカオルが足を進めた所で、マサヒデが止める。
「カオルさん」
ぴた。
「よしと言うまで、ニ刀は禁じます」
「しかし」
「いけません」
ぴしゃりとマサヒデが止める。
「・・・承知しました」
小さく頭を下げ、カオルが腰に1本を納める。
上手いものだ。
ジロウが明らかに警戒している。
「よろしくお願いします」
「よろしくお願いします」
す、と2人が頭を下げる。
ジロウは正眼に。
カオルは下段に。
ふむ、とコヒョウエが前かがみになり、顎に手を乗せる。
マサヒデ達の無願想流を見るのは初めて。
加えて、ニ刀とは。
「始め」
瞬間、び! とジロウの横腹を掠めて、カオルが抜けて行った。
「うわ!」
驚きながら振り向きかけたジロウの背中から、カオルが戻ってくる。
間に合わない、とジロウが背中まで振り被る。
かん!
ジロウの背中で木刀がぶつかり、流せずにがつんと背中に衝撃。
これは速さに任せた軽い振りではない。
斬れる振りだ。
う、と前に目を向けると、カオルが振り向きながら逆袈裟に斬り上げてくる。
迎え討とうと振り下ろす。
「何!」
すっとカオルの小太刀が前を通り過ぎ、ぐっと横にカオルの身体が沈む。
(このまま!)
がん! と音が響き、ジロウの木刀が床を叩く。
目の前を、カオルの足がくるっと周りながらジロウの左に逃げていく。
カオルは右足を軸に回っている。
(まずい!)
ぱっと前に跳んで転がる。
転がりながら、カオルが横に薙ぎ払っているのが見えた。
跳んでいなかったら、後ろから左の腹に入っていた。
ジロウが起き上がる。
カオルが薙ぎ払った姿勢から、足を引き付けて立ち上がる。
「ふー・・・」
細く、長く、カオルが息を吐き出す。
全く息切れはしていない。
これが無願想流!
軽捷神業の如しとは、歴史によくある誇張ではなかったのだ。
(だが、見える)
ゆらり、ゆらり、とカオルが近付いてくる。
ジロウの木刀の剣先で、カオルが止まる。
カオルは薄氷のような空気をまといながら、
「どうぞ」
と、笑いもせずに言った。
先程のシズクとは正反対の相手。
ぴく、と剣先を動かす。
カオルは動かない。
やはり、この程度に乗る相手ではない。
すっと振り被る。
カオルが肘に斬り上げてきた。
見える。
斜に出て振り下ろせば、腕を取れる。
「う!」
ぱ! と右手を木刀から離し、手を横に開いた。
開いた手の間を、カオルの木刀がしゅっと通っていく。
途中で筋が変わった!
切り返し!
さ、と大きく左足を引く。
小太刀が左の袖を掠めた。
筋が伸びてきた。
明らかに空振りする間が開いていたはず。
しかも小太刀なのだ。
やはり、途中で筋が変わる。
ブレているようなものだ。
そんな振り方なのに、牽制のような軽いものではない。
乗っている。
斬れる。
(む)
切り返しで、逆袈裟に近い、何とも言えない筋で振り下ろしたカオルが、ぐっと沈んでいる。
(来る)
ぱ! とカオルが跳び込んで来る。
右足を引く。
右足の太ももを掠め、カオルが伸びた体勢で目の前。
振り下ろせば入る。
かん! と音がして、頭の上で木刀がぶつかった。
ジロウの目の前を、カオルが凄い速さで左に跳んで行く。
ぶつかって左に流れたジロウの木刀の上を、カオルの小太刀が滑って行く。
今のは木刀の丁度真横から打ち込まれた。
真剣であったら、折られていたかもしれない。
離れた所にカオルが立った。
頭上で左に流され、少し崩れたが、カオルが離れていて助かった。
さ、と体勢を直し、カオルの方を向く。
背中を向けている!
踏み出そうとして、くる、とカオルが肩越しに目を向けた。
(う!)
ぴた、とジロウが足を止めた。
カオルは背中を向けているのに、踏み出せない。
目だけで止められてしまった。
これはまずい。
(落ち着かねば)
完全に飲まれてしまった。
「すうー・・・ふっ」
がっくりするように肩を落とす。
握りをあらため、軽く握り直す。
剣先が上がる。
すっと振り上げる。
向けられた背中から、薄氷の空気を出すカオルを見る。
これが無願想流!
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「なるほど、なるほど」
「マサヒデさん、今の。はっきりと、剣先が大きく上がりましたね」
「ううむ。分かりやすい」
「マツ様との立ち会いでも振り被りましたが、これ違いますよ」
「多分、これが最初の一歩ですね」
マサヒデとアルマダが険しい顔でジロウを見ている。
カオルは余裕そうな顔をしているが、もういっぱいいっぱいだろう。
押しているように見えるが、糸の上を歩くような気分のはずだ。
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ゆっくりとカオルが身体をこちらに向ける。
ふらあり、ふらあり、と歩いて来る。
あの距離からでも来る、と思った瞬間、ぱ! と跳んで来た。
打ち落とそうとしたが、大きく左に逸れていく。
は! として左に身体を向ける。
カオルが手裏剣を持っている。
「うっ」
避けられん!
と、ほいっと棒手裏剣が放り投げられた。
あれ? と思わず目が行った。拍子が外された。
瞬間、下から。
ジロウが振り下ろす。
カオルが斬り上げる。
「そこまで」
コヒョウエの声。
2人が止まる。
ふわりと投げられた棒手裏剣が、カオルの背に当たり、かららん、と落ちる。
ジロウの木刀はカオルの肩口。
カオルの小太刀はジロウの脇腹。
「相打ちかな。いや、お見事!」
コヒョウエが笑顔で、ぱちぱちと軽く拍手をする。
く、とカオルが顔を背ける。
真剣なら・・・
ジロウが振り下げれば、カオルの心の臓まで。
カオルはジロウの脇腹を斬って、途中で止まる。
自分は即死する。
ジロウは深手とはいえ、即死ではない。
これは相打ちではない。
ジロウが木刀を引く。
カオルも木刀を引きながら立ち上がる。
「ありがとうございました」
「ありがとうございました」
礼をして、転がった棒手裏剣を拾い集め、肩を落として戻ってくる。
マサヒデは消沈したカオルを見て、笑って頷く。
「熱くなりすぎましたね」
「は」
「しかし、勝ちました」
「勝ち? と言いますと? ・・・あっ」
マサヒデとアルマダがにやっと笑う。
カオルが肩越しにちらっとジロウを見る。
酷く疲れ、がっくりと肩を落とし、息を切らせている。
「とても良いものを頂きました。これは稽古に活かせそうです」
アルマダも目礼して、
「カオルさん。ありがとうございます。
これで私達も大きく前進出来ましたよ」
と、にっこり笑う。
「ふふ・・・ご主人様のお役に立てましたか。良かった」
カオルも笑って、正座して座る。
消沈していた気分が、一気に満足感で満たされた。