第568話
マツとカオルが、マサヒデの前に緊張した顔で座っている。
マサヒデは置かれた皿の上のニジマスのムニエルを一目見て、
「ああ。こっちがカオルさん。こっちがマツさんですね」
「え!」「何故!」
「やっぱり当たってましたか」
カオルのムニエルをひっくり返し、さく、さく、と音を立てて箸で刻む。
「ほおらやっぱり。頭が落としてあったから、こうだと思いました。
ぺったりと平たくなってますし、綺麗に骨が抜いてある。
こんなの、カオルさんじゃないと出来ませんし・・・」
マツの方のムニエルを箸で摘んで、
「こっちはタレが掛けてある。
簡単な料理だって言ってたのに、何か凝ってる。
ブリ=サンクのもタレが掛かってましたからね。
となると、ああいうのを食べ慣れてるマツさんだ」
「さすがご主人様、お見事です。口にも入れずに看破されてしまうとは」
「では、お味を見て頂けますか」
「はい」
ごく、とマツとカオルが喉を鳴らす。
そのまま、箸で摘んだマツのムニエルを口に入れる。
「おっ」
マサヒデがちょっと驚く。
「如何でしょうか」
「これ醤油入れたんですね。
レストランのイメージで、洋風の料理だって思い込みがありました。
醤油が入っていると、すごく馴染みある感じがします。
少しだけ凝ってはいるけど、肩は凝らないというか。これ美味しいです」
「良かった!」
マツが手を合わせる。
「では」
カオルのムニエルに箸を伸ばし、刻んだひとつを取って口に入れる。
ぱり、ぱり、ぱり・・・
「さすがはカオルさんです。
ぱりぱりしてて、中は柔らかい。口ごたえは完全に勝ちです。
バターも濃すぎないし、うっすら香草の香りもしますね」
やった! とカオルが目を輝かせたが、
「でも、こんな骨抜き、カオルさんしか出来ないじゃないですか。
小骨ひとつもない。誰も作れませんよ、これ。
全然、簡単な料理じゃなくなっちゃってるじゃないですか」
「いけませんか?」
「簡単な料理だから腕の違いが、という勝負だったでしょう。
他の誰も作れない料理では、勝負ではなくなってしまいますよ」
「む・・・」
「マツさんのタレはどうやって作ったんですか?」
ふふん、とマツが小さく笑って、
「焼いた時に使ったバターの余りに、醤油を入れただけです」
マサヒデが頷いて、
「はい。というわけで、カオルさんは反則負け。
味は凄く美味しいですよ。歯ごたえもさくさくしてて、とても良い」
「くっ! 無念・・・」
カオルが膝の上で拳を握る。
「ほら、マツさんもカオルさんの食べてみて下さいよ。
こんなの、誰にも作れませんよ」
「では、一切れ」
と、マサヒデが箸で切り分けたひとつを口に運ぶ。
にやにやしていたマツの顔が、は! と真面目な顔になり、
「むっ! ううん・・・カオルさん、流石です」
「は・・・お褒め、ありがたく」
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その頃、台所では。
塩をかけ、ぬめりを取った所で、クレールがじっと腕を組んでいる。
横でシズクがニジマスを拭いて、
「クレール様、どうしたの?」
「ん・・・」
ずっとニジマスとにらみ合っている。
シズクは適当に塩胡椒をかけて、
「先に焼いていい?」
「どうぞ」
シズクが、かとん、とフライパンを竈に置いて、まな板の上に小麦粉を撒く。
「こんなかなー」
撒いた小麦粉の上に、適当にべたべたニジマスを置く。
ぴん、ぴん、と指で弾いて、小麦粉を落とす。
「あんまり考えすぎも良くないと思うな。
マサちゃん待たすのもさ」
「ええ。しかし・・・」
しかし、魚の余りはない。
色々試す余裕がないのだ。
一発勝負で、料理に慣れないクレールでも、簡単に出来そうな手。
勝てはしなくとも、せめて同着に追い詰められる手は!
台所を見回し、きらりとひとつの物に目を光らせる。
これだ! やはりソースで勝つしかない!
うん、と頷いて、じゃわじゃわとニジマスを焼くシズクの横で、おろし金を取る。にんにくを取り、小さな粒を選び、ぺりぺり皮を剥がしてすりおろす。
にんにくがあまり多くてもいけない。
きっと、他の味を消す。
「よし! 私はこれで行きましょう!」
「よいしょっと」
ぺたん、とシズクが皿にムニエルを乗せる。
「本当、簡単に出来ちゃうね」
「ええ。シズクさんは先に持って行って、食べていて下さいね。
焼き立ての熱いうちが、一番美味しいのですから」
「いいの? じゃあ」
皿を持って、シズクが出て行った。
「うん」
頷いて、ぱらぱらと塩胡椒。
カオルが使ったように、ハーブもひとつまみ。
香りがにんにくに負けないよう、もう少しだけ。
小麦粉を撒いて、ぺたぺたと小麦粉の上で転がす。
オリーブオイルも使いたい所だが、どのタイミングでバターを入れるか分からない。ここは譲るしかない。
こっとん、と綺麗にしたフライパンを乗せて、ぼ! と火勢を強くする。
バターを乗せると、じわじわ音を立てて溶けていく。
見様見真似で、くりん、くりん、とフライパンを回して、バターを広げる。
「よっと」
ぺたん、とニジマスを置くと、じゃー! と音がして焼けだした。
少し焦げたくらいはさくさくして良いが、生焼けには気を付けて・・・
「ん! ん!」
焦げてしまった。
ひっくり返そうとして、フライ返しを慎重に突っ込む。
焼けた衣が剥がれてしまうのだけは避けたい。
ころん・・・じわじわ・・・
「ふーっ・・・」
少し焦げたが、見た感じはこのくらいで良い。
見た感じ、丁度さくさくして良い食感だろう。
次は気を付けて・・・
「よし! そろそろ!」
ばらら、と懐紙を重ねて並べる。
フライ返しをそっと入れていく。
焦げついてはいない。
ぱしゃ、と懐紙の上に乗せると、じわじわと油が染み込んでいく。
上にも懐紙を乗せて、最後の仕上げ、ソース。
一旦、焼いたバターは捨てて、新しいバターを入れる。
熱くなったフライパンに、勢い良くバターが溶け、泡を立てる。
(どのくらいか・・・)
これは賭けだ。
どこで醤油を入れるのか分からない。
焦げそうになるくらいまで熱するか。その前か。溶けたばかりか。
どうせ賭けなら、焦げると面倒だし、もう入れてしまうか。
ちょろちょろと醤油を垂らす。
じゅわー! と一気に音が上がる。
入れすぎないように・・・ぴ! と醤油差しの口を上げ、醤油を止める。
そして、すりおろしたにんにく。
ぴぴ、とおろし金から落とし、フライ返しでかき混ぜ、少し熱して、
「えいっ!」
ひょい、と竈を指差して、火を消す。
懐紙に包まれたニジマスは、良く油を吸われている。
皿に乗せて、ソースをかける前に確認。
さじを取って、ソースをすくい、ふー、ふー、と吹いて、ぺろ。
「ん・・・」
首を傾げる。
もう少し。
にんにくを入れたのは悪くなかった。
だが、不足。
バターは焦がすくらいで良かった。
ハーブは、このソースの方に入れた方が良かったかもしれない。
にんにく、ハーブだけでは物足りない。
レモンやトマトなども混ぜると良いだろう。
好みによるが、引き締める為、パセリを細かくして掛けるのも良い。
70点。
だが、初めてのムニエルにしては悪くない。
急に満足感が身体を包む。
「出来たあ!」
皿にムニエルを乗せ、さじでソースをかけていく。
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「出来ました!」
満面の笑みで、クレールが居間に入ってくる。
お! とマサヒデ達が顔を上げる。
シズクは自分のムニエルをおかずに、ばくばくと飯をかきこんでいる。
マサヒデがにこっと笑って、
「上手く出来たようですね」
「はい! 初めてにしては良く出来たと思います!」
初めて。
良く出来た。
マサヒデ達が不安気な顔を見合わせる。
「もう! そんな顔しないで下さい! ちゃんと味見はしましたよ!
私、味に妥協は致しません!」
「む、そうですか」
は! とカオルが皿を見る。
にんにく・・・香草も使っている。
強すぎず、弱すぎず、釣り合いが取れている。
これが初心者の料理?
「では、クレールさんは初めての料理ですから、採点を甘くします」
「ありがとうございます!」
かちゃ、とマサヒデの前に皿が置かれる。
少し焦げてはいるが、焦げ焦げではない。
「おや。クレールさんもソースを作ったんですね。どれ」
ぱり、と微かな音を立てて、マサヒデが箸でつまむ。
「おっ・・・」
マサヒデが驚きの顔でクレールのムニエルを見つめる。
「マツさん」
マツの方に皿を出す。
マツも少しつまんで、
「ん・・・」
驚いてクレールの顔を見つめる。
緊張した顔で、クレールがマツを見つめている。
「カオルさんも」
「は」
カオルもひとつまみして、驚く。
「これが、初めてですか」
「はい! 私、紅茶以外は作ったことはございません!」
「ううむ!」
マサヒデが腕を組んで、天井を仰ぐ。
「では、初心者の下駄を履かせて、優勝はクレールさんですね」
「えっ」
「マツさん、2位! 3位、シズクさん!」
ぴた、と箸を止めて、シズクがマサヒデを見る。
「え? 私が3位? カオルは?」
「失格です」
「ええ?」
なんで? とクレールとシズクが顔を見合わせる。
「く・・・」
カオルが悔しそうに膳を見つめる。
「簡単な料理で腕の違いを比べる、という勝負だったのに、1人だけ物凄く難しい料理を作ったので、カオルさんは失格です。小骨ひとつ無いんですよ? こんなの、一流料理人でも作れませんよ。確かに美味しいですけど」
「ぶぁーはははは!」
げらげらとシズクが笑って、マツも笑う。
うんうん、とクレールが真剣な顔で頷く。
「味もさることながら、あの技には驚きました」
「ふふふ。では、冷めないうちに夕餉を始めましょう。
シズクさんは始めちゃってますが。
さ、皆さん、いただきます」
「「「いただきます!」」」