第560話
翌早朝。
さらりと奥の間の襖が開く。
危惧した通り、家中が酒臭い。
む、とマサヒデが顔をしかめる。
今回は大して呑まなかったので、自分も酒臭い、などという事はないはず。
木刀をもって居間の前を静かに歩いて行くと、シズクがのっそり起き上がって、ふわあー、と口を大きく開け、両手を挙げて身体を伸ばす。
「おはようございます」
「をふぁおーう」
「まず、湯に」
「はいはい」
目をこすりながら、シズクがごそごそと荷物から稽古着と手拭いを出す。
湯からそのまま素振りに来るのだ。
マサヒデが横を歩いて、転がしてある素振り用の刀を拾う。
「あや?」
と、シズクがマサヒデの木刀を見て声を出す。
「ん?」
「今日は木刀?」
「ええ。今日、明日と、明後日の朝は、立ち会い稽古をしましょう。
素振りは時間が余ったらやります」
言いながら、素振り用の刀は縁側に置く。
シズクがにやにや笑いながら、
「ほほーん」
と、シズクが顎に手を当てる。
喋っていると、カオルも出て来た。
「おはようございます」
「おっはよー」
「おはようございます。カオルさん、木刀を持って来て下さい」
ぴく、とカオルが眉を小さく上げる。
「今日、明日、明後日の朝は、立ち会い稽古です。
せっかく掴みかけた所ですが、素振りは時間が余ったらです。
まずは、目前のジロウさんとの立ち会いに向けて」
カオルが小さく口の端を上げ、
「分かりました」
と、部屋に戻って行く。
「シズクさんも、早く湯に行って下さい。
早くと言っても、ちゃんと酒臭さは流して下さいよ」
「はいはい!」
うきうきしながら、シズクが出ていく。
あの様子、完全に臆病さは抜けたようだ。
頷いて、マサヒデも庭に下りる。
ぎゅ、と木刀を握ると、久し振りの感触。
素振りで真剣、訓練場では竹刀と、木刀の出番がなかった。
ひゅ、と1回振って、にやっと頷く。
カオルが縁側に刀を置いて下りてくる。
マサヒデの前に立ち、頭を下げる。
「さっき、立ち会い稽古と言いましたけど」
「はい」
「ちょっと難しい稽古にします」
「と言いますと」
「今回は、ジロウさんの技術を盗みに行きます。
出来る限り、振らせて、手を出させ、盗みましょう」
「盗み」
にや、とカオルが笑う。
マサヒデもにやにや笑いながら、
「ふ、ふふふ。盗みだなんて、言葉が悪かったですね。
互いに切磋琢磨ですよ。互いに、ね。
ジロウさんだって、そのつもりです。
カオルさんも、私がジロウさんと立ち会う時は『見る』つもりですよね」
「当然です。見て学ぶのも稽古のうち」
「見るよりも、身体で学べば、尚早い」
「ふふふ」
「かと言って」
ぽん、とマサヒデが木刀を手に置く。
「あのジロウさん相手にそれは難しい。
ぐっと伸びているはずです。
前回と全く変わらなかったとしても、難しいでしょう。
コヒョウエ先生も、楽しみにしていると言っておられました。
ふらふらしているようですが、ジロウさんに所々稽古をつけているかも」
「ジロウさんのお話では、まだかまだかと、随分と焦れておられるご様子」
「そこまで楽しみにしておられますか。
かも、ではなく、まず稽古を付けていると見た方が良いですね」
「私もそう思います」
「コヒョウエ先生は、無願想流など知らないと言っておられましたが・・・
例え知らなかったとしてもです。
シズクさんの言う通り、あの身軽さで動くのなら、無願想流と大差はない」
「はい」
「必ず、ジロウさんの形を崩さず、要所要所だけ的確に・・・
父上か、父上以上の稽古をつけておられるはず。
父上は、コヒョウエ先生の教えがあって、今の強さがあるのですから」
「カゲミツ様か、それ以上の教え・・・」
カオルもカゲミツの教え上手は身を持って知っている。
同じか、それ以上の教え上手。
あのジロウがどれだけ伸びただろう。
「真剣勝負ではないのです。
立ち会いの勝ち負けなど、いりません。
今回は『多く盗んだ方が勝ち』です」
「は!」
「その為には・・・」
ぽん、とマサヒデが木刀を置く。
「基本は、冒険者さん相手と変わらない。
こちらは手を抜いて、相手に手を出させる。
ですが、コヒョウエ先生も、ジロウさんも、並の手抜きではすぐバレる。
コヒョウエ先生は笑うでしょうが、ジロウさんは怒るでしょうね」
「はい」
「ぎりぎりです。ぎりぎりの所。9割8分。
1分で手を出させ、1分で躱す。
ジロウさんを危機に追い込む!
このままではやられる! ぎりぎりで躱せた! 今だ! そこを躱す!
・・・と、このくらいで出る手でないと、盗む事もないでしょう。
これを繰り返し、盗むしかない」
「難しいですね」
「ええ。出来る限り長く立ち会い、出来る限り手を出させる。
それも、睨み合いになどなってはいけない。
打ち合いにならなければ、盗めない。
少しでも変だと悟られてもいけない。
これは難しいですよ」
「はい」
「最初にシズクさんを出させます。
都合良く、シズクさんは守りを考えるようになりました。
その様子を見て・・・どこまでか、目安が付けば良いのですが・・・
何か盗めるものも出るかもしれませんし」
ちら、とカオルがギルドの方を見る。
「シズクさんには、今回は守りを鍛える良い機会、と伝えましょう。
騙すようですけど、実際そうですし」
マサヒデが頷く。
「ジロウさんの打ち込みをどこまで捌けるか。
こう課題を与えれば、頑張ってくれるでしょう。
シズクさんは、守りの技術も、並大抵ではありません。
適当に手も出して頂ければ、尚良しです」
「はい」
「では、私とカオルさんの稽古の方針。
出来る限り私に手を出させ、出来る限り長引かせて下さい」
「あの、お言葉ですが・・・」
「何でしょう」
「ご主人様が手を出したら、まず一本かと」
「全力で打ち込むのではなく、私に手を出させる所まで。
9割8分の、ぎりぎりの誘いの手。
そして何とか躱すんです。
こういう騙し合いこそ、忍の本領ではありませんか。
あなたは武術家ではなく、忍なんです」
ぐ、とカオルが痛い所を突かれ、言葉に詰まる。
「・・・仰せの、通りです」
マサヒデは少し悔しそうな顔をして、
「正直に言って、私には盗めるほど、長引かせられる自信はありません。
どれだけ頑張っても、すぐに次の一手で決まる、という形になるはず。
アルマダさんも、そうなると思います。
カオルさん。私達が強くなるための鍵は、貴方です。
失敗すれば、ジロウさんが強くなるだけで、我々に得られる物はない」
ずしん! とカオルの背中に重い物を乗せられた。
自分だけでなく、マサヒデの剣の命運を乗せられたのだ。
「ここでひとつ考えが」
「お聞かせ下さい」
「二刀で無願想流。いけますか」
「む・・・」
「もう、ある程度は慣れてきたと思いますが・・・
さすがに打太刀は無理でしょうが、小太刀では如何でしょう。
無願想流で二刀、出来そうですか」
片手であの振り!
出来れば、確かに強い。守りにも固くなれる。
今の無願想流でも、ぎりぎりアルマダに勝てる。
二刀が可能なら、アルマダにも、もしかしたら、マサヒデにも。
だが、すぐに出来るか?
3日後。
付け焼き刃になりそうだが、二刀も練習してきたのだ。
やってみれば、意外とすぐに馴染むかもしれない。
これが出来れば。
「ひと勝負だけ、試させて下さい。
実際に振ってみねば分かりません」
マサヒデが頷く。
「では、稽古用の小太刀とナイフを持ってきます」
「頼みます」