第559話
郊外、あばら家の前。
街道を黒影で走って来て、予定より少し早い。
馬屋に戻り、黒影を預けて、ゆっくりと夕餉の買い物も出来る。
足を緩め、馬を降りて、かさかさと草をかき分けながら、中に入って行く。
アルマダは縁側で着込みの手入れをしていた。
「ハワード様」
「どうでしたか」
黒影を入り口に置いて、アルマダの所に歩いて行く。
「是非ともお願いしたいと。
コヒョウエ先生も道場に顔を出しては、まだかまだかと焦れているそうで」
「ふふふ。そうでしたか。
やはり、2000回も振れなくて良かったんですよ」
「ところで、お聞きしたいことがあるのですが」
「なんでしょう」
着込みを睨んでいたアルマダが顔を上げる。
「あの振り、本当に剣で出来ますか?」
え? とアルマダが怪訝な顔で、
「ええ、それは勿論。仕組みは分かりましたから、出来ますよ。
確かに難しいですが、無理ではありませんね。
いや、私はまだ掴めていませんが・・・何か言われましたか?」
「ジロウ様は、剣では無理だろうと考えておられたそうです」
「剣では無理?」
アルマダが首を傾げて、眉を寄せる。
ううむ、と唸って、腕を組んで天井を仰ぎ、
「私達は、コヒョウエ先生から、手ずから教えてもらった訳ではありません。
実際に見てもいないですよね」
「はい」
「違うのかも・・・しれませんね」
「違うとは?」
「マサヒデさんが見つけた答えと、コヒョウエ先生の答え。
力を使わずに斬れる、という所では変わらないですが」
カオルがそれを聞き、は! として、
「確かに! 確かに、ありえます!」
アルマダが険しい顔をほころばせて、
「それならそれで良い。新しい技術が見つかったのですから。
コヒョウエ先生に確かめて頂き、技術の交換というのも悪くない」
「交換ですか」
「答えが違ったらの話ですよ。
同じように、力を使わない振り。きっと何か教えてくれます」
「では、違っていると良いですね」
「ええ。新しい技術が増える。
ふふふ。もし違う答えだったら、マサヒデさんは大発見をしたのかも」
「そこも楽しみになってきました」
アルマダがにっこり笑って、
「あながち、ない話ではありませんよ。
無願想流も、自分で見つけてしまったのですから」
カオルも笑顔になる。
「私は、良い主に出会えました」
「ははは! 全くですね!」
「それでは、3日後。昼餉を済ませましたら」
「ええ。楽しみですね」
アルマダが着込みに目を戻し、カオルも振り向いて去っていった。
----------
魔術師協会。
日も沈みかかり、夕餉の支度に丁度良い時刻。
カオルは大きな買い物袋をぶら下げ、からからから、と静かに玄関を開ける。
「只今戻りました」
「お」
マサヒデの声。
マツがにこにこしながら出て来て、
「おかえりなさいませ。どうでした?」
「ええ」
カオルがにっこり笑って頷くと、マツも手を合わせて、
「良かった! 楽しみですね!」
「はい。本日はささやかな祝という事で、ご主人様の好きな鮎と、照り焼きにしましょう。沢山用意しましたよ」
「楽しみ! さあ、夕餉の支度を始めましょう! 私も手伝います!」
「あ、申し訳ありません、まずはご主人様にご報告をせねば」
「ああ、そうでしたね! では、私が準備を始めておりますから」
と、マツが手を伸ばして、カオルの手から買い物袋を取り、いそいそと下がって行く。カオルは埃を払って、居間に上がっていく。
シズクとクレールが顔を上げて、カオルの顔を見て笑顔になる。
すう、とマサヒデが素振り用の刀を拭いて、鞘に納め、
「おかえりなさい」
と、顔を上げた。満面の笑み。
「あ、聞こえておりましたか」
「ええ。楽しみですね」
シズクが起き上がって、肩を回す。
「へへへ! そうか、良かったか! そうかそうか!」
マサヒデがにやにやしながら、
「シズクさんも、強くなりましたからね。
あの病も治りましたし」
くす、とカオルが笑い、ぷ、とクレールが吹き出す。
「もう! 忘れてくれよ!」
「ふふふ。あの姿は一生忘れられませんよ」
カオルがにっこり笑って、
「では、私は夕餉の支度に。本日は豪勢に致します」
「楽しみですね」
「米、いっぱい炊いてくれよ! 鮎と照り焼きだろ!
食べるぞおー! ねね、マサちゃん、お酒買ってきていい?」
「良いですよ」
「やった!」
シズクが荷物から金を出し、立ち上がる。
「シズクさん、出しますよ」
「いいよいいよ! 今日は私の奢り! マサちゃんも少しは飲んでよね!」
クレールも立ち上がって、
「では、私もワインを開けましょう!」
どかどかとシズクが出て行き、クレールも奥に引っ込み、カオルも台所に下がって行く。
「ふふふ」
皆、一気に気が上がってきた。
マサヒデも、行けるとなると、もう待ち切れない。
縁側に出て、素振り用の安い刀を抜く。
(確かに掴みかけてきた!)
今すぐにでも庭に下りて、素振りを始めたい。
気持ちを堪え、ぐっと柄を握る。
ジロウはマサヒデ達との立ち会いで、ぐっと伸びたはず。
コヒョウエに教えも受けているはず。
今の中途半端な振りでは、とても通じまい。
無願想流もまだまだ。
あのジロウに勝てるか!
(勝ちたい!)
稽古だ。
今回だけは、勝ちは二の次で良い!
前回は、ただの腕試しのような稽古だった。
今回は、盗みに行く。
見るのだ。手を出させるのだ。
立ち会いには負けても良い。
何としても多くの手を出させ、少しでも多く盗みに行く。
分かっていても、勝ちたい。
月に刀を向けるマサヒデの後ろに、クレールが座った。
鑑賞や手入れをしている時のような感じがないから、普通に座ってきた。
「マサヒデ様」
「はい」
答えて、刀を納める。
「楽しみですね」
「ええ」
「今回も勝てますか?」
「分かりません。分かりませんが、勝ちたいですね。
しかし、今回は、勝ち負けはどうでも良い」
「稽古だからですね」
「違います。稽古だって、勝ち負けが大事です。
しかし、今回に限っては、勝ち負けは捨てます。
いや、何としても捨てるつもりです。
でも、勝ちたくて勝ちたくて仕方がないんですよ」
「負けても良いんですか?」
「今回の稽古は、盗み合いになります」
「盗み合い?」
「互いの技術を盗み合う・・・盗み合いの勝負です。
学び合いだなんて言う人がいますが、そんな綺麗なものじゃありません。
叩きのめされても、多く盗んだ方が勝ちです。
そういう稽古、そういう勝負になります。
他派との稽古って、本来はそういうものだと考えています」
「それが分かってても、盗み合いじゃなくて、勝ちたいんですね」
「はい」
くす、とクレールが笑う。
「マサヒデ様は、欲張りなんですね!」
「そうですとも。私は欲の塊です。
立ち会いにも、盗み合いにも、両方勝ちたい」
クレールが膝を進めて、ぺったりとマサヒデの背中に張り付く。
「えへへ。これが欲の塊の背中」
「そうですよ。煩悩だらけ。仏様には、さぞ叱られるでしょうね」
「ここに性欲は無いんですか?」
「はあっ!?」
マサヒデが勢い良く振り向いて、クレールが驚いて背中から離れる。
「うわあ!」
クレールが、何だ、と驚いて、目を丸くしている。
「マ、マサヒデ様!? どうしたんですか!?」
「性欲ってなんです!?」
うふ、とクレールが恥ずかしそうに笑い、床の間を見て、腹に手を当てる。
「えへへ。私も早く子供が欲しいです」
ふうっ、とマサヒデが息を吐いて、
「真面目に剣術の話をしている時に、やめて下さいよ。
もうクレールさんは、いたずら心の教えは、皆伝じゃないですか?
完全に虚を突かれましたよ」
「え、そうでしょうか?」
マサヒデは苦笑して、
「ええ。完全に負けましたね。
今のが剣だったら、私は確実に死んでいました。
カオルさんも、シズクさんも、アルマダさんもでしょうね。
後でマツさんに皆伝を頂きましょう」
「皆伝ですか!?」
「新たな教えを授かる事になるでしょうね。
次はどんな教えでしょうか」
「うわあ・・・」
クレールが目を輝かせていると、カオルが鮎を乗せた膳を持って入って来た。
「お待たせ致しました。クレール様、ワインを開けましょう。
すぐにグラスをお持ち致します」
「わあ! 美味しそうですね!」
塩焼きの鮎を見て、クレールの腹が鳴り、マサヒデの腹も鳴った。
くす、とカオルが笑って、台所に引っ込んでいく。