第525話
日が沈みかかった頃。
職人街。船宿・虎徹前。
カオル、シズク、執事が入り口から少し離れて立つ。
「ほう。ここが虎徹」
「はい。お奉行様から教えて頂きました。
味はお奉行様のお墨付き。
クレール様にも、いたくお気に入りなされまして・・・」
くす、とカオルが笑い、
「勢いに乗って、シズクさんと2人で、店の酒を全部呑んでしまいました」
「あはははは! 楽しかったね!」
シズクが大声で笑う。
「ふむ。酒もそれほどですか」
「船宿、という店はご存知で」
「運送をする船が、船を止めておく店。貸船を貸す店もございますな。
本来、食事を出す店ではないはず」
カオルが頷き、
「如何にも。職人街の運送を担い、船頭や荷を取りに来る職人達が集まる。軽い握り飯や酒程度が、段々と味が良くなり、今や味も評判となった店です。ここは立地が良いのですね」
「なるほど」
「では参りましょう」
がらりと戸を開ける。
仕事が終わった職人、船頭が集まって、もう酒を呑み、食っている。
「いらっしゃいませ」
出て来た女将に、カオルが軽く頭を下げる。
「これはこれは。トミヤス様のお弟子様」
ちら。また鬼が来ている。
隣には、上等なスーツを着た男。
男の方を見て、女将が小さな声で、
「あの」
「大丈夫です。今日は程々に致しますので」
「それもありますが、そちらの方は」
ちら、と女将が執事の方に目を向ける。
確かに場違いだ。
「食通の方で、この店の噂を聞いて、是非にと」
「左様でしたか。でも、うちで満足して頂けますでしょうか」
カオルは小さく笑いながら頷いて、
「必ずご満足頂けます。座敷は空いておりますか」
「はい。ご案内致します」
何だ、また鬼だ、と3人に顔を向ける職人達を横目に、奥の座敷に上がる。
3人が座ると、カオルが早速注文を出す。
「こちらの方に、まず軍鶏鍋と酒を。
私は・・・何かおすすめの魚を見繕って下さい。酒は結構です」
「私は天ぷら山盛りと酒! 酒は何でもいいや。適当に見繕ってねー」
「はい。注文承りました。軍鶏鍋と酒。魚。天ぷら山盛りと酒ですね」
女将が下がって行くと、執事がばさりと紙の束とペンを置く。
「それには、やはり味を書くのですか」
こくん、と執事が頷き、
「その通りです」
「へーえ! そんなに沢山!」
執事がお品書きを取って、ぱらりとめくる。
「うむ・・・足りるかどうか・・・
書ききれない分は、後日改めてと致しましょう」
お品書きを見ていると、軍鶏鍋と焼き魚が出て来た。
「お待たせしました。こちら、軍鶏鍋でございます」
「ありがとうございます」
執事が深く頭を下げる。
「こちら、鮎の塩焼きです」
「ありがとうございます」
カオルも軽く頭を下げる。
「お酒はこちらです」
とん、とん、と執事とシズクの前に徳利とお猪口が置かれ、
「わーい!」
シズクが声を上げ、徳利ごと呑もうとしたが、
「シズクさん。店の酒をなくさないように」
「分かってまーす」
「てんぷら、もう少々お待ち下さいませ」
「はいはーい!」
カオルが頭を下げると、女将が下がっていく。
執事が熱々の湯気を上げる軍鶏鍋を見ながら、
「この暑い季節に、この熱い鍋でございますか」
ふ、とカオルが笑って、さらりと窓を開ける。
川から、夕方から夜になりかけの涼しい風が、ゆるりと吹き込む。
さらさらと川の流れる音。
「如何にも。味だけではなく、この風と、川の音をお楽しみ下さい。
ご主人様曰く、これぞ夏の快。これが粋か、と、そう感じたそうです」
「夏の快と、粋。うむ、頂きます」
深く頷いて、執事が箸を運ぶ。
モツを摘んで、ふ、ふ、と静かに吹いて、口に入れる。
ゆっくりと噛んで歯ごたえを確認し、
「むう! これは・・・」
さっとペンをとり、さささささ、と恐ろしい速さで何かを書いていく。
カオルとシズクがにやっと笑って、
「さ、次は酒も合わせてご賞味下さい」
「では、頂きます」
お猪口に酒を注ぎ、肉を摘んで、ふうふうと吹いて、口に入れる。
くいっと酒を煽り、少し止まって、窓の外を見る。
出て来た汗をさっとハンカチで拭うと、緩やかな風が一層涼しく感じる。
すぐ下を流れる川の音が、また涼しさを増していく。
「夏の快! ううむ・・・酒のつまみに良し。おかずにも良し。
そして、この川から吹き込む静かな風と、川の音! これぞ粋!」
「酒は如何でしたか」
執事が深く頷き、
「素晴らしい。三浦酒天のものとはまた違うが、美味。
香り高く、甘い香りが残りますが、嫌らしくなく、丁度良い所で抜けていく。
この軍鶏鍋の味とぴったり合いますな」
さささささ! と執事がペンを走らせ、次の紙にまた書き込んでいく。
ちらりとすごい勢いでペンを走らせる執事を見て、カオルが微笑む。
焼き魚をちみっと摘んで口に入れ、
「私が食べて感じました所・・・」
ぴたりと執事のペンが止まる。
「この鍋の主役は、そのささがきの牛蒡です」
何? と執事がカオルに顔を向ける。
「軍鶏鍋と言いつつ、軍鶏ではない?」
「如何にも。モツと共に、ざくざくと頬張る。
私は、これが正解だと感じました。
そして、もうひとつ。
鍋と言えば定番の白菜がない」
「む! 確かにございませんな!」
「ご覧の通り、具の種類は少ない。肉、牛蒡、焼き豆腐、ねぎ。
鍋は具が多いほど、贅沢で美味しい、という先入観があります。
しかし、食材の味を互いに殺し合うことになりかねません。
もしここに何か加えろと言われれば、私であれば、しらたきのみ」
「ううむ・・・」
「好みにより、春菊もありかと思いますが。
さて、牛蒡をお試し頂けますか。モツと共に」
「頂きましょう」
牛蒡とモツをふうふう吹いて放り込み、もしゃもしゃと執事が口を動かす。
飲み込んで、酒を一口。
「如何」
「見事!」
「ご満足頂けたようで何よりです」
カオルが微笑む。
執事が唸る。
2人が頷くと、丁度、てんぷらを持った女将が襖を開けた。
「天ぷら山盛り。お待たせ致しました」
大きな皿を持ち上げて、シズクの前に置く。
「待ってましたあー!」
ちらりと執事を見て、女将が柔らかく微笑む。
カオルは微笑んだ女将を見て、軽く頷き、
「私にも軍鶏鍋を。味噌で。酒は見繕って頂けますか」
む! と執事の目が見開く。
味噌仕立てもあるのか!
おや、と女将が少し驚いて、にこっと笑い、
「あら。知られてしまいましたか。
流石、トミヤス様のお弟子さん。抜け目の無い事。
うふふ。注文承りました」
女将がにっこり笑って出ていく。
カオルは執事の徳利を取って、
「さ、おひとつ」
「は」
とくり、と執事のお猪口に酒を注ぎ、
「ふふふ。味噌仕立ては、品書きにない品。
常連や、味の分かる方だけに出される、隠された逸品。
表では出されず、座敷でなければ、食べられないのです」
「そのような物まで」
「こういった店には、往々にしてあるものです。
安い町人の店でも、しかと客の目を、いや、舌を見ておられる」
「むう・・・」
執事のお猪口を見て、カオルが微笑む。
「味噌仕立てには、どのような酒がついて参りましょうか」
「む。確かに気になりますな」
「この店は、魚も自慢としております。
ふふふ。覚書の紙が無くなりそうですね」
「いや、全くでございます」
執事が汗を拭くと、ちりん、と風鈴が鳴って、川から涼しげな風が吹き込む。
この風を、執事はさぞ気持ちよく感じているだろう。
シズクがばりばりとてんぷらを食べ「おかわりー!」と大声を出す。