第426話
ぱちっと目が覚めた。
横にはマツがすうすうと眠っている。
暗い。まだ夜だろうか。
頭痛や吐き気、むかつきの類はない。
そっと身体を起こし、枕元の水を取って飲む。
じわりと水が身体に染み込んでいく感覚。乾いている。
少しめくった布団の中から、酒臭い臭いがして、む、と顔をしかめる。
マツの酒か・・・
起き上がって、静かに部屋を出た。
物音をたてないように、静かに廊下を歩く。
もう、廊下が酒臭い。
居間では、シズクだけが大の字になって寝ている。
今回は、クレールはちゃんと部屋で寝ているようだ。
(ふふふ。盛り上がったみたいだな)
台所に入り、水瓶から水をすくって、ゆっくり飲む。
じわじわと水が身体に行き渡る。
部屋からでは分からなかったが、薄ぼんやり明るくなってきている。
もうすぐ日の出だ。
離れた所から、雀の声が小さく聞こえる。
湯呑を洗い場に置き、静かに部屋に戻る。
そーっと練習着に着替え、木刀を持ってくる。
まだ早いが、昨日は身体を動かすな、と止められてしまった。
その分、今日は振らなければ。
ゆっくり、静かに庭に下りて、井戸から水を汲み、顔を洗う。
手拭いを出して顔を拭き、木刀を取って、静かに構える。
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「すうー・・・ふうー・・・」
深く、ゆっくり息を吸ってから、細く、長く吐いて・・・
丹田を膨らませて・・・
しゅ。
カオルは気付いてしまった。
まだ、少し使いこないせていない部分はあった。
しゅ。
だが、元から身に付いている技量が、既に違う。
無願想流の振り方そのものも、カオルが元々持っていたものに近い。
しゅ。
少しでものんびりしていたら、あっという間にマサヒデは抜かされる。
加えて、カオルには忍の技術もある。
しゅ。
もう、総合力はとっくにカオルに負けている。
だが、せめて剣だけは。
しゅ。
剣だけは、誰にも負けたくない。
アルマダにも、カオルにも、シズクにも。
しゅ。
父上。剣聖。武聖。カゲミツ。今は敵わない。
しかし、敵わないから、と投げている訳ではない。
しゅ。
父上にも、いつかは。
いつか、必ず。
しゅ。
老いて動けなくなった父上に勝っても、意味はない。
現役のうちに、勝てるようになりたい。
しゅ。
勝ちたい。
負けたくない。勝つ。
しゅ。
トミヤス流は勝ちが全て。
どんなに汚い手を使っても、勝った方が正義。
しゅ。
マツに道場ごと吹き飛ばしてもらって勝っても、正義。
だが、マサヒデは堂々と立ち会って勝ちたい。
しゅ。
甘い!
だが、俺はこれでいきたい!
しゅ。
自分が「勝った!」と納得出来なければ、それは勝ちではない!
只の自己満足! 只の欲! 俺は欲の塊だ!
しゅ。
欲の塊、大いに結構! 俺はそれで構わない!
俺は求道者ではない! 俺は武術家だ!
しゅ。
勝った先に何がある? 俺は勝っていない! 知るものか!
強くなって何になる? 俺は強くない! 知るものか!
しゅ。
知りたい!
だから勝ちたい!
だから強くなりたい!
しゅ!
全ては勝った後! 全ては強くなった後!
勝たなければ、何も分からない!
だから、勝ちが正義!
しゅ!
トミヤス流は、どんな手を使っても勝てば正義!
ならば、俺は俺の勝ち方で、勝つ!
欲を満たすため、マサヒデは木刀を振る。
身体を動かしているうちに、いつしか無心になって木刀を振るう。
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日が昇り、いつしか庭が明るくなっている。
汗を乱して木刀を振るマサヒデの前に、カオルが立った。
す、とマサヒデは木刀を納め、息を整える。
「おはようございます。ご加減は」
「おはようございます。ご覧の通りです」
「ご主人様。一本、願えますか」
「構いませんよ。分かったら、受けるという約束でしたからね」
「では」
カオルが下段につけた。
マサヒデは無形に剣先を垂らした。
ちちち・・・
雀が、庭木の枝に止まる。
同じような構えの2人が、じっと見つめ合ったまま、動かない。
じりじりと、日が昇ってくる。
「ふぁーい・・・」
シズクが欠伸をかいて、起き上がろうとした瞬間、
「ふ!」「む!」
カオルの木刀が斜め下から上がって、マサヒデの袖を払った。
カオルが振り上げた腕の隙間。
顎の下。
ばらっと払われた袖が垂れる。
マサヒデの木刀の先が、カオルの喉元で止まっている。
「まっ・・・参りました・・・」
「お見事です」
ぱちぱちぱち、とシズクが拍手をして、マサヒデもカオルも木刀を引く。
「おっはよ! 朝からきついのやってるねー」
「ははは! シズクさん、まず湯に行って下さいよ。
また、酒臭いですから」
にやっとシズクが笑い、頬杖をついて、
「ふっふっふー。マサちゃんもね! 自分の臭いに気付いてないな!
マサちゃん、臭うぞおー! 汗から、酒の臭いがぷんぷんしてるぞ!」
「ええっ!?」
「道着の臭い、嗅いでみなよ! 自分でも分かるでしょ?」
がば! と道着の襟を開け、顔を突っ込む。
すん・・・
「う・・・」
夢中になっていて気付かなかったが、まさか自分まで。
家の中が酒臭いせいだと思っていたが、自分もだったのか?
布団をめくった時の酒の臭いは、自分?
「あーっはははは! 昨日、自分がどんだけ呑んだと思ってるのさ!
オオタ様に付き合って呑んでたんだぞ!
真っ昼間から、夕方までずーっと!」
げらげらとシズクが笑いながら、マサヒデを指差す。
「あ! その顔! 酔ってないからって、自覚してなかったなー!
昨日、湯に行ったから、自分じゃないとか思ってたろ!」
図星を着かれ、恥ずかしくなって、かっと顔が赤くなる。
「は、はははは! マサちゃんも湯に行こ! 汗流して、さっぱりしようよ!
マツ様もクレール様も起こして、皆でさ!
その道着、洗濯が大変だー! あはははは!」
くすくすとカオルが笑う。
「・・・」
「ぷくく・・・カオル! 朝飯の用意、頼むよ!」
「ふふふ。ご主人様、洗濯はお任せ下さい」
マサヒデは顔を「ぶん!」と横に振って、
「く、くそっ! 酒なんて、酒なんて嫌いだ! 何なんだ!」
「あーはははー!」
「ふ、ははは!」
カオルまで声を上げて笑い出してしまった。
マサヒデはばさっと道着を放り投げ、足音を荒らげて家の中に入って行った。