第380話
翌早朝。
マサヒデは縁側に座って、庭を見ている。
「どうぞ」
カオルが、す、と湯呑を差し出して、茶を注ぐ。
「どうも」
ず、と口をつけて少しだけ口を濡らし、
「ふう、どうしますかね」
カオルも顔を上げて、庭を眺め、
「おやめになった方が」
「洞窟の中なら濡れませんが」
朝から、さー、と雨が降っている。
ちゃぱちゃぱと音を立て、雨樋から水が流れている。
「ご主人様、山に出来たばかりの穴ですよ。
地滑りなど起こしたら、どうなさるのです」
ふ、とマサヒデは息を吐き、
「そうですよね」
それきり、しばらく2人は無言で雨の庭を眺めた。
「この雨、どのくらい続きますかね?
カオルさんて、そういうの分かりますか?」
カオルはちょっと身を乗り出して空を見上げ、すい、すい、と首を回し、
「2日・・・長くて3日と見ました」
「長くて3日、ですか。
晴れたらすぐ、というわけにはいきませんよね」
「はい。少なくとも、明日までは続くでしょう。
地面にしっかりと雨水が染み込み、洞窟の中は危険かと。
止んでから数日待ち、山が乾いてからの方が良いかと存じます」
「ふう」
マサヒデも空を見上げ、腕を組む。
昨晩、洞窟の奥の穴の謎の現象の話をした時、マツは身を乗り出して、目を輝かせた。まるで子供のように「次は行きます!」と息巻いていたが・・・
「ま、天気は仕方ないって。待つしかないね」
後ろで転がったシズクがひらひらと手を振る。
「ね、マサちゃん。どうせ休みなんだから、研ぎでも見に行ってみたら。
綺麗には研がないんでしょ? そろそろ出来てるんじゃないの?」
マサヒデは首を回して、
「どうですかね? 出来たら、イマイさんが持ってくると思いますが」
「寝刃研ぎであれば、研ぎはもう仕上がっているでしょう。
おそらく鞘待ちかと思います。
ご主人様、鞘の方が、時間が掛かるものですよ」
「ほう? そうなんですか?」
「特に塗りですね。簡単な、目立たない黒塗りの鞘と言っても、何十回も塗っては乾かし、塗っては乾かしの繰り返しです。練習用の適当な物であればともかく、実戦で使う為のまともな鞘であれば、何ヶ月も掛かるのが普通です」
「ええ? そんなに掛かるんですか?」
「そうですとも。あの青貝の鞘を割って、中を掃除して修繕した方が早いかと」
「む・・・ううむ」
「見事な拵えだったではありませんか。
売ってしまうのは、少々勿体ないかと」
「しかし、あれは目立って仕方がありませんよ。
ここに名刀がありますって宣伝しているようなものです」
「あはは! 今更、何言ってるんだか。
マサちゃん、もう世界中に名も顔も売れちゃってるじゃん。
歩いてるだけで、宣伝してるようなもんじゃない」
「イマイさんも、作り直した方が良いって言ってましたよ」
「確かに、その方が良いとは私も思います。
ですが、あと数ヶ月もここに滞在なさるおつもりで?
さすがに、魔王様も待ちくたびれてしまいますよ」
「ううむ、それは確かに・・・
いや、魔王様にとって、数ヶ月など、我々の数日程度の感覚らしいですが」
「ご主人様。それは遅くなっても良い、という理由にはなりません」
「だね。待ち合わせの約束に、2日も3日も遅れて着いたって、誰もいないよ」
ぴしりと2人に叩かれた所で、さら、と奥の襖が開いた。
皆が廊下に目を向けると、マツが起きてきた。
「皆様、おはようございます」
「おはようございます」
「おはようございます、奥方様」
「おはよ!」
3人が挨拶を返すと、マツも縁側に来て、マサヒデの隣に座った。
す、とカオルが湯呑を差し出す。
「ありがとうございます」
マツは雨の庭を見て、溜め息をついた。
「ふう・・・雨ですね」
「ええ」
「このお天気では、やはり今日は行けませんか?」
「ええ」
マツが湯呑を取って、雲を見上げて、ふう、と細く息をついた。
「残念です。早く見たかったのですが」
「まあ、天気には逆らえませんね」
マサヒデも雨の空を見上げる。
カオルも並んで茶を飲みながら、
「時に奥方様。あのおかしな穴の現象は、どういった魔術なのでしょうか」
「普通の魔力溜まりですよ」
「普通の、ですか? 誰も心当たりのない魔術だと仰っておられましたが」
マツは柔らかな笑みを浮かべ、
「うふふ。カオルさん、魔術には、独自の物があるでしょう?
私であれば、物を直したり、砂にしたり、閉じ込めたり。
ラディさんも、とんでもない治癒魔術をお使いに」
「あ・・・という事は、独自の魔術に近いものだと?」
「ううん、ちょっと違います。
知られている魔術の基本にはない、というだけですね。
同じ術を使う方も、どこかにおられるかもしれません。
見つかっていないだけで、同じ魔力溜まりがいくつもあるかもしれませんよ」
「なるほど」
「元々、魔術は今のように分かり易い物ではなかったのです。
一部だけを火や水ように分かりやすく分類してまとめたのが、今の魔術です」
マサヒデが少し驚いて、
「え? 一部だけ、ですか?」
「マサヒデ様、試合の前の稽古でお話ししましたね。
魔術は、基本が出来てしまえば、殆どは数や大小、動かし方の違いだけと。
これ、簡単すぎると思いませんか?」
「む、確かに」
「私は、今回のように広く知られていない魔術は、とても興味深くて・・・
良い術であれば、世に広めたいと考えてはおりますが」
そこで、ちょっとマツが顔を曇らせた。
「砂にしたり、閉じ込めたりするような、特別に危険な術を広めるつもりはありませんけれど・・・安全な・・・例えば物を直す術なんかも、広めるのは難しくて」
「え? 何故です」
「壊れた物をいくらでも直せてしまうなら、職人さん達の仕事が大きく減ってしまうではありませんか」
「ああ、確かに・・・ううむ、難しいんですね」
「そういう訳で、魔術師協会からは許可が出なくて。
これも、正式な魔術としては、世には残らないでしょう。
魔術師協会の、許された一部だけが使える術として残れば良い所です」
カオルも眉を曇らせ、
「既存の魔術でも、十分に危険ですし・・・」
「そういう事ですね」
あ、と、カオルがぽん、と手を叩き、
「おお、そうです。ご主人様、あの鞘、割って中を掃除しましょう!
それから奥方様に直して頂ければ、すぐではありませんか!
柄巻だけで終わりますよ!」
「ええ? まあ、そうですけど・・・」
マサヒデが言い淀む。
「ご主人様、そんなにあの鞘が気に入りませんか?」
「ええ。はっきり言って、嫌です」
「あはは! はっきり言って嫌、ときたね!」
シズクが笑う。
マツが不思議そうな顔で、
「何の鞘です?」
「ああ、そうか。ラディさんの所へ持って行って、そのままイマイさんの所に行ったから、マツさんは見てないんでしたね。コウアンの鞘ですよ」
「あら。そんなに変な鞘なんですか?」
「いえいえ! 奥方様、それは素晴らしく美しい出来でして。
金貨数百枚、いや、それ以上の価値はあろうという業物です」
「そうなんですか?」
カオルがうっとりした顔で、
「それはもう・・・黒い地に、青貝が散りばめられておりまして、青みがあり。
これがまた、陽の光できらきらと輝きまして」
「あら! そんなに綺麗なんですか?」
「あの美しい青みが出るには、それはもう何十年、いや、100年以上はかかるのです。奥方様、ご主人様は、それを気に入らないと仰るのですよ」
マサヒデは首を振って、
「勘違いしないで下さい。綺麗すぎるんですよ。
飾っておくなら良いのですが、差すには派手すぎるんです。
あんなの差してたら、まるで傾奇者じゃないですか」
「ならば、売らずとも飾れば良いではありませんか。
青貝の鞘と言えば、上級貴族や王族の帯刀でしか、お目にかかれない物です。
ご主人様。あの鞘は、手に入れたくても手に入るような物ではないのですよ」
「まあ、それはそうですけど・・・あれを腰に差すのはちょっと」
マツがうきうきしながら、
「マサヒデ様、私、その鞘見てみたいです」
「ううむ、そうですか? じゃあ、今日はイマイさんの所に行きますか。
あの鞘、取りに行ってきますよ。
折角ですから、そこに飾っておきましょうか」
「楽しみにしております」
「ご主人様、私も付いて行ってよろしいでしょうか?
イマイ様のお仕事ぶり、一度拝見したく思います」
「構いませんよ。見学自由、いつでもどうぞって言ってましたし」
「ありがとうございます! では、朝餉としましょう!」
カオルはうきうきしながら、台所に入って行った。