02
馬車に揺られながらこれまでの自分を振り返り、結果、雨が降り出す直前の曇天のようにどんよりと沈み込んだ。指先の感覚はもうわからない。もしかすると、心臓も凍りついてしまったのかもしれない。
『お初にお目にかかります。バイエルン侯爵家が長女、セレスティアと申します』
『……』
思い返せば、わたくしは最初から殿下に嫌われていたのだったわ。だって挨拶も返してもらえなかった。
殿下との婚約が決まったのは、十八歳の誕生日を迎えた少し後のこと。お母様が亡くなって二年、王家から持ち込まれた話だった。お父様がようやく笑顔を取り戻し始めた矢先のことで不安はあったけれど、祖父母の意向もあって我が家は受けることを決めた。
初顔合わせでカーテシーをとったわたくしに、殿下は何も言葉を返してくださらなくて。こぼれそうな大粒の双眸で、じぃっとわたくしを見つめるばかりだった。
今更カーテシーで失敗なんてしない。婚約者と初めて会う場面だったけれど、特に緊張もしていなかった。そう思っていたけれど、慢心だったのでしょう。きっと何か失敗をした。カーテシーが不格好だったのか、あるいは物言いが尊大だったのか。わたくしの何かが淑女として相応しくないもので、殿下はそれに気づいて、だからこそ無言だったのでしょう。
恥ずかしい。何かいけないことをしたはずなのに、何がいけなかったのかわからない。これまで一体、どれだけそんなことを積み重ねてきたのでしょう。
『王宮のお庭は素晴らしいですわね。わたくし花が好きですの。殿下は、どんなものがお好きですか?』
『……』
『、いつか教えていただけると嬉しいですわ』
挨拶を終えて、国王陛下との謁見も済み。あとは二人で、と定番の言葉で庭へと送り出されても、殿下は無言を貫いた。
その日、アルト殿下がしゃべったのは一言だけ。庭を一周して、朝からずっと渋顔を保ったままのお父様とすっかり眉が下がってしまった王妃様の元へ戻ってから。
『お、おしゃべりな女は嫌いだ!』
わたくしはあの時、なんとお返事したのだったかしら。きちんと表情を取り繕えていたかしら。……覚えていない。
まったく、ひどい出会いだわ。人間は第一印象が大切だと聞いていたのに。婚約者との、初めての顔合わせでもらった言葉が『嫌い』だなんて。
「……」
あれから、わたくしはただの一度だって殿下との距離を縮められないまま。気をつけても、改めても、すぐに新しい粗が出てしまう。複数のことに気を配って、満遍なく気をつけることができない。
殿下はいつまでも顰め面のままで、ご機嫌が上向くことなんてほとんどなくて。笑顔を見たことも数える程度しか……見たことあったかしら。
深く、深く息を吐く。己の不甲斐なさで吐きそうだ。
泣き叫んでしまいたいけれど、きっと御者がびっくりしてしまうからできない。ああ、そうだった。わたくしが戻るのを待ってくれていた彼に、まだお礼も言っていない。また一つ、わたくしの駄目なところが浮上した。
「はぁ……」
馬車の速度が落ちる。どうやら着いたらしい。王宮からタウンハウスまで、こんなにすぐだったのね。沈んだ気分が、逃げ出したいと駄々をこねる。
邸に戻って、こんなに落ち込むのは初めてだ。家族に婚約破棄の件を報告しなければならない重圧で、気分はますます沈み込む。底などとうに通り過ぎ、底なし沼のように果ても見えない。
馬車が止まり、御者がいつものように扉を開けてくれる。笑みを浮かべることはできなかったけれど、お礼だけは絞り出した。
一歩一歩がひどく重い。覚束ない足取りで、それでもなんとか玄関までたどり着いた。
「ただいま戻りました……」
血の気が引いた真っ青な顔で、目元ばかりは真っ赤になったわたくしを、お父様も妹達も優しく出迎えてくれた。家族の顔を見たことで無条件にホッとしたらまた少し双眸が濡れたけれど、すぐに泥が足を掴んだ。それどころではないと、ぐっと目に力を込めて堰き止める。
「お姉様、どうなさったの?」
「何がお姉様を悲しませるの?」
気遣ってくれる妹達に支えてもらいながら、お父様と向かい合ってソファーに腰を落ち着ける。……正直、もう吐いてしまいそうなくらい体調が悪いけれど、ぐっと結んだ口を開く。
「お父様、先程……殿下より婚約破棄を告げられました」
「は?」
頭を下げようとしたわたくしの元へ、素っ頓狂な声が三重に飛んできた。
見れば、お父様も妹達も口をぱっくりと開けている。目は今にもこぼれ落ちてしまいそうな程、ぱっちり見開いている。そんなに見張っては目が乾いてしまうのではないかしら。
お父様がぎこちない動きで口を開く。
「で、殿下がそう言ったのかい?」
「はい、申し――」
「お前はそれを受け入れたのかい?」
「……はい、申し――」
今度は深い溜め息が三重に部屋を満たした。心臓がぎゅっと萎んだ。きっと三人とも、わたくしに失望したのだわ。当然よね。
視界の端では、家令が顔を両手で覆ってしまっている。日頃、どんなことが起こっても動揺を顔に出さない、大抵のことでは眉一つ動かさない彼がここまでがっかりするなんて。申し訳なくて肩を縮こませる。
「理由は!?」
ハッと顔を上げたレイラの鋭い声に、シェリルも続いて顔を上げ、わたくしの肩を、ぐわっし、と掴んだ。
「そうよお姉様! 殿下は何と言ってお姉様を捨てたの!?」
捨てた、なんて。そんなにはっきり言わないで、シェリル。事実、捨てられてしまったけれど、手続きはまだなのだから。
三女のシェリルは感受性が豊かで、感情に素直な愛らしい乙女に育った。社交の場ではきちんと淑女の仮面を被れる器用さもある、とても素敵な自慢の妹。でも言葉選びにちょっぴり容赦がない。
お父様譲りの銀髪はお母様の血と混ざって、わずかに青みがかっている。癖っ毛なのもお母様そっくり。群青の双眸は深い海の底のように澄んで美しい。こちらは完全にお母様の血だ。深緑を煮詰めたようなわたくしの双眸とは大違い。
笑うと花が咲くよう。婚約者はまだ決まっていないけれど、多くの家からお話をいただいていると聞く。わたくしの分まで幸せになってもらいたいわ。
「至らないわたくしがいけないの。問わねばわからない鈍さに、殿下は大層お怒りのご様子だったもの。きっとまた、わたくしが知らずにいけないことをしてしまったのだわ」
いつも殿下を怒らせてしまう。けれど、一度として己の失態に気づけたことはない。殿下に叱られて初めて、今の自分がいけなかったのだとハッとする。なんて情けない。
改めても結局は、そればかりに気を取られて別のところで失敗する。
『お前の妹は華やかだな、美しい。それに比べて、なんと地味な女だろう』
体温があまり高くないわたくしの肌はとにかく白い。混じりけのない銀髪も合わさって、明るい色のお化粧は素の色との差がくっきり出てしまうせいで品がない。シェリルの赤い口紅を貸してもらったこともあったけれど、口ばかりが目立って、他が霞んでしまって目も当てられなかった。化粧は自然と薄くなるし、ドレスの色も寒色系や淡い色合いのものを選ぶことが多い。妹達と並べば必然、地味で目立たない。
「お姉様……」
悲痛な声で、レイラが肩を抱いてくれる。次女のレイラは聡明で優しい素敵な乙女に育った。社交の場では相手を立てられる、とても愛らしい自慢の妹。でも表情はちょっぴり素直に感情を浮かべてしまう。
お母様の血を濃く反映した青の混じる銀髪は緩やかに波打ち、群青の双眸はシェリル同様、澄んでいて美しい。凛とした佇まいは一見とっつきにくいように感じるけれど、笑顔がとっても愛らしくて、おしゃべりはとっても楽しい。婚約者とは仲睦まじく愛を育んでいるようで、このまま問題なく結婚までいくでしょう。幸せになってほしいわ。
『お前の妹はそつなく話も上手いな、素晴らしい。それに比べて、なんと鈍い女だろう』
女性同士のおしゃべりならば辛うじてついて行けるわたくしだけれど、殿方の好む話題にはてんで疎い。殿下を楽しませて差し上げられるような話題を振れたことはなく、かといって政治に関することは知識として持っているべきではあっても、女が語ることではないと叱られたことがある。
レイラが普段、婚約者とどんなお話をしているのか聞いてみたこともあるけれど、殿下の好みではなかったので口を噤んだ。わたくしの未熟な話術では、知識をひけらかしているようにしか伝わらない。如才ない妹達と比べれば当然、拙く鈍いと劣って見える。
「セレスティア、とにかく今は休みなさい」
眉間を揉み解しているお父様が、それでも柔らかな声音で言葉をかけてくれる。
お母様が亡くなってからというもの、すっかり元気を失くしてしまったお父様。少しでも心労を減らして差し上げたいのに、わたくしはむしろ心労を積み重ねるばかり。申し訳なくて、まともに視線を交わせない。
「後始末は私に任せなさい。お前は何も心配しなくていい」
艶やかだった銀髪は、積み重なった心労のせいかわずかに灰が混じるようになった。鮮やかだった緑の双眸からは、宝石のようだった輝きが失われ、わたくしの濁緑の色に寄ってしまった。
凛々しく怜悧なお父様を陰らせてしまった罪悪感で胸が締まる。猛々しかったかつての面影は見る影もない。わたくしのせいで……。
「お嬢様、」
控えていた家令に促され、立ち上がる。
「申し訳ありません、お父様」
いいんだ、と優しい言葉をくれたお父様の声には、疲労が色濃く滲んでいた。
◇
家令に付き添われ自室へ戻る。
「お嬢様、あまりご自分を責めてはなりませんよ」
深く柔らかな声が傷口を優しく包んでくれる。けれど、頷くには自分があまりに情けなくて、曖昧に笑むことしかできない。
家令のブリッツは、普段と同じようにピンと背筋を伸ばしたまま、けれど普段よりうんとゆっくり歩いてくれている。支えとして差し出してくれた腕は髪に白髪が混じるようになっても衰えず、背に添えられた手は昔から変わらず温かい。
幼い頃、わたくし達三姉妹が悪戯をすると、真っ先に彼が叱ってくれた。その後でお母様とお父様のところへ抱えて行って、お説教の間もずっと怖い顔をして。けれどそれが済むと、お父様にゲンコツを落とされて泣いているわたくし達を連れ出して、いつもチョコレートをくれた。
厳しくて、けれどそれ以上に優しいブリッツが、わたくし達に善悪の線引きを教えてくれた。それなのにどうしてか、彼は今のわたくしを叱ってくれない。手遅れだとでも言うのでしょうか。叱る気も起きない程、呆れられてしまったのかしら。だからこんなにも、ただ優しいのかしら。
考えれば考える程、深みにはまる。
言葉の一つも見つからなくて口を噤む。ブリッツもこれ以上は何も言わず、自室へ着いても沈黙が破られることはなかった。
部屋では侍女のスーがハーブティーを用意してくれていた。促されるままソファーに深く身を沈め、温かいハーブティーで口を湿らせる。思っていたより喉が渇いていたらしい。味わう余裕もなくカップを干す。ホッと吐き出したつもりの息は、重々しい溜め息となって口から流れ出た。
婚約破棄、婚約破棄……。アルト殿下の冷たい双眸を思い出し、身が竦む。肩を震わせたのを寒さのせいだと思ったのでしょう、スーがカーディガンをかけてくれた。
お礼を言おうと振り返った際、視界の端を淡い青がかすめた。ブリッツが何かを持って部屋を出ようとしている。表情が険しい。
「あら……そんなお花、部屋にあったかしら?」
わたくしの言葉でぎょっとして静止したブリッツは、わずかな時間、視線を泳がせて。けれど結局は諦めたようにこちらへ歩み寄った。彼がこんなに動揺するなんて、変だわ。
小さな五枚の花弁をした花だった。コップに、ちょこんと挿してある。咲いている花は主軸のものだけだ。横枝が残っているところを見ると、他は摘んでしまったのか、枯れてしまったのか。
見覚えはなく、名前も知らない。
途端にスーが、しまった、とでも言うように顔を顰めた。
「摘んできてくれたの?」
言ってから、そうではないと気づいた。明らかに、ブリッツは部屋から持ち出そうとしている。水を新しいものにするにしては、二人の様子がおかしい。
「お、お嬢様が摘んでいらっしゃったものです」
首を傾げるわたくしから目を逸らしながら、ブリッツが渋々といった風に教えてくれた。
「わたくしが……?」
そうだったかしら。覚えていない。
我が家のお庭には、お母様が愛したたくさんのお花が咲いている。庭師が丁寧に世話をしてくれているおかげで、毎年、変わらず美しい姿を見せてくれる。タウンハウスに飾っているお花はどれも、本邸から持ってきたものだ。その中の一輪かもしれない。けれどわたくしには見覚えのないお花だし、摘んできたという記憶もない。
「綺麗なお花ね」
「……そ、そうですね。ですがお嬢様、毒を含んだ花でもあります。どうぞお手を触れませんように」
ブリッツの言葉に、スーが苦しげに眉根を寄せた。わたくしが摘んできた、と言っていたし、心配させてしまったのかもしれない。……どうして思い出せないのかしら。
「そうなのね。気をつけるわ」
謝罪を口にすると、スーはますます苦しそうに顔を伏せてしまう。お茶の用意をする、と言ってそそくさと部屋を出て行ってしまった。ブリッツも後を追う。
テーブルの上で湯気を立てているお茶に視線を落とす。出来の悪いわたくしを支え、寄り添ってくれる優しい侍女であったのに。あんな風に、この場にいることを苦しく思っているような表情は見たことがない。わたくしが、そう思わせてしまった。
「……はぁ」
わからない、知らない、覚えていない。
こうもぼんやりと生きているのでは、皆が嫌になってしまうのも頷ける。わたくしだって、わたくしのことが嫌でしかたない。
根暗で卑屈、おどおどした態度が気に食わない。顔合わせを済ませて間もない頃から度々アルト殿下から指摘されていたことだけれど、最近では言われなくなった。言っても無駄、と婚約者に思わせてしまう程、至らない己が恨めしい。初めの頃こそ、刺すようなアルト殿下の言葉の数々に傷ついて落ち込んでいたけれど、何度も繰り返されるうち申し訳なさの方が勝ってしまった。わたくしだって、こんな自分が嫌いだ。
抱えて生まれてこられたのは魔法の才ばかり。あとは全部、お母様のお腹の中に置き忘れてしまった。結果として素晴らしい妹達がしっかり抱えて生まれて来てくれたのだから不満はないけれど、劣る自分への失望ばかりはどうしようもない。
唯一の取り柄である魔法の才だって、わたくし一人で抱えていたって意味はないのだ。
バイエルン侯爵家は多くの魔法使いを輩出する家系である。中でも、魔力の乏しい民の生活を支える魔石に特定の魔法を込める技術は、バイエルン侯爵家独自のもの。数代前から広く門戸を開くようになり、技術の独占をしなくなったとはいえ、自在に操れる魔法使いはまだ少ない。
「お母様……」
繊細な魔法操作を要求されるバイエルン家の魔法使いは、その反動なのか総じて寿命が短い。
一縷の狂いもなく特定の魔法を込める技術はまさに、命を削りながらの作業と言っても過言ではなかった。長きに渡る研鑽と、多くの知恵者と積み重ねた努力の結果、今ではそれほどの負荷なく行使できるように技術向上をしてきたものの、依然、我が家の寿命は平均よりも短いままだ。
少しでも長く生きて、少しでも多くの技術を世に広め、救える限りの人を助けたい。
お父様とお母様の婚姻は、そんな願いの元に叶えられたもので。わたくしとアルト殿下の婚姻は、王家と侯爵家のより深い結びつきにより、バイエルン家の技術をより多くのより優秀な魔法使いと共有したいという願いのためにあった。
にもかかわらず、至らぬわたくしのせいで台無しだ。
ごめんなさい、お父様。ごめんなさい、お母様。
凍える冬を乗り切るための火の魔石を。干ばつや日照りを乗り切るための水の魔石を。暗がりを照らす光の魔石を。
より高度なより強力な魔法にも耐えうる魔石の発掘や、より簡単な魔石の使用方法の開発。やるべきことならいくらだって思いつく。そのために、王家による資金援助と、優秀な人材の斡旋は必須だった。侯爵家だけで賄うには限界のあるそれらを、王家が支えてくれたら。
吐き出す溜め息はますます重いものとなる。
「……消えてしまいたい」
情けなくて、恥ずかしくて。いっそ消えてしまって、わたくしの失態も何もかも全て、なかったことにできたなら。
変えることのできない過去の過ちに吐き気がする。熱くなった目頭を誤魔化すために、わたくしはきつく目を閉じた。