01
「セレスティア・バイエルン、貴様との婚約を破棄する」
呼び出された王宮内の一室に、鋭い声が突き刺さった。
めったに人の立ち入らない奥まった位置にあるこの部屋は、婚約して以来、初めて通される場所だった。なるほど確かに、外に漏らしたい話ではないと納得する。
向かいのソファーに座る婚約者の紺碧の双眸は怒りに燃え、声は痛い程に尖っている。直毛であるはずの黄金色の髪すら怒りに波打ち逆立っているようで、どうやら、とても腹を立てているらしい。誰に?
当然、わたくしに対してでしょう。だって先程からずっと、逸れることなく睨め据えられている。憎悪、ともすると殺意と言っていいかもしれない程の激情がそこにはあった。
破棄、婚約破棄……婚約を、破棄する。
ゆっくり、ゆっくり言葉を噛み砕く。今、わたくしは婚約を破棄すると宣言されたのだわ。
アルト・ハインリヒ様。
シャウソー王国の六人いる王子の三番目。妾妃の子でありながら、第一王子にも劣らないと噂される程の才覚をお持ちでいらっしゃる。特に剣の腕前は、六人兄弟の中で一番だと宮廷貴族達の間でも評判だ。
母親によく似た華やかな容姿で、女性からの人気も高い。父親である国王陛下譲りの聡明さは、人気の上昇に拍車をかける。……ただちょっと、ほんの少しだけ、他者へ投げる言葉のボールに勢いがつきすぎるきらいがある。致命的ではないけれど、人の笑顔を微苦笑へ変えてしまうことが何度かあった。
「理由を、お尋ねしてもよろしいでしょうか?」
震えそうになる喉を叱咤して紡いだ言葉だったけれど、殿下は鼻で笑い飛ばした。
「言わねばわからぬ、そういうところが駄目なのだ」
駄目、という言葉に身が竦んだ。これまで幾度となく投げつけられたそれは、容易くわたくしの心臓を潰す。
バイエルン侯爵家の長女として生を受けたわたくしは、無駄に魔力を内包するばかりの木偶の坊。礼儀作法もマナーも、同じように学んだ妹達はわたくしの半分の時間で身に着けた。知識や教養だってそう。妹達はやはり、わたくしの半分の期間で終了を告げられた。
唯一、魔法の才だけは辛うじて妹達を凌いだようで、そればかりがわたくしを姉として首の皮一枚、繋ぎとめている。しかし所詮は皮一枚。
明るいドレスも華やかなお化粧も似合わない質素な顔立ちで、姉妹で並ぶとわたくし一人が霞んでしまう。
才能でも容姿でも妹達に劣るわたくしを、それでも妻に、と求めてくださった王家に何一つお返しできないまま、婚約破棄を告げられてしまった。
「……申し訳ございません」
なんと、お詫び申し上げればよろしいのでしょう。
これまで幾度となくお叱りを受け、その度に改善しようと努めてきたけれど、至らぬわたくしは殿下を怒らせるばかりだった。挙句、婚約の継続を拒まれる程の失望を押しつけてしまったなんて。
「わたくしの不徳が殿下のご不快を招き――」
「やめろ、鬱陶しい」
頭を下げ切る前に、言葉を遮られてしまう。
顔から血の気が引いたのが自分でわかった。指先からは感覚が失せる程に冷たさが忍び寄る。潰れた心臓がそれでも懸命に跳ね回り、歪な音を立てている。
鬱陶しい。
それは殿下が最上級にお怒りの際に投げる言葉だ。一刻も早く視界から消えて、ご不快を緩和して差し上げなければ。
「至急、邸へ戻り、婚約解消の手続きを――」
「破棄だ」
「婚約破棄の手続きを始めます」
殿下からは返事もない。大変にお怒りだ。それほどに、わたくしのことが不快なのだわ。
震える足を叱咤して、なんとか立ち上がり礼を示す。殿下が鋭く息を吸う音が聞こえたけれど、顔を上げることはできないまま、急いで退室した。
走り出したい気持ちをぐっと堪え歩を進める。王宮の廊下とはこんなにも長いものだったかしら。急く気持ちがおかしな思考を呼び出した。
軽く頭を振って追い出し、外に停めた馬車を目指してひた歩く。
ごめんなさい、お父様。ごめんなさい、お母様。
うつむいていたのがいけなかったのでしょう。角を曲がる際、不意にどなたかとぶつかってしまった。
「も、申し訳ありません、わたくし……」
ハッとして顔を上げると、急なことで驚いたらしい近衛兵が一人、ふらついて壁に手をついていた。
「わたくしったら、余所見を……」
「い、いえ……私の方こそ申し訳ございません、不注意でし……」
視線が交錯し、気づく。
彼とは度々、廊下で会ったことがある。案内も警護も付けずに王宮内を歩き回るわたくしを心配して、顔を合わせると必ず付き添ってくれる優しい方だ。……本当は王妃様お付きの人間らしいのだけれど、口にするのは野暮でしょう。わたくしだって、それくらいの慎ましさはある。
「お久し振りです」
「レディ・セレスティア、よく会いますね。本日はどちらへ?」
背筋を伸ばし笑んだ彼の言葉で、先程まで抱いていた泥のような気分をしばし忘れていたことに気づく。途端に沈みそうになった表情をぐっと引き締め、笑みを貼りつける。不出来な仮面かもしれないけれど、少なくとも口角は持ち上がった。
「……き、今日はもうお暇しますの。馬車まではもうすぐですから、お構いなく、お仕事を続けてくださいな」
嘘は言っていない。あとは少し先の扉から外に出て、それからは道なりにまっすぐだ。距離もそう遠くはない。
しかし彼は、わたくしの言葉を受けて眉を顰めた。
「いけません。王子妃になられるお方を一人で帰らせたなどと、私が叱られます」
誠実で、堅実な方だと思う。切にわたくしの身を案じてくれている。けれど、そんな必要はもうない。これまでだってなかったけれど、これからは絶対にない。
だってわたくしはもう、アルト殿下の妻にはならないんだもの。殿下に望まれた女性にもなれず、王家に求められた才を発揮する機会もなく。もう要らない、と捨てられてしまうんだもの。くしゃり、と潰れた気持ちが言葉を阻む。
わたくしの下がった眉を見て、ただ遠慮をしただけと受け取ったのでしょう。そう頻繁に会う方ではないけれど、多くない遭遇で彼はすっかりわたくしの癖を見抜いてしまった。力強く笑んだ彼はいつものように横に並んで、行きましょう、と歩き出してしまう。
ただの侯爵家の娘でしかなくなったわたくしは、近衛兵に付き添って守ってもらう価値などないのに。言い出せないまま、連れ立って歩く。
「今日は随分と早いお帰りですね。何かありましたか?」
彼はいつも、道中の沈黙が気まずくないよう、気を遣って話題を振ってくれる。
淑女として、わたくしこそ、おしゃべりで殿方を楽しませるべきなのに。こんなところも至らなくて、今日は普段よりもずっと深く落ち込んでしまう。崩れた笑みを見られたくなくて、うつむいて顔を隠した。
「急ぎの用ができましたの。せっかく時間を作っていただいたのに、殿下には申し訳ないことをしましたわ」
本当のことを言うわけにもいかず、曖昧に濁す。急ぎの用ができたのも、殿下に申し訳ないのも本当だから、完全な嘘ではないと自分を誤魔化した。
「そうでしたか」
彼の気遣わしげな声音に、うつむいたのは失敗だったと気づくも遅い。殿下への罪悪感は確かにあるけれど、わかりやすく表に出すような仕草は控えるべきだった。
きっと、殿下はきっと、わたくしのこういうところが嫌だったのね。そんなこと、思い知りたくはなかった。
「落ち込んでいらっしゃるように見えましたので、殿下と喧嘩でもなさったのかと。失礼いたしました」
きっと彼の眉も下がってしまった。わかっているにも関わらず、喉の奥で絡まった言葉が引っかかって、なかなか滑り出てこない。
「……い、いいえ」
ようやく出てきた言葉は簡素で、なのにとてもぎこちなくなった。あんまりにも、びっくりしてしまって。
殿下と喧嘩だなんてそんなこと、これまで一度だってしたことはない。
わたくしが落ち込んで見えるだけで喧嘩した可能性を浮かべるなんて。夫婦になる二人というのは、日常的に喧嘩をするものなのかしら。……そういえば、お父様もよくお母様と喧嘩をしていた気がする。でもあれは、お父様が悪戯してお母様に叱られていただけのようにも見えた。
わからない。
両親は一般的な夫婦とは少しだけ違っていたし、わたくしは殿下と夫婦になる自覚があまりに足りなかった。至らぬ点を改善もできないまま、殿下の機嫌を損ねてばかりだったもの。
殿下と婚約して、次の春で五年目を迎える。それだけの時間を婚約者という関係で過ごしても、わたくし達の間には恋心の一つも芽生えなかった。
愛したかった。愛されたかった。けれどそれは、叶わなかった。
愛するよりも、自身を省み改めることに忙しくて。殿下に愛していただくには、わたくしはあまりにお粗末で。
「レディ? 大丈夫ですか? もしやご気分が優れないのでは?」
ハッとする。すっかり考え込んでしまったようで、少し先に立っていた彼が振り返っていた。歩くことすら止めてしまっていたなんて。一人で歩いていたわけではないのに、相手のことを放り出してしまった。
ああ、もうわたくしったら……。自分が嫌になる。これまで嫌になるくらいそう思ったけれど、今日はどうにかなってしまいそうなほど強く思った。
嫌い、嫌い大嫌い! わたくしはわたくしのことが、心の底から大嫌いだ!
「……い、いいえ! 問題ありませんわ。すみません、急ぎますので失礼いたします。送ってくださってありがとうございました!」
これ以上はまともにお返事できる気がしなくて、振り切るつもりで出した声は思ったよりずっと大きくなってしまった。目を丸くする彼を視界の隅に捉えながらも、わたくしはそそくさとその場から逃げ出す。
情けなさで胸が詰まった。
熱くなる目頭を引き締めるために、随分と険しい顔をしていた気がする。出迎えてくれた御者が、ぎょっとして瞠目したけれど、わたくしは無視して馬車に乗り込んだ。
恥ずかしい。
恥ずかしい、恥ずかしい。わたくしは、わたくしのことが恥ずかしくてしかたない。
「ごめんなさい」
浮かぶ謝罪はこれまで幾度となく口にして、けれど数が減ることはなかった。そんなことも恥ずかしくて、目から何もこぼさないよう、わたくしはきつく瞼を閉じた。