上杉綱憲の影
(・・・これはいかん・・・)
佐久間源八は焦りを隠せなかった。
寺坂吉右衛門を追い続けて早十五年が経過していた。
既に源八の主君、上杉綱憲はいない。
君命を果たし亡き殿の墓前に吉右衛門の首を供える。
そう誓っていた。
同行する相馬甚兵衛、宍戸小平次も同様である。
・・・ある意味、上杉綱憲に忠誠を誓っていたのはこの三名を残すのみであった。
「何たることじゃ!」
赤穂浪士が吉良邸に討ち入ったと一報を受けた時、上杉綱憲は激怒した。
だが同じく一報を受けた遠縁の畠山義寧の説得により援軍を送る事は果たせずに終わる。
そしてその後の幕府の沙汰には憤慨しきりであった。
吉良家は領地召し上げ、吉良家当主であり綱憲の実子吉良義周は諏訪藩お預け。
赤穂浪士は切腹であった。
不満であったがこれだけで終わらない。
世間の評判は赤穂浪士を称揚する事しきりであったからである。
これに対し上杉家の評判はと言えばどうか。
援軍を出せず結果的に手をこまねいていた上杉綱憲は親不孝者よと笑われるようになっていた。
しかも家臣の中に吉良家へ同情する雰囲気がまるでない。
厄介者が片付いたと言わんばかりの有様であり、それが綱憲にも感じ取れる程であったのだ。
綱憲は失意のうちに元禄十六年には隠居する事になる。
赤穂浪士の吉良邸討ち入りから一年も経過していなかった。
病を得ての隠居であったが、悔恨の念は恨みへとなり、自らの命をも削っていたのかもしれない。
そして今際の際に家臣の佐久間源八、相馬甚兵衛、そして宍戸小平次に託した。
赤穂の者共赦すべからず、と。
奉行所によれば吉良邸に討ち入った者共は皆、切腹して果てたという。
だが綱憲は信じなかった。
信じたくなかった。
密かに探索の手の者を放ち、四十七士のうちまだ生きている者を見出していた。
それが寺坂吉右衛門である。
何故、生きたままでいるのか?
足軽が討ち入りに参加していたのを恥とでも思ったか?
何か他の密命を帯びていたのか?
その実、命を惜しんで逃げたのか?
そもそも幕府は何故、捕縛しないのか?
その理由など綱憲にはどうでもよかった。
ただただ、口惜しかった。
実父を討った者がまだ、生き残っている。
その一念だけであった。
既に隠居の身であった綱憲の意を汲む者は僅かであった。
佐久間源八、相馬甚兵衛、宍戸小平次、この三名のみである。
寺坂吉右衛門を討つ。
彼等は綱憲が亡くなっても尚、君命を果たすべく肥後国まで来ていたのだが・・・
吉右衛門の足跡を見失っていた。
水俣で千載一遇の好機を得、討ち取る寸前であったが見失ってしまった。
薩摩国の境まで追い込んだはいいが森に逃げ込まれたのだ。
甚兵衛が一太刀浴びせていたが手応えは浅かったという。
吉右衛門の行方はその後、杳として知れない。
調べようがなかった。
水俣で何度も聞かされていたのは薩摩との国境の警備の厳しさである。
余りにも危険であった。
(・・・聞き及んでいたがこれ程とは・・・)
聞けば聞く程に厄介であった。
関所を通るには手形が要る。
その手形を得るのが余りにも難儀であった。
薩摩藩江戸屋敷で入手するしかない。
それも御用商人でもなければ入手は困難だろう。
いや、手形があったとしても刀を所持したまま通過するのは至難である。
かと言って関所を避けて密入国をするのも危険であった。
「薩摩との国境、矢筈の山には薩摩の鬼が棲んでおるんじゃ」
「・・・鬼とな?」
「諦めなされ。薩摩に行かれるのは無謀というものじゃ」
そう宿の主人に言われはしたものの源八一行は諦められなかった。
いや、諦める訳にいかなかったのである。