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最後の四十七士  作者: ロッド
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上杉家

 米沢藩、上杉家は武家の名門である。

 遡れば戦国時代、越後の虎とも称された上杉謙信に繋がる。

 その謙信から上杉家を継いだ景勝は慶長三年に太閤秀吉の命で越後から会津に転封された。

 この時点で百二十万石。

 だが慶長六年には関ヶ原合戦後に米沢三十万石に減封となる。

 当時の上杉家は徳川家に対抗すべき戦力を維持したまま減封を受け入れていた。

 即ち百二十万石規模の家臣団を全て抱えたままであった。

 景勝に仕えた直江兼続は徹底的な支出削減を行い、同時に五十万石規模の実収入を実現する。

 それでも尚、厳しい財政であった。

 その後、藩主は定勝、綱勝と移り変わり、事件が起きた。

 綱勝が嗣子(しし)がないまま急死したのである。


 綱勝の岳父である保科正之が尽力した結果、吉良義央の長男が跡継ぎとなり存続を許された。

 その母は上杉綱勝の妹であった。

 これが後の綱憲であるが、上杉家当主となったのは二歳の時である。

 ただこれは末期養子による相続であったために米沢藩は減封となり十五万石となった。

 財政悪化が更に進むのは避けがたい事態となる。

 そして月日は流れ、綱憲は次男を実父・吉良義央の養子とした。

 これが後の吉良義周である。

 上杉綱憲の実家である吉良家に後継者がいなくなっていたからである。

 こういった経緯もあり上杉家と吉良家の関係はより堅蜜となっていった。


 その結果、何が起きたのか?

 吉良家の普請や商人への借金の肩代わりを上杉家が行うようになっていたのである。

 これらとは別に上杉家は吉良家に毎年多額の財政援助を行っていた。

 財政が逼迫している上杉家が、である。

 吉良家は一万石に満たないが先祖を辿れば足利宗家継承権を持っていた程の名家である。

 そして吉良義央は高家衆筆頭でもあった。

 吉良家の財政状況は上杉家以上に厳しいものであった。

 上杉家の援助がなければ早々に破綻していた筈である。

 そんな状況であっても吉良義央は支出を抑えることはなかった。

 それは上杉綱憲も同様であった。

 質素倹約を強いられた上杉家の家臣領民から見たら腹に据えかねる状況であったのだ。


 そして赤穂浪士の吉良邸討ち入り。

 赤穂浪士への切腹の沙汰と同時に吉良義周は領地召し上げとなり信濃諏訪藩お預けとなった。

 宝永三年に義周は死去、吉良家は断絶となっている。

 上杉家の家臣達にしてみれば安堵した者が多かったであろう。

 上杉家の負担が減ったのは間違いない出来事であった。

 それでも尚、上杉家の財政逼迫は続く。

 上杉治憲(鷹山)の登場を待たねばならなかったのである。


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