薩摩国出水郷
薩摩国は江戸時代を通して島津家の領地であり続けた。
そのうち出水郷は薩摩国と肥後国の国境にあり、警備態勢は厳重なものであった。
元々、出水郷は薩州島津家が出水五万石を所領していた。
だが七代目当主忠辰は文禄の役にて主君筋である島津義弘と対立。
これは薩州島津家が血筋的に当時の島津宗家と同格という自負があったからなのかもしれない。
忠辰は文禄の役で海を渡ったものの病気と称して上陸しなかった。
結果的に太閤秀吉の命に背く形となり薩州島津家は改易。
出水五万石は天領扱いになり細川藤孝と石田三成に預けられた。
その後、慶長の役の戦功により出水五万石は島津宗家所領となる。
出水郷の地頭は本田正親、樺山久高、山田昌巌が歴任した。
この間、樺山久高は琉球出兵の総大将を務めており、山田昌巌は島原の乱平定に参加している。
後年に出水兵児で有名になるのだが、これは山田昌巌による。
出水兵児修養掟を定めたのが山田昌巌であるからだ。
しかしそれ以前から本田正親も樺山久高も薩摩各地よりこれはと思う武士を集め、軍の編成を行っている。
理由は単純、出水郷は薩摩国の国境にあり要衝であったからである。
現在の出水市と水俣市は国道が通っており不便を感じる事はない。
だが当時、通れる道は薩摩街道出水筋のみである。
間道も複数あったがいずれも猟師が使うような代物で獣道同然であった。
しかもこの薩摩街道出水筋、水俣から出水に抜ける道は非常に険しかった。
人一人、馬一頭が離合するのがやっとの細道であり、山道でもあった。
時は太閤秀吉の九州征伐の頃。
島津忠辰は秀吉の大軍を前に高田(現在の八代市)の陣を引き払い出水郷に撤退した。
前述の通り薩摩と肥後の国境の薩摩街道出水筋は険しく大軍が通過する事は至難であった。
地の利を活かして防御に徹すれば大軍が相手であっても長期間の防衛は可能であっただろう。
だが、太閤秀吉は更に上手であった。
薩摩国は浄土真宗信徒が多く、その協力を取り付ける事に成功していたのである。
秀吉軍の先鋒は陸路の難所を避け、海路で出水郷の背後を衝いた。
これを機に忠辰は降伏する事となる。
出水郷はその後、江戸時代になってより重要性を増している。
島津家は江戸時代を通じて極度に厳重と言える国境警備体制を敷いていた。
薩摩街道出水筋の野間の関。
薩摩街道大口筋の小川内の関。
薩摩街道高岡筋の去川の関。
他にも八郎ヶ原、夏井、求麻口、紙屋、梶山、寺柱に関所を設けている。
これらに加え百箇所に及ぶ辺路番所、津口番所を設置し、不穏な者の侵入と薩摩領民の出奔を監視した。
理由は単純、薩摩藩は琉球、唐との密貿易をしていたからである。
密貿易の証拠を握られてしまうのは薩摩藩にとっては死活問題であった。
江戸時代を通じて薩摩藩の財政は厳しい状況が続く。
幕府からの命令で様々な課役にも従わなければならなかった。
特産物としてタバコ、そしてサツマイモの栽培を推進したがそれでも苦しかったのだ。
琉球、唐との密貿易がなければその財政は破綻していたであろう。
江戸時代中期以降に灌漑事業がある程度進み、財政的な助けにはなっている。
それでも薩摩藩の領地は地質的に火山灰土壌で水源の確保が難しく不毛の地が多かったのである。
出水郷はそんな中でも比較的恵まれていた。
それでも水資源の確保は急務であり、五万石溝と呼ばれる用水路が建設された。
米ノ津川の上流、下平野に井堰を設け、そこから山麓を迂回する形で用水路が海岸まで延びていた。
その建設は薩摩藩第四代当主島津吉貴の命であったという。
出水郷は重要な防衛拠点であるのと同時に薩摩の経済基盤の一角を占めていたのである。
薩摩びと いかにやいかに 刈萱の
関もとざさぬ 御世とは知らずや
これは寛政年間の三大奇人の一人、高山彦九郎が書き残した即興の和歌である。
刈萱とは筑前国黒田藩、太宰府の関所であり、当時は関所として機能しておらず有名無実化していた。
時代が移り変わり各所の関所も自由に通れるのを知らないのか、という意味である。
尊皇思想家であった彼は九州各地を放浪し薩摩藩を頼ろうとする。
野間の関で三週間もの長きに亘って粘り一旦は入国を許可されたが結局は退けられてしまっている。
江戸時代も中期以降、諸藩の関所等による国境警備は緩くなっていく。
しかし薩摩藩は全く緩む事がなかった。
江戸時代後期には歴史学者の頼山陽が入国しようとするのだが、やはり大変な苦労をしている。
桜田門外の変に参加した薩摩藩士、有村次左衛門の兄である有村雄助は野間の関の外で切腹した。
これは幕府の役人を薩摩国に入れない為のものであり、首実検は関所の外で行われた。
それ程までに徹底されていたのである。
この野間の関からやや国境寄りに切通という地名が残されている。
日本各地の切通の地名は山を削り道を通した事に由来すると思われるが、ここは違う。
切るか、通るか。
これが由来となっている。
凄まじいまでの警備が為されていた証左と言えるだろう。
この関所の警備は明治になっても尚、全く緩む事がなかった。
明治四年の廃藩置県により出水郷の国境警備の役割はようやく終わりを告げる事になる。