針原の森
(・・・ここは、どこなのか・・・)
吉右衛門は森の中を彷徨っていた。
満月は中天にあり煌々と大地を照らしていた筈だ。
しかし吉右衛門がいるのは森の中であった。
街道を逸れて谷沿いに逃げた結果、道を見失ってしまっていた。
(・・・無駄に死んではならぬ・・・)
息を整え、川の水を口に含む。
健脚に自信のあった吉右衛門であるが、連日の逃避行は体力を奪い続けていた。
何よりも背中に受けた刀傷。
浅手ではあったが体が熱を発しており、意識を保つのが難しくなっていた。
(・・・ああ、これはいかん・・・)
吉右衛門の脳裏にはある風景が浮かんでいた。
主人、吉田忠左衛門の大きな背中であった。
(・・・忠左衛門様・・・)
手を伸ばす吉右衛門。
だが届かない。
(・・・何故、この吉右衛門を・・・)
声を出す吉右衛門。
だがその声も儚く消えてしまう。
(・・・連れて・・・行って・・・くれなかったのか・・・)
吉田忠左衛門の背中が消え、同時に意識も失ってしまった。
その手は力なく地面に落ちる。
男の名は寺坂吉右衛門。
赤穂四十七士の一人。
その最後の生き残りであった。
それは獣であったのか?
否、人であった。
しかし森の中を疾駆するする姿は獣としか思えないであろう。
・・・否、獣より恐るべき存在であった。
森が途切れ、川に出た。
月明かりが獣の如き人の姿を照らす。
二つの影は川沿いに移動する。
その速度が人のものではない。
(・・・ヌッ?)
先行する弥助は後続の与右衛門に片手で合図を出す。
何かが川岸に、いる。
それが人であるのはすぐに知れた。
(・・・間者か?)
真っ先に疑うべきは間者であった。
逃げるようであれば斬って捨てるのが常であるが、この場合は違う。
動かない。
否、動けないように見えた。
倒れ伏して動かない男の傍らに弥助が立つ。
与右衛門が短刀を抜いていた。
目の端でそれを確認すると弥助は倒れた男の体を改め始めた。
(若くはない・・・それに刀傷か・・・)
弥助の判断は早かった。
ここからならば野間之関までそう遠くない。
「どうすっとか?」
「野間へ担いで運ぶ」
「・・・オイがか?」
「オイがやる」
弥助は男の体に縄を掛け、手慣れた手付きで背中に担いだ。
そして川沿いを駆け始めていた。
与右衛門も続く。
弥助にとって男の体は軽かった。
彼等の姿を昼間に見たならば、猟師にでも見えたであろう。
だが違う。
彼等は薩摩国の国境を守る精兵であった。
短い作品になる予定です。