音楽祭に向けて 2
──まさか、照れてる? あのユリウスが?
いつも余裕たっぷりな兄の予想外すぎる反応に、私は戸惑いや驚きを隠せずにいた。以前ふざけて額にキスをしてきた時だって、満足げに笑っていたというのに。
「…………」
「…………」
けれどすぐに、経験豊富そうな兄が私の唇が少しぶつかっただけで照れるわけがない、という結論に至った。
そう思いつつも落ち着かなくなってきて、兄妹間には似つかわしくない、なんとも言えない空気が流れる。
この雰囲気を変えようと、笑顔を作り口を開く。
「あ、あはは、本当にごめんね! あれ、ユリウスったらもしかして照れてる?」
「……そうだよ」
「へっ?」
てっきり笑い飛ばされると思っていたのに、ユリウスはまっすぐに私を見つめ、そう言ってのけた。
まだその顔はほんのりと赤くて、調子が狂ってしまう。最近のユリウスは、おかしいことばかりだ。
「またまた、ユリウスほどの方が女性相手にこれくらいで照れてたら、困るのでは」
「俺のことをどう思ってるのか分からないけど、俺がこんなふうになるのはレーネにだけだよ」
「えっ? それは、その、なんかおかしくない?」
「おかしくない」
はっきりとそう言われてしまい、こちらがおかしいのではないかと思ってしまったくらいだ。人はシスコンが極まると、こうなってしまうのだろうか。
ユリウスはやがて、困ったように微笑んだ。
「すごくドキドキしたの、俺だけだった?」
「あ、当たり前でしょ」
「悲しいな。全部俺ばっかりで」
くしゃりと私の頭を撫でると、いつも通りの様子に戻った兄は再びヴァイオリンを教えてくれた、けれど。
それからしばらく、私の心臓は何故かとくとくと早鐘を打ち続けていた。
◇◇◇
「ねえねえ吉田、ここの問3なんだけど」
「そこは火魔法を元に考えるんだ」
「なるほど……」
「なんで魔石ってこんなに種類あるんだよ、吉田」
「俺に言うな」
「もう何が分からないのかも分からねーんだけど」
「分かる。あ、分からないのが分かるってことね」
「分からないのが分かる……難しいな」
「…………はあ」
数日後の放課後、私はヴィリーと吉田とともに空き教室で勉強をしていた。明日の朝、小テストがあるのだ。危険すぎる成績の私達は、二人で吉田に頼み込んで教えを乞い、今に至る。
音楽祭の練習もあり忙しいものの、勉強も手を抜いてはいられない。ちなみに放課後は勉強にあてるため、今日は昼休みの間にアーノルドさんとともにスパルタ練習をした。辛かった。
そして夕方になり、吉田大先生のお陰でひと通り復習し終えた私達は、何度もお礼を言った。明日はなんとかなる気がする。吉田の教え方はとても丁寧で本当に分かりやすく、とてもありがたい。
そろそろ帰ろうかと勉強道具を鞄にしまった私は、両手をぐっと伸ばして息をつく──はずが全身に筋肉痛が走り、苦しみながら机に突っ伏した。
「こ、このペースじゃ、あっという間に秋休みが来そう……」
「すげー分かるわ。最近、毎日が一瞬なんだよな」
1ヶ月後の秋休みには、なんとしてもアンナさんに会いに行こうと思っている。調べてみたところ、王都からパーフェクト学園のある第二都市エレパレスまでは、ゲートと呼ばれる転移魔法陣を使わなければ片道三日はかかるらしい。
ゲートに関しても誰でも使えるわけではないようで、明確な理由やツテがなければいけないんだとか。父や兄にお願いすれば何とかなりそうだけれど、間違いなく行きたい理由を尋ねられてしまうだろう。
記憶喪失設定の私には、良い理由が思いつかない。何より兄に言えば、ついてくると言うに違いない。アンナさんとの会話を聞かれるわけにはいかないし、それは避けたかった。
だからこそ、一週間しかない休みで行くにはギリギリ過ぎると悩んでいたのだけれど。
「お前、エレパレスに行きたいのか? うちの領地の隣だから俺と一緒に行けばゲートは使えるぞ」
「えっ?」
まさかのまさかで、ヴィリーと同行すればゲートは使えるという。ただ筆記の成績が悪すぎて、家族から夏休みの間ひたすら怒られ続けていたらしく、帰りたくないようだった。
それでも私としては、ぜひお願いしたい。
「……いよいよ、これを使う時が来たようね」
私はそう言うと、ペンケースの奥深くでヨレヨレになっていたノートの切れ端をスッと取り出した。
これは以前、ヴィリーが私の顔にカエルの内臓をかけてしまった件の謝罪の品としてくれた「レーネを助けてあげる券」だ。ずっといつ使おうかと悩んでいたけれど、間違いなく今だろう。
「うわ、お前よくまだ持ってたな。完全に忘れてたわ」
「ってことで、私をエレパレスに連れて行ってほしいの」
「まあ、いいぜ。こないだのこともあるしな」
「ありがとう……! よろしくね!」
これで、余裕を持ってエレパレスへ行けるはず。ほっとしつつも、ヴィリーと二人で旅行というのは危険な気しかしない。連れて行ってもらう立場で言うのもなんだけれど、普通に不安だった。
何より、年頃の私達が二人きりなのは色々とまずいだろう。あと一人くらい一緒に行ってくれる人がいればいいのに、と思った私はふと隣に座る吉田を見上げた。
「……ねえ、吉田」
「嫌だ」
「まだ何も言ってないよ」
「何を言うかくらい分かる」
どうやら、私の考えはお見通しだったらしい。わざわざ休み期間に私達二人の面倒など見たくないと、顔に書いてある。
「お願い、一緒に行こう! 後生だから!」
「嫌だ」
「私には吉田しかいないの! 捨てないで……!」
「そもそも拾った覚えもない。誤解を招く言い方をするな、バカ」
それでもひたすらに懇願し続けたところ、やはり優しい吉田は首を縦に振ってくれた。好きだ。
そうして秋休みは家族には内緒で、私とヴィリーと吉田の三人でエレパレスに行くという予定が決まったのだった。